1970年 横浜
「お子さんは、生まれても一時間と生きられません」
産婦人科医の言葉は三十五歳の恵美を打ちのめした。
夫の達也と十代で結婚して十八年になる。結婚した当初、達也は大工見習いで、恵美は横浜駅西口そばにある祖母の小さな弁当屋を引き継いだばかりだった。住居は六畳一間、築三十年の賃貸で、夜中になると天井裏をネズミが走り回っていた。バブルの最中ではあったが、二人は金に縁がなく、貧しかった。とはいえ、二人とも幼い頃からの貧乏暮らしで倹約には慣れていた。デートは近所の公園、贅沢は月に一度の映画鑑賞くらいで、少ない稼ぎの中から、毎月数万円を貯蓄していた。
達也は天涯孤独の身で、恵美も親族といえるのは祖母くらいのものだった。だから、二人とも子供ができるのを楽しみにしていた。ところが、結婚して三年が経ち、五年が経ってもできなかった。医者にかかっても、当時の医学では原因がわからなかった。タイミング法をはじめ、とれる限りの手段をとったが、妊娠はしなかった。
そのうち、彼らの友人たちも結婚し、子供が生まれはじめた。達也も恵美も友人らの前では笑顔で祝福したが、恵美は家に帰ってから泣いた。
だから、結婚して七年目に妊娠したとき、恵美も達也も泣いて喜んだ。しかし、その子は三ヶ月目に流れた。
さらに一年後、もう一度妊娠し、また流れた。
その頃、恵美の祖母が亡くなり、二人は本当に二人きりになった。
結婚十七年目、恵美はふたたび妊娠した。
今度の子供は順調に育っているようだった。
妊娠二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月、すべて問題なかった。エコーでは、とくだんの異常は見当たらなかった。
二人は恐る恐るベビーグッズを買いはじめた。おくるみ、おむつ、ベビーベッド、今度もダメかもしれない、そんな思いはあったが、赤ん坊が育ち、恵美のお腹が膨らむにつれ、希望も大きくなった。5ヶ月、6ヶ月、二人は子供との未来を描きはじめた。子供に名前をつけた。男とのだったら龍太、女の子だったら恵理だ。
妊娠7ヶ月目、検査の途中で医師が顔をしかめ、恵美は「また」そうなったことを知った。
赤ん坊は非常にまれな病気だった。
肺がうまく発達しないために、胎内から出れば呼吸ができずに死んでしまうのだ。
医師は、母体の負担を考えれば、いまの段階で「処置」することも検討すべきだと告げた。
恵美は一週間泣き続けた。
達也は何も言わず、彼女を抱きしめた。
恵美は布団から起き上がることもできない憔悴しきっていたが、お腹の中では赤ん坊が元気に動いていた。
恵美はまた泣いた。
二週間後、二人は医師に「生む」と告げた。
医師は頷いた。
そして、その日を迎えた。
七時間におよぶ産みの苦しみのあと、赤ん坊が出てきた。
医師は手早くへその緒を結束して切ると、すぐに人工呼吸器を赤ん坊の小さな口に当てた。手動式の呼吸器だ。医師が手を動かすのをやめれば赤ん坊は死ぬ。そして、呼吸器を動かし続けるにはたいへんな持久力が必要である。
赤ん坊の胸に貼られたセンサーからは、コードが伸びだし、医師の背後にあるモニターにつながっている。モニターはピッピと音を縦、電気表示の心電図が波を打っていた。
恵美は汗と涙でぐしゃぐしゃの顔で、我が子を抱きしめた。
「龍太、生まれてくれてありがとう」
小さな龍太は、呼吸器のはまった口で小さく泣いていた。その手は弱々しくも恵美の指を握りしめていた。
「ありがとう」
達也が恵美ごと龍太を抱きしめた。
達也も泣いていた。
医者や看護婦も泣いていた。
恵美が泣きながら笑みを浮かべた。
「ねえ、達也、龍太って、すごくかわいいね」
「ああ、すごくかわいい」
達也もぐしゃぐしゃの笑みを浮かべた。
龍太は一時間生きた。
恵美と達也はその一時間の間に一生分の愛を注いだ。
そして、医師に頷いた。
☆☆☆☆☆
2020年 横浜
「やっほー」
夕が喫茶店の扉をあけると、四人がけのテーブルに座っていた慧が気軽な調子で片手をあげた。
先日のホテルでの会食から三週間、彼女との距離はかなり埋まって来ている。
彼女の手にはまだハイドニックの戦いでついた傷が残っていたが、顔はすっかり元どおりだ。
テーブルの上には漢文辞典と学習参考書、ノート、文房具が所狭しと広がっていた。いかにテッド・バンディの知能を引き継いでいるとはいえ、長期間学校を休めば勉強せざるをえないのか。
まちこがカウンターの奥で顔を輝かせた。
「夕さん!」
彼女はエプロンをして、ティーカップに紅茶を注いでいた。手元を見ていないのに、カップがいっぱいになったところで、すっと注ぐのを止める。
「本当にいらしてくださったんですね!」
「うん、せっかくのお誘いだからさ」
殺人鬼狩りをする殺人鬼たちの根城「喫茶店」は、中区山手町、港が見える丘公園のそばにある。築何十年になるのか分からないほど古風な建物だが、内も外も徹底的に掃除され、磨き上げられ、気品すら感じさせる。柱や壁には直数千万円から数億円の絵画が飾られており、ちょっとした美術館ともいえた。
もちろん、喫茶店としての営業はしていないので、扉の外にはいつでもクローズの看板がぶら下がっている。
夕が前回ここにきた時は、まちこをのぞく喫茶店のメンバーから露骨に避けられ、とっとと帰れ!とまでいわれた。
だが、今日はまちこだけでなく、慧も友好的だ。
カウンターにはもう一人、瑠璃の姿があった。
二十代半ば、メンバーの中では〝肉体的に〟もっとも年上で、もっとも扇情的だ。今日は驚くほど丈の短い緑のワンピースを身につけている。すけるほど薄い布地が豊満な体にぴたりと張り付き、胸や臀部のラインがくっきりと浮き出していた。下着をつけているのか怪しいほどに、布地が食い込んでいる。
瑠璃が夕に向かって指をひらひらさせた。
「やっほお」
もう片方の手の指は、なぜかエロスを感じさせるような動きで、カウンターに置いた直径二十センチほどの水晶玉を撫で回していた。
「みなさん、こんにちは」
夕は一礼して中に入った。
キョロキョロと目線を動かす。
ほかのメンバーの姿はどこにあるのか。
慧がのびをしながらいった。
「今日はこんだけだよ。ユートンと愛はまだきみと顔を合わせる気になれないんだってさ」
まちこが紅茶を注いだカップを瑠璃に差し出し、新しいカップにまた注ぐ。
「でも、瑠璃さんは残ってくれたんですよ」
瑠璃が、んふー、といって紅茶を手元に寄せた。
「まあ、愛しい慧ちゃんにあれだけ頼まれちゃうと、一度くらいは頑張ってもいいかなって思えたからあ」
慧が彼女をにらんだ。
「瑠璃ねえ。誤解されるような言い方しないで」
「あら?」
瑠璃が慧と夕を見比べ、「あらあら、失礼失礼」と笑った。
瑠璃が夕を手招きし、横の席を指す。
「ま、いらっしゃいよ」
彼が座ると、彼女はじっと彼を見つめた。
彼女の目は深い空の色だ。髪は銀色。肌は色白なまちこよりなお白い。あきらかに西洋人の血が入っている。
彼女がすっと手を伸ばし、細長い指で夕の頬に触れた。
慧が「ちょっと」と小さな声をあげた。
瑠璃が頷いた。
「ほんとうに不思議なコなのねえ。わたしも長く生きてるけど、君みたいなのは見たことがないわ。前世ってものがまったく見えない」
そりゃそうだ。夕は思った。彼の前世は彼とは別の人格なのだから。
「すごく素敵ねえ」
「ちょっとちょっと」と慧。
慧のあせる様子からすると、瑠璃はよほどの前世をもっているらしい。しかし、不思議なことに「兄」が出てこない。相手が殺気を出しているなら、さすがにそろそろ表に来るはずだ。
瑠璃が、すいと顔を寄せてきたところで、まちこが二人の口の間に皿を差し込んだ。
「瑠璃さん」と冷たい声でいう。
瑠璃が「なによお、まっちゃんのケチンボ。減るもんじゃなし、ちょっと食べるくらいいいでしょ?」
「だめですよ」と、まちこ。「我慢を忘れたんですか? 瑠璃さんが〝した相手〟はたいへんなことになるんでしょう?」
「たいへんなこと?」
夕の問いに、いつまにか後ろに来ていた慧がいった。
「この人と寝た人は、この人から決して離れなくなるの。いつでもどんなときでもこの人を求めるようになる。家族を捨て、仕事を捨て、人生を捨ててこの人に尽くすようになるの。やがて、食事や排泄すら惜しむようになる。水の一杯すら飲まずに、この人を見つめ続けるの。最後には幽鬼のように痩せ細って、この人を愛する幸せのなかで死ぬ」
瑠璃が紅茶を一口飲んだ。
ため息をつきながらいう。
「わたしの愛が深すぎるのがよくないのかしら」
なるほど、夕は思った。道理で「兄」が出てこないわけだ。瑠璃はハイドニックと同じで、殺人を目的としたビルガメスではないのだ。もし、兄が出るとしたら、夕が誘いにのりかけたときだろう。
「伺ってもいいですか? 瑠璃さんの前世はどんな人なんです?」
「前世はロシア人だったわ。娼婦よ。天職だったんだけど、風紀を見出した罪で捕まって、二十歳でシベリアに送り。すぐに死んじゃった。その前の人生は男性だった。ロシア帝国で皇帝一家につかえてたの。知ってるかしら? グリゴリー・ラスプーチンっていうの」
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