ナイフの刃先は、オルゲトリックスの首筋の皮膚で止まった。
こいつ、肌が鉄でできているのか?
「人間、なのか?」
俺のつぶやきに、オルゲトリックスがニカッと笑った。獣臭い口臭が漂う。
「もちろん人間だ。ただ、俺はお前たちと違って身体をちゃんと操っているだけだ」
オルゲトリックスが俺の腕を掴み、無造作に折った。
信じがたい力だ。
俺は呻きつつ頭突きを繰り出した。額がオルゲトリックスの顔面に命中し、彼の腕の力が緩んだすきに、どうにか距離をとった。
オルゲトリックスが拍手する。
「すばらしいぞクロリアス。やはりお前には才能がある」
「あんたほどじゃないみたいだがな」
「いや、お前は認識が足りんだけだ」
「認識?」
オルゲトリックスが指を一本立てた。
「たとえば、お前はいまどうやって動いた? 足で床を蹴ったな? そのとき、お前は膝の動きを意識したか? くるぶしの動きは? 足の指は?
これはヒントだ。お前は注意深くならねばいかん。ものを食ったときの内臓の動きを意識しろ。まばたきの一度一度を把握しろ。ひとつの呼吸すら無駄にするな。そうすれば、お前はじき俺になれる。そして俺を殺しに来い」
じつに嬉しそうな声だ。こんな怪物を殺すより、闘技場で百勝するほうがまだ楽というものだ。
自由への壁は高い。
⭐︎⭐︎⭐︎
「俺はまだ奴隷なんだ」
オルゲトリックスが、対戦相手であるヌミディアのサザレスと名乗った黒人の頭を踏みつぶしながらいった。
オルゲトリックスが片手をあげると、コロセウムに入った三万の観客がどっと湧いた。三階層までぎっしり入っている。声はコロセウムの外からも聞こえていた。英雄オルゲトリックスの一挙手一投足を誰かが伝えているのだろう。あまりの声量に闘場に貼られた板の上に転がる犠牲者の小さな骨のかけらがカタカタと鳴った。
オルゲトリックスと食堂でやりあってから、すでに三年が経っていた。
この日は皇帝お抱えの拳闘団との二対二マッチだった。俺もオルゲトリックスも共に相手を瞬殺した。オルゲトリックスは今年で五十近いが、衰え知らずだ。筋肉は厚く、依然、肌には傷ひとつない。数十年にわたって戦い続けているのに、彼に傷をつけられるものすらいないのか。
俺は十七、過去三年間勝ちまくり、いまやローマっ子から「オルゲトリックスの双子」といわれるほどの人気を得ていたが、全身は傷だらけ。遠目に見れば、俺の方が歴戦の戦士のようだ。
もっとも、俺の傷の大半はオルゲトリックスによるものだ。
俺は真面目だった。自由を得るためならなんだってする。オルゲトリックスを殺すためならなんだってする。たとえ、そのオルゲトリックス自身のアドバイスだろうが喜んで聞き入れる。
オルゲトリックスを襲い。返り討ちにあい、傷が癒えるたびにオルゲトリックスを襲った。都度、さらに強くなるための教示を受けた。俺の努力にオルゲトリックスの血を引く肉体は答えた。
俺の現在の勝ち星は六十四勝。
これはオルゲトリックスおよび、たったいまオルゲトリックスの足元で頭部を砕かれたヌミディア人を除けば、現役闘士の最高記録だ。
ほかの兄弟?
俺より年上のものはみな闘技場で死ぬか、再起不能となって属州の鉱山もしくは農場へ送られた。もしくは、オルゲトリックス自身に恐れをなし、自ら鉱山送りを望んだ。
コロセウムでは地鳴りのような歓声が続いている。
俺はオルゲトリックスにいった。
「またそういう話かーー」
俺はやつにパンチを見舞った。
オルゲトリックスはひょいと首を曲げてかわした。
観客がさらに沸く。
ローマっ子は、俺たちの関係をよく知っているのだ。
父と反目する息子、オルゲトリックスにかかった賞金を狙う唯一の男。
オルゲトリックスが赤い髪の毛をかいた。
「いまのはよくない。言葉を途中で切っては、これから襲うといってるようなもんだ」
「次からは気をつける。で、あんたが奴隷っていう話は? またいつもの自由の話か?」
「うむ。気付いたんだ。いま、あそこで俺たちを見ている男が、ふと思ったとしよう。闘技場にいる赤毛のガリア人は気に食わん。するとたちどころに近衛兵たちが雪崩れ込んでくる」
オルゲトリックスが皇帝特別席に目を向けた。
コロセウムの上部を覆う日焼け布の隙間から差し込んだ光が、ひときわ派手な虹色の天幕を神々しく輝かせている。ここを設計した技師は何もかもを計算し尽くしている。
俺はいった。
「あんたなら、完全武装の近衛兵百人でも皆殺しにできるんじゃないか?」
「百人程度ならな。だが、それ以上はなんともいえん。つまり、俺の生殺与奪は俺ではなくあの男が握っているということだ。俺の中では、他人に命を握られたものはすべからく奴隷だ。自由からは程遠い」
「あんたなら、一個軍団二万が相手でも楽勝だよ」
「はっはっは!かもしれんな。つまるところ、俺が真に自由なのかどうかは試してみなければわからんということだ」
オルゲトリックスが天幕に向かって片膝をついた。
「結局、今現在、俺が俺の主人でないことは明らかだ。自分自身の主人である男が、こんなふうに他人に膝をつくか?」
俺もオルゲトリックスにならう。
皇帝が特別席の天幕の下から出てきた。
紫のローブをまとった線の細い男だ。
彼が両手をあげると、ローマっ子たちがさらに湧き上がった。
俺はいった。
「あんた、いまなにを考えてるんだ?」
オルゲトリックスが顔をうつむけながら歯を見せた。
「事実に気づかなければ放っておくこともできた。だが、俺は気づいた。である以上、やるしかないだろう」
皇帝が特別席前の階段を使って、闘場に降りてくる。護衛兵十二人がそれに続く。
オルゲトリックスがいった。
「クリアロス、喧嘩の用意はできているか?」
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