検見川慧は右手と水道管をつなぐ手錠を見つめた。
懐かしい品だ。連邦捜査局がかつて採用していた鉄製の代物。ゴリラでも絶対に千切れないという触れ込みだった。
抜け出そうともがいたせいで、手首の皮は擦り切れ、血がにじんでいた。
天井の白熱電球がジジっと音を立てる。
天井も壁も打ちっ放しのコンクリートだ。頭上から落ちてきた水滴は、最終的に部屋の中心部にある穴に吸い込まれる。
彼女を監禁した男は、さきほどから穴掘りに精を出していた。床板を割り、コンクリを剥がし、ツルハシとスコップで休むことなく土をかきだしている。穴の横の土の山は、すでに冷蔵庫ほどの高さになっていた。
土塊のそばには、水の入ったバケツが五つ。
男がそれをどう使うのか。
こちらを溺れさせる気なのか、それとも土で汚れた手を洗うためなのか。
彼女としては後者であることを祈るしかなかった。
恨めしい思いで、もう一度手錠を眺める。
これさえなければ、どうとでもなるのに。
ふと、数日前に見た夢が頭をよぎった。夢の中でも、この手錠を見たのだ。
ただし、彼女は手錠を使う側だった。
☆☆☆☆
「すいません、ちょっと手伝ってもらえませんか?」
テッドは包帯を巻いた左手をかざしながら、メアリー・フレッドソンにいった。
真っ赤に燃える楓を背景に、彼女は溢れんばかりの魅力で輝いていた。シアトルの名門、ワシントン大学の教養学部に通う十八歳。淡いブラウンの瞳に、高い鼻筋、白い歯、長い黒髪をセンターで分けている。
テッドは路肩に置いたダンボールを、足でつついた。表面にはSONYのロゴ、ブラウン管テレビの絵柄、ダクトテープで厳重に梱包してある。
「さっき、ガレージセールで買ったんだ。車に積みたいんだけど、どうにもうまくいかなくてね」
彼はそういって、脇に止めたダットサンに首を振った。先週、街のはずれにある中古車屋兼解体業者から三百ドルで購入したものだ。十万キロほど走っており、バンパーは凹んでいるし、多少サビも出ているがエンジンは新車かと思うほどよく回る。
メアリーが、引き締まった腰に手を当てた。朱色のワンピースの裾が揺れる。
「そんな怪我をしてるのに、どうやってここまでテレビを運んだの?」
「大学の寮で同室のやつ、ボビーっていうんだけどさ、いまさっきまでそいつと一緒だったんだよ。ボビーの野郎、彼女とのデートの約束を忘れてたとかで、このSONYを置いて帰っちまったんだよ。まったく、こんな重い代物を片手で持てるわけないだろうに」
「あら、あなたも大学生なの? どこの大学?」
「スタンフォードさ。経済学部だ。君はワシントン大だろ?」
「正解、よくわかったわね」
「君からは知性の香りがするからね。いや、冗談。君が胸元につけてるブローチ、それ、ワシントン大のソロリティのメンバーだけがつけられるやつだろ? たしか、ファイ・デルタとかいう。以前、“知り合い”に見せてもらったことがある」
彼女が笑った。きれいな歯がのぞく。
「ネタをバラさなければ感心してあげたのに」
「そうか失敗したな。次に君に声をかけるときはバラさないでおくよ。ところで、よかったら一緒に持ち上げてくれないかな?」
二人は一緒にダンボールを持ち上げると、ダットサンのトランクルームに突っ込んだ。大きすぎて、トランクの蓋が閉まらない。
テッドは汗をぬぐっていった。
「ありがとう。よかったら乗っていかないか? コーヒーでもごちそうするよ」
「あら、ひょっとしてナンパだったの?」
「いや、君が車に乗ったら、まず俺のアパートメントの前につける。そうして、二人でテレビを家の中に運んでから、建物の一階に入ってるスターバックスでコーヒーを一杯ごちそうするつもりなのさ」
「またネタバラシしちゃったわね。でも、そういう正直なところ、嫌いじゃないわ。授業までもうちょっとあるから、つきあってあげる」
彼女は微笑みながらいうと、助手席に滑り込んだ。ミニのワンピースのすそから形の良い脚がすらりとのびる。
歩道で犬を散歩させていた老人が、眩しそうに彼女を見つめた。
これがメアリー・フレッドソンが目撃された最後の場面だった。
☆☆☆☆☆
太陽が山の端に沈みかけていた。
ふもとの方では、シアトルの街並みにポツポツと灯が瞬き始めた。
メアリーがいった。
「ねえ、道に迷ったんだったら、そろそろUターンしようよ」
テッドはしょぼくれかえった声でいった。
「ほんとにゴメン。まさか高速の降り口を間違えたどころか、こんなとこに来ちゃうなんて。そこの空き地で車の向きを変えよう」
彼は、ダットサンを草だらけの農道に導いた。タイヤが小石やわだちに乗り上げ、車体が揺れる。
「ちょっと、ちょっと!」
メアリーがダッシュボードにしがみつく。
舗装道路から百メートルほど入ったところで、彼はギアをパーキングに入れた。
大人の背丈ほどもあるトウモロコシが周囲を囲んでいる。耕作放棄地らしく、トウモロコシはどれも醜く立ち枯れていた。
メアリーの反応は思いのほか早かった。
彼女は素早くドアを開けると外に飛び出し、草だらけの農道を逆走した。
テッドも後を追う。
彼は日頃から体を鍛えている。カラテとジュードーのスクールに通い、朝晩には五キロのジョギングを欠かさない。いま履いているのもジョギングシューズだ。
だが、パンプスを履いた、ただの女子大生は早かった。下草が裸の足首を切り、小枝が二の腕を叩いても気にも留めない。野生のキツネやウサギのようにがむしゃらに足を動かしている。
舗装路が見え始めたところで、テッドはようやく追いついた。ワンピースの襟首をつかんで地面に引きずり倒す。彼女はトウモロコシの枯れ茎の上に転がり、乾ききった茎が軽やかな音を立てて折れた。彼女の長い髪に、ミイラのようになったトウモロコシの粒が絡みつく。
彼は彼女に馬乗りになると、その整った顔に左拳を叩き込んだ。
それでも彼女はひるまなかった。目に涙をにじませながら、体をくねらせると、彼の下から抜け出し、彼の左手方向に向かって走ろうとした。
彼の左手は包帯がまいてある。そちらに逃げれば、瞬時に反応できない。そう考えたのだろう。
負傷しているはずの手はすばやく反応し、彼女の黒髪を掴んだ。
彼女の瞳に絶望の色が宿った。
彼は髪の毛とワンピースの胸元を掴むと、彼女を背負った。手の中で髪がちぎれる感覚があった。
彼女は受け身なしで地面に激突した。
横隔膜がせり上がり、肺から空気が抜ける 。綺麗な歯を見せながら、金魚のようにあえぐ。
彼は懐から手錠を取り出した。地域青年団の自警グループで使用しているものだ。連邦捜査局の手錠と同じ仕様で、信頼性はお墨付きだ。
彼女の両手を後ろ手に拘束すると、転がして再び馬乗りになった。
☆☆☆☆☆
月明かりが彼女の顔を照らしていた。
さきほどの殴打で、美人が台無しだ。それに目、昼間のいきいきした輝きは消え、かわりにどんよりとした諦めが陣取っている。
彼は背筋が泡立つほどの興奮を覚えながら、拳を振り下ろした。一度、二度、三度。五分ほど殴り続けると、彼女は動かなくなった。
ナイフを取り出し、ワンピースを切り裂く。これからが本番だ。
そのとき、妙なことに気づいた。彼女の傍にソロリティのメンバーブローチが落ちている。だが、彼女の胸元にはまだそれがついている。
少し考えて、彼は思い当たった。落ちている方は、三日前、この同じ場所で楽しんだときのものだ。さほど器量の良い女ではなかったが、あのとき聞いた話のおかげで、このメアリーが釣れたのだ。
彼はひとりごちて、お楽しみに戻った。
メアリーはかつてなく彼を満足させた。
☆☆☆☆
検見川慧は幸福感に包まれて目を開けた。
見慣れた自室の天井が視界に入る。LED電灯から伸びた紐の先には、バナナ型の小さなぬいぐるみがぶら下がっていた。
彼女は体を起こすと、両手を見つめた。ついさきほどまで、その手はテッドのものだった。メアリーを殴り、レイプし、血と臓物にまみれていた。いまはほっそりとした自分自身の手に戻っている。
覚醒するに従って、幸せな気持ちは心の奥底に消え去り、陰鬱な煙が湧き上がってきた。さきほどまで股間にあった〝モノ〟の感覚が薄れ、かわりに胸が存在を強調する。
夢に見るたび、自分がテッド・バンディだったことを思い知らされる。数十年前に全米を震撼させた連続殺人鬼。とっくの昔に電気椅子で黒焦げになったが、その魂は日本に飛び、彼女、検見川慧として生まれ変わった。
カーテンを開くと、日光がざくりと目に刺さった。視界が白に染まり、じょじょに景色が形を成す。
彼女の家は横浜市保土ケ谷区の高台にある。窓からは、斜面に張り付くように並ぶ、横浜特有の街並みが見渡せた。窓のすぐ下を走る路地は、ふもとを走る相鉄線星川駅から、横浜国立大への近道となっている。今朝も大学生たちが息も絶え絶え、坂を登っている。
相鉄線の向こう側には、また丘が始まり、こちらがわと同じような住宅街が広がっている。再開発中だからか、小奇麗なマンションが多い。
その一つに、湯河原夕が住んでいる。
高校のクラスメイトだ。見た目は普通、成績は中の中、マラソン大会の順位は男子百五十人中百二十五番。仲の良い友達は五人か六人。服装は量産型の男子高校生、なにか特徴があるとすれば髪の毛が少しだけ長いくらいか。
何もかも普通の少年だが、そのじつ、彼女と同じ、死んでも記憶を継続できる〝ビルガメス〟だ。彼の「普通」は擬態にすぎない。彼の中には、現代に至るまでの数十の前世すべてが、独立した人格として存在している。それを統率するのは、最初の人格“兄”だ。殺人鬼に堕ちたビルガメスを狩る殺人鬼。絶対的な能力と経験の持ち主。
彼女は拳を握りしめた。
“兄”にいわれた言葉が頭の中を巡っている。
わたしには「狩り」ができない?
そんなことはない。
日常生活では殺人衝動もどうにか抑えられているし、運動神経は並の男性よりずっと上だ。いざとなればテッド時代に身につけた格闘技もある。いや、でも、テッドの力を使えば、それだけ彼に近づいてしまうわけでーー。
「もう!」
彼女は叫んで、もう一度寝転がった。
以前ならば、こうやって大声を出すと、すぐに階段を駆け上がってくる音が聞こえた。扉が開き、姪の悠が飛び込んでくる。
だが、家の中は嫌になるほどしずまりかえっていた。
悠と、その母である彼女の姉はもういない。彼女の本性を知り、海外へ引っ越したのだ。
沈黙を噛み締めていると、携帯が震えた。
夕からのラインだった。
〝おはよう。登校したら少し時間もらえるかな? 兄さんが話したいことがあるって〟
彼女はスマホをソファに投げた。
飲みかけの〝世界のバリスタ〟を一口含み、姿見の前に立つ。身につけているのはパンツとおやすみブラだけだ。
夢の中のテッドとはまるで違う自分がいた。
身長百七十センチ、体重五十六キロ、胸は小さくスレンダーな体つきだ。テッドは百八十五センチ、体重八十キロはあった。
顔は小さく、目は切れ長。色は黒。テッドのは薄緑だった。
前世のおぞましい記憶が蘇ってきたのは、中学に入ってからだ。それ以来、目覚めるたびにこうして自分自身を確認するのが儀式となっている。
わたしはテッド・バンディじゃない、検見川慧。
わたしはテッドじゃない。
呟きながら、自分の体を目視し、手で触る。
長い髪をなで、胸を揉み、臀部をなでたところで、ようやく心が落ち着いた。
シャワーを浴び、制服に着替え、一人食卓につく。以前は姉が品数豊富な朝食を作ってくれたが、いまは山崎パンの「芳醇」をトースターで焼くだけだ。
さくりとパンに噛み付く音が、誰もいないキッチンにむなしく響いた。
家を出て、丘を下り、星川駅から相鉄線に乗り込む。車内には彼女と同じ女子高生が多い。みなミニのスカートから健康的な太ももをだし、楽しそうにおしゃべりに興じていた。
「おはよ!」声に振り向くと、クラスメイトの小金井清美がいた。
一年生にしてバレー部のエース。慧と同じくらい背が高い。それでいて頭は小さく、肌は透き通るようだ。噂では横浜駅前で読者モデルとしてスカウトされたということだった。今日は髪をセンターパートにしているせいか、少し真面目な印象だ。
電車に揺られながら、恋話の花が咲いた。
清美が焦がれているのは、いま、この車内に乗っている他校の男子だ。彼女らから五メートルほど離れたところで吊革を握っている。
顔はよく、身体も均整がとれている。清美が調べたところによると、名前は七王子。彼女らの二つ上。通っている高校では生徒会長を務めている。成績抜群。柔道部に所属し、昨年のインハイでは全国三位だったという。趣味はボランティアで、ホームレスに炊き出しを行なっている。それがマスコミに取り上げられて、ついたあだ名が〝炊き出し王子〟。
校内にはファンクラブまであるらしいが、いま特定の恋人はいない。
清美は「いちかばちか告白してみようと思うの」といった。
清美の瞳は、溢れんばかりの自信に輝いていた。自分自身が美しいと知っている人間のそれだ。世の中に何一つ負い目を持たず、つらい過去もない。人生は何もかも上手くいく、そんな確信を持っている。
慧は小さく唾を飲んだ。
清美を犯したらどんな反応をするのだろうか。学校のそばに打ち捨てられた公団住宅がある。あそこに誘い出し、殴りつけ、手錠で水道管にでも拘束する。そのあと、思う存分ーー。
「どうしたの?」清美がいった。
「なにが?」
「その、急に目つきが変わったからさ」
「ええ? なにそれ?」
「なんか、いきなり優しげな感じになったというか」
「わたしの心の半分はバファリンでできてるからね」
慧はケラケラ笑いながら、湧き上がった吐き気をこらえた。
「お前には無理だ」
「兄」の言葉が頭をよぎる。
彼女は唇を噛んだ。
違う。
わたしにはできる。
きっとできる。
いまは、過去に呑み込まれることもある。
でも、訓練を重ねればきっとできるようになる。
自分を律し、前世を乗り越え、前世の罪を償うのだ。
テッドのような殺人鬼の手から、人々を救うことでしかわたしは赦されない。
わたしと同じ悪魔から、清美のような存在を護るのだ。
彼女は横目で、清美が焦がれる王子様を眺めた。
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