乃木山誠こと、リップスティック・キラーこと、ウィリアム・ハイレンズは、リズミカルに地面を踏んだ。靴の下で、潰れた空き缶がカチャカチャと合いの手を入れる。
彼がいるのは雑居ビルに囲まれた小さな空き地だった。もたれている壁の向こうはパチンコ屋だ。コンクリを通して『北斗の拳』のテーマが伝わってくる。右の壁は安売りで有名なドラッグストア、窓は閉じられているが、店の名前を連呼するテーマソングが耳をつんざかんばかりに響いている。
この空き地の出入口は、風俗店のビルと麻雀屋のビルの間にある、四十センチほどの隙間だけだ。痰とヘドと小便で汚れ、ガタガタ揺れる七台の室外機が熱気を吐き出し、汚臭をかき混ぜる。そんなところに、わざわざ踏み込む物好きはいない。ハイレンズにとって、この空き地は絶好の〝遊び場〟だった。
「うるさくて悪いね」
彼はそういいながら、“獲物”の少年の右手にかけた手錠を、パチンコ屋のビルの鉄の雨樋につないだ。
少年は泣き叫ぶでもなく、彼を見つめている。何がなんだか分からないといった風だ。
その顔を見つめるうちに、ハイレンズのなかに堪えようのないマグマのようなものがせりあがってきた。
なんと〝そそる〟のか。
ボクの性対象は女のはずなのに。
ハイレンズは少年を指差した。
「混乱しているところ悪いんだけど、君のことを教えてくれないかな? どこの誰なんだい? 何月何日生まれ? 両親はどんな職業? ガールフレンドはいる? 好きな食べ物は? 自慰をするときは右手と左手どちらを使うの?」
少年が首を横に振った。
「答えたくありません」
なんと劣情を誘う声だ。
少年が続ける。
「人にものを尋ねるなら、まずは自分から話してください」
ハイレンズは頷いた。
「こんな状況なのに、随分と落ち着いてるね」
「まあ」
「質問は、ボクが誰か、かあ」
彼はその場にしゃがむと、小石の間を歩いていたアリを摘み上げた。
「半年ほど前かなあ。“ぼく”はこうした」
彼が拳を握り、アリは指の間のシミに変わった。
「なんで潰したくなったのかはわからない。ただ、なんとなく気分は良くなった。三日後には、目につくアリを片端から潰していたよ。うん、自分でもやばいと思った。いつのまこんなストレスを抱えていたんだろうって。それで、アリを殺すのはもうしない!って誓ったんだ。
次の日、ぼくはコオロギを捕まえると、足をちぎり、逃げられなくなったそいつをすり鉢で潰した。
もう止められなかった。
対象はペットショップで買った金魚になり、ヒヨコになった。それからハムスターだ。さすがにしばらく衝動が収まったよ。三日ぐらいは何も殺さなくて済んだ。
それから、衝動はもっと強くなって戻ってきた。
ぼくは猫を狙った。〝なんてかわいいんだ!〟と思いながらナイフを振るった。
次は犬だ。保健所から何匹か引き取ってきた。これは軽率な行動だった。あとから知ったけど、複数匹引き取るのは目立つんだ。
楽しんでから、三日ほどたったころ、アパートの部屋でゴロゴロしていたら、呼び鈴が鳴った。
ドアの外にいたのは保健所の若い女性職員だった。多頭飼いのアドバイスをするために、わざわざ寄ってくれたんだ。
ぼくは動揺した。楽しんだのがバレたら大変なことになる。なのに、どうしたわけか、ボクは彼女を招き入れた。
ぼくは彼女を座布団に座らせた。
彼女は少し太めでね、座布団が大きく凹んだ。大きな耳たぶにつけたリンゴのイヤリングが、妙に毒々しく見えた。
彼女が『ワンちゃんたちは?』と尋ねた。
『いま、実家にいるんですよ。親が一晩面倒をみたいっていうんで』と、ぼく。
彼女が『あるあるですね』といった。
彼女は鞄から犬の飼いかたについて書かれた本やパンフレットを取り出した。で、彼女なりの多頭飼いのコツを話し始めた。
ぼくはあわててコタツテーブルの隅にあった大学ノートとペンを手にした。
開け放していた窓の外から、ひばりの鳴き声が聞こえたよ。四月の柔らかな風が入ってきた。
メモしていると、いきなりペン先の動きが止まった。
ぼくの右手がゆっくりとペンを握り直した。そして、ごく自然に、先端を彼女の喉めがけて突き出した。
ぼくは衝撃を受けた。
何ら動揺しない自分に衝撃を受けたんだ。犬や猫とはわけが違う。人間をやった。なのに、恐れも悔恨もなく、ただ、すがすがしさだけがあった。
ぼくはいったいどうなったのか。
答えは与えられた。
右手が動き始めたんだ。手は、血に染まったペン先で、ノートに“目覚めた”と綴った。ただし、英語で、ね」
ハイレンズは空き地のなかで、少年に向かってニヤリと歯を見せた。
「どうかな? 〝ぼく〟だったころの記憶を紐解いてみたんだけど。いまのが、〝ボク〟が、明確にこの世に戻ってきた瞬間さ。ボクの記憶は思春期以降、少しずつ蘇り、現世人格の〝ぼく〟に溶け込んだ。一時的に二重人格になったこともあったけど、いまはこの通り、元のボクさ。一昨日までは〝ぼく〟の残滓が右手を動かすこともあったが、いまや完全に一つだ」
少年が目を細めた。
「で、あなたは誰なんです?」
「だから、殺人鬼だよ」
「え」
「ニュースを見ていないのかい? ボクが〝リップスティック・キラー〟だ」
「あの女性を殺して回ってる?」
「そうだよ」
「リップスティック・キラーの真似をしてる人じゃなく、本人?」
ハイレンズはため息をついた。
「こんな状況で、こんなに質問されるのは初めてだよ。だいたい、きみも少しは答えたらどう? そうすれば、その間は、間違いなく生きていられるんだからさ。ほら、まず家族構成から教えてもらおうかな。ご両親は何をしてるんだい?」
「親はいません。兄が親代わりです」
「泣かせるね。兄弟仲はいいのかな?」
「たぶん。いつも、〝お前は絶対に俺が守る〟っていってます」
「格好いいね。ヒーローみたいだ」
「ヒーローとは少し違うんですけど」
「そうだね。ヒーローなら弟がこんな目に遭っていたら飛んでくるだろうからねえ」
ハイレンズは鞄から百均で購入した果物ナイフを取り出した。安物の果物ナイフは適度に切れ味が悪いので、長時間楽しめる。
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