この言い方、相当の有名人なのか?
夕はゆったりと頷いた。
まずい、聞いたことがない。カミーユ姉さんに代わるべきか?
慧がいった。
「ラスプーチンは帝政ロシアを滅ぼす一因になった聖職者よ。貧しい農民の子として生まれ、成人後に聖母マリアの天啓を受けて、神の道に入ったの。ただ、独学で教義を深めたせいで、本来のそれとは異質なものだったらしいけどね。開発されたばかりのアスピリンを使って、病人に〝奇跡〟を施し、名を高め、病弱な皇太子の治療を引き受けたことを縁に、皇族に取りいったの。そして、宮中の女性という女性を神の愛で虜にした。彼のなかの神は、性行為を通して愛を与えることを良しとしてたみたいね。朝、侍女二人に食糧庫で愛を与え、昼は有力貴族の妻に自室で愛を与え、夕には皇帝の妻や娘にまで与えたの。当の皇帝は彼のカリスマに心酔してふぬけになり、宮廷は荒れに荒れたわ。やがて、一部の有志がラスプーチンの暗殺に踏み切った。わたしが、いえ、前世のわたしが獄中で読んだ本によれば、彼は刃渡り二十センチを超えるナイフで刺されても平然とし、銃弾を頭部含め八発撃ち込まれても死なず、最後は真冬の川に放り込まれてようやく凍死したらしいわ」
瑠璃がうんうん頷いた。
「そうそう、その通りなのよお。慧ちゃん、よく知ってるわねえ」
慧が「いやいや、銃を頭で撃たれても生きてるのは無理でしょ」というと、瑠璃は「わたしはベテランのビルガメスだから、普通の人より痛みに強いんだ」と笑った。
「話半分に聞いといて」と、慧。
夕はいった。
「でも、そのラスプーチンがどうしてここで正義の味方をしてるんですか?」
「それはもちろん贖罪よ。わたしのせいで帝政ロシアが倒れて、そのあとはもうすんごいことになったんだから。赤軍と白軍が互いに殺し合うわ、ソビエトができたと思ったらナチスが攻めてくるわ、そのあとはスターリンが大虐殺するわ。負うことになった重すぎる罪を償うためにここにいるの」
「またそういう適当なことを。ほんとは巡さんが目的のくせに」
瑠璃が自分の頭を叩いた。
「えっへっへっ。わたしは大勢の人に愛を与えてきたけど、与えられたのはあの人が初めてだったからさあ。そういえば、君、ちょっとあの人に似てるね」
瑠璃はそういうと、夕の手を取った。
彼女の指は、恐ろしく柔らかな肌触りだった。
彼女は「どうかなあ」というと、彼の手を自分の豊満な胸元に引き寄せた。
あと少しで乳房に触れる、というところで。
「ちょっと!」と声が響き、慧が夕の手を弾いた。
夕の手はカウンターのうえにあった水晶玉に当たり、水晶玉はコロコロ転がり、落ちた。
まちこが「あっ!」といって手を伸ばしたが、それをすり抜け、ゴスン!と鈍い音をたてて粉々に砕けた。
「ええー!」瑠璃が立ち上がった。「ひどおい!なにするのよお!」
慧が小さくなる。
「ご、ごめん。でも、いまのは夕が」
「え?ぼく?」
「きみがエッチなことをしようとするからでしょ!」
「でも、瑠璃さんが」
「なにいってるのよ、のりのりで従ったくせに」
瑠璃が両手をあげた。
「二人ともやめて。こわれちゃったものは仕方ないんだから。二人で弁償してくれれば、別にいいからさ」
「弁償?」と、慧。
「そう。山梨県乙女鉱山で七十年前に産出した最高の結晶を、いまはもう亡くなった名人が磨き上げた逸品だったんだから。百二十万円もしたのよ」
夕は口を開けた。
「ひゃく、にじゅうまんえん?」
「商売道具だから。それくらいのものを使わないと、占い師としての格が落ちちゃうの」
「そ、そんなの払えっこありませんよ」と、夕。
慧がさらに身を縮めた。
「あたしも」
「まったく、仕方ないわねえ。それじゃあ、わたしの店を手伝ってもらうからね。水晶のかわりに、あなたたちがムードを出すのよ」
夕と慧は顔を見合わせた。
カウンターの奥からまちこが声をかけた。
「あの、誰か、わたしが水晶を片付けるのを手伝ってくれてもいいんですよ」
☆☆☆☆
「お客さんは来るんですか?」
夕は裸の上半身に、薄いストールを巻き付けながらいった。
彼らがいるのは、横浜の古びた商業ビルの屋上に建てられたオンボロ小屋だった。小屋の屋根には平仮名で大きく「うらないのやかた」と看板が出ている。もともとは屋上遊園地にある子供向けアトラクションとしての占い師小屋だったのだ。小さな窓の外には、安っぽい魔女の人形が、関節をきしませながら手招きしている。
屋上遊園地そのものは既に営業を終え、ゴーカートや小さなメリーゴーランドには青いビニールシートがかぶさっている。
夕の言葉に、隣に座っている瑠璃が、絹布を張った扇で彼のストールを仰いだ。布地が揺れて、鍛え込まれた腹筋が露わになる。
「もうすぐよお。うーん、それにしてもいい体してるのねえ。さすがは〝怪物〟ねえ」
そういう瑠璃は、ベリーダンサー風の衣装だ。乳首が見えそうなほどギリギリの民族系胸当て、腹はチラ見せ、派手な腰巻のすそから生足が伸び出している。
ほぼ同じ格好で、瑠璃を挟んで夕の反対側に座っている慧が、手にした天秤で胸元を隠した。
「ほんと、なんなのよ、この格好」
「あら、演出よ、演出。あなたたちはわたしに使える運命の神。あなたたちの力で、わたしはより深く過去と未来を見通すの」
夕はいった。
「ビルガメスは、そんなことができるんですか?」
「本当に見るわけじゃないわよお。ただ、人はみな転生して前世のことを忘れたように見えても、記憶はちゃあんと魂の奥底にあるってだけ。ふだんは思い出せないけど、適切な誘導があれば、引き出せるって寸法よ」
瑠璃が、目の前のテーブルに置いたボード版をかるくたたいた。
ボード中央部には古びたコインが置かれ、そのまわりに、アルファベットがぐるりと円を描くように記されている。その外側には、数字がゼロから9まで描かれていた。ボード上のあいたスペースには少し不気味な怪物や天使の絵が描かれていた。
「これは、ヴィジャボード。ようは西洋版こっくりさんよお。中央のコインに、わたしとお客さんが指を置く。そしてわたしがお客さんの前世について質問すると、コインが勝手に動いて答えてくれるってわけ」
「勝手に動く?」
「もちろん、じっさいに動かしてるのは本人よ。でも無意識の行動だから、自分が動かしてるとは夢にも思わないわけ。どう?よかったら少しやってみる? はじめの予約時間まであと五分くらいあるから」
「遠慮しときます。どのみち、ぼく自身には前世がありませんから」
「そう?」
瑠璃は残念そうにコインを弄んだ。
まもなく、屋上の端にあるエレベーターが開いて、この日、一人目の客がやってきた。
痩せぎすな大男だった。蒸し暑い熱帯夜だというのにギラギラした布地のスーツを着込んでいる。顔には眉がなく、髪もない。骨張った手は、右も左も小指がなかった。
「あらあ?」と、瑠璃が首を傾げた。
男は占い小屋の扉を開いた。
エアコンの冷気が外に逃げ、かわりにもわっとした熱気が入ってくる。
「邪魔するよ」
男はそういって三人を見下ろした。
本当に大きい。二メートルはあるだろう。
瑠璃が手元のノートを開いた。
「いらっしゃあい。ええと、あなたが山神ガン次郎さん?」
「おう」
「ふふ、わたし、あなたのご職業、わかっちゃった。あれでしょ?ヤクザさん」
うわあ、と夕は思った。
瑠璃も慧もこの大男を前に平然としている。ビルガメスにとってはこのような相手でも小僧同然といった風だ。
山神ガン次郎がいった。
「ご名答だ。なら、俺が来たわけもわかるな?」
「ええ」
「なら、話がはええ。昨日、舎弟が伝えた通りだ。しょば代はあがりの三割だ。あと、ここはちと殺風景だからな。観葉植物のリースなんかどうだ?こっちはあがりの一割でいいぜ」
「いいえ、違うわ。あなたはそんな話をしに来たんじゃない」瑠璃が長い指で山神を指した。「あなたは占ってほしくて来たのよ」
「はあ?」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!