皇帝と十二人の護衛が近づいてくる。
俺もオルゲトリックスも、皇帝から何度もお褒めの言葉を直に頂戴している。二人ともコロセウムの英雄で、民衆の神だ。皇帝と神の関係は常に良好であらねばならない。ただし、皇帝はいつでも気分次第で神を殺すことができる。たぶん。
皇帝がいった。
「やあオルゲトリックス、今日も見事な戦いぶりだったね。ぼくの筆頭拳士がこんなかんたんにやられちゃうなんて夢にも思わなかったよ」
皇帝は若い。歳は二十五。十六足らずで先代皇帝から養子、つまり次期皇帝に指定された麒麟児だ。彼の本当の父は貴族階級とはいえ、資産はごくわずか、所有する奴隷はなく、騎士階級から金を借りて窮状をしのぐ有様だった。ギリシア語の家庭教師も付けられず、貴族の子弟のたしなみである馬術の訓練すら付けられなかった。それがどうしたことか、この麒麟児は教科書を一読しただけで、ギリシア語、フェニキア語、ケルト語はいうにおよばず古代エジプト語やペルシャ語までもを堪能に操った。馬にのせれば軍の騎兵隊以上。そしてなによりも圧倒的なカリスマ。前皇帝の情報網にひっかかると、おそろしい勢いで序列を駆け上がった。
即位後は、税制改革に成功して財政を立て直し、主要街道の改修、ゲルマン族の平定、諸外国との貿易均衡等、あらゆる難事を解決し、我が国に未曾有の繁栄をもたらしている。
オルゲトリックスがさらに深く首を垂れた。
「わたくしなどまだまだにございます。勝利はヤヌスが味方してくれたゆえでしょう」
俺はつばを飲んだ。
本当にやる気なのか。
ここにいる十二人の護衛は有力貴族の子弟による名誉職に過ぎないが、そのあとは周辺に控える完全武装の近衛兵団を相手にすることになるのだ。ローマ正規軍は一兵卒に至るまで鍛え上げられている。我々が神か悪魔に魅入られた存在だといえ、容易く打ち破れる相手ではない。
皇帝がいう。
「まったく、君をぼくのところに引きぬければなあ」
「かまいません」と、オルゲトリックス。
皇帝が手を叩いた。
「本当かい!?これまであんなに首を縦に振らなかったのに!? ラシャ、聞いたかい? 彼がとうとう来てくれるってさ」
俺は一瞬だけ顔を上げた。
皇帝が話しかけたのは、すぐとなりに立つ護衛兵だ。若い。ものすごく若い。俺と同い年か少し下。黒目黒髪、肌は浅黒い。おそらくエジプトの出だろう。派手な飾りのついた黄金の胴鎧を纏っている。たいへんな伊達男だ。
「陛下、その呼び名はおやめください。いまのわたしはガリウスです」
護衛兵はエジプト語でいった。
なぜ、俺がそうと分かるかって? 俺の最初の人生の母親はエジプト人だったからだ。
皇帝が同じようにエジプト語でいった。
「ああ、わるいわるい。ついさ。なにしろ、彼がぼくの近くに来てくれるなら、ぼくと彼の縁は深まるわけだ。縁が深まれば、ぼくが彼の血縁に生まれる可能性も高まる。彼の才能あふれる肉体が手に入るんだ!」
「御使! 口が軽すぎます」と、護衛兵。
皇帝が笑った。
「心配性だなあ。大丈夫。エジプト語を理解するのはぼくたちだけだ。ほかの護衛の経歴は確認済みだよ。エジプト人の家庭教師を付けていたものはいない」
御使?
皇帝はローマの総祭祀長ではあるが、そのような尊称は初めて聞いた。
それに、〝血縁に生まれる〟とは? 皇帝は何をいっているのか。
オルゲトリックスが皇帝にラテン語でいった。
「陛下、移籍に当たり願いがございます」
そのあとの言葉はゴニョゴニョと口ごもって聞き取りづらかった。
皇帝が、もっとよく聞こうと顔をオルゲトリックスに近づる。
俺にはわかる。
ここだ。オルゲトリックスはここでやる気だ。
が、ラシャと呼ばれた護衛兵が皇帝の肩を掴んだ。
ラシャーー変な名前だ。どこの国の出身なのだろうかーーは、オルゲトリックスの耳に顔を近づけると何事かささやいた。
オルゲトリックスが小声で返す。
皇帝が「それはまさに臨むところだよ!」と横から口を突っ込んだ。
「では」と護衛兵。
オルゲトリックスがぶるりと震え、小さく頷いた。
ラシャがその肩を叩く。
「よかった。それじゃあ、今晩、万神殿で待っているよ」
皇帝が観客たちに移籍の件を告げ、コロセウムはさらなる歓声に包まれた。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
コロセウム地下の戦士控室に降りるや、オルゲトリックスが両手を振り回した。空気がかき回され、血と汗の匂いが身体にまとわりつく。撤収作業中の拳闘士たちが何事かとこちらを見る。
オルゲトリックスがいった。
「たいしたやつだ。ああ!じつにたいしたやつだ!」
「誰がだ?」と、俺。
「あの小僧だ。皇帝の横にいた護衛兵。あいつ、この俺の〝機先〟を制しやがった」
「機先?」
「身体が動き出す前のごくわずかな動きのーーいや、こんなこと話している場合じゃない。すぐにでも準備を始める必要がある。まさかあいつらからいってくるとはな!」
「なにを?」
オルゲトリックスが宙を殴りつけた。
「喧嘩だ! 今夜、皇帝と殴り合いだ!」
⭐︎⭐︎⭐︎
万神殿の中央ホール、暗がりから皇帝と護衛兵ラシャがあらわれてなお、俺は自分の目が信じられなかった。
天井部中央に空いた穴から月明かりが差し込み、対峙するオルゲトリックスと皇帝を照らした。
オルゲトリックスはコロセウムで試合うときの戦装束だ。赤い腰巻に赤い革の履き物。いつもと違うのは、全身に赤い塗料で紋様を描いている点だ。ガリアのシャモリン族に伝わる戦いの呪禁だ。
一方の皇帝は、白い腰布一枚きりだった。手甲も足甲もなし。
これではオルゲトリックスの一撃を受けることすらできない。
そもそも、勝負になるとは思えない。
皇帝はオルゲトリックスより頭二つ低く、体重はいいところ三分の二だろう。多少鍛えているようだが、この体格差は絶望的だ。おまけにオルゲトリックスは、技術、胆力、創造性、あらゆる点で天下一なのだ。
皇帝がいった。
「ありがとう。よく応じてくれたね」
「とんでもございません。閣下の勇気に敬意を払います」
「本気でやってくれよ」
「当然です」
皇帝はわかっていない。
人気格闘士とたわむれようというつもりなのだろうが、オルゲトリックスは本気なのだ。
俺は皇帝の背後、アポロン神像の陰に沈んでいる護衛兵のラシャを見た。
オルゲトリックスの話通りなら、彼はこちらの意図に気付いている。
どうでるのか。
そもそも、なぜこんな場所で一対一の決闘を申し出るのか。
皇帝がお遊びでコロセウムの闘場に立つのは稀にあるが。そういうときは不慮の事態に備え、近衛兵の一群が近くに控えるし、腕利きの弓兵も控える。
ここでは近衛兵を潜ませる場所も少ないし、なにより護衛が一人しかいない。ラシャとやらがどれほど腕が立つのかわからないが、一人でオルゲトリックスを抑えられるつもりなのか。
皇帝がかまえた。
両手を突き出し、つま先を浮かせる。
素人ではないが、これでは強い打撃は繰り出せない。
「さあ、どこからでもこい!」
オルゲトリックスが頷いた。
「では」
オルゲトリックスの身体がかすかに震え、次の瞬間には剛拳が皇帝の顔面を陥没させていた。即死だ。皇帝は血と白い液体のようなものを撒き散らしながら背後に吹き飛んだ。床を汚しながら滑り、ヤヌス像の前でようやく止まった。
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