「ヴラド・ツェペシ? あなた、自分が〝ドラキュラ〟だっていうの?」
彼女は背後の壁に体を押し付けた。
背中を汗が流れ、パンツにまで染み込む。
死臭の話のときに気付くべきだった。彼は嗅覚を強化し、微細な匂い分子を嗅ぎ取ったのだ。いや、あのときに気付いても、もう遅かったろう。彼は準備を整えていた。とんだ狼を招き入れてしまった。
彼女は、壁にかけてあったステッキを手にした。自身がモンタギューだったころ、愛用していた品だ。ケニア産の黒壇でできており、鉄をも打ち砕く強度がある。ネットオークションで見つけた際、即決六千ドルで入手した。
巡=ベストレイドがいう。
「よすんだ。君も日本人に転生したのは今回が初めてだろう? その動きからして剣術経験があるようには見えない」
「あなたはあるの?」
「警官の必修科目だ」
「あらそう。でも、あいにく剣道で勝負する気はないのよ」
彼女は杖を槍のように構えると、窓に向かって突進した。全身の筋肉の動きをあわせ、絶妙のタイミングで強化ガラスに突き出す。銃弾を受けても耐えられると評判のガラスは真っ白に変色した。そこに全速で突っ込む。乾いた音とともにガラスは砂になって吹き飛んだ。
彼女はベランダに足をかけると、夜空に飛び出した。
熱帯夜特有の生暖かな空気が顔を打つ。
喉の奥から笑いが漏れ出した。これまでの恵美奈の人生では一度も出したことのない声だ。低く、邪悪な声。彼女の魂そのものの笑いだ。
じつに愉快だった。
地上までの高さは約五十メートル。身体を限界までコントロールしたとしても、到底助からない高さだ。間違いなく死ねる。そうすれば、またじきにこの世のどこかに生まれ落ち、楽しい人生を送ることができる。巡=ベストレイドに会うことも当面ないだろう。やつの今生をかけた復讐は空振りに終わる。
体が弧を描いて、ゆっくりと落ちはじめる。
耳元で風が唸りをあげる。背後でかすかな物音がした。
体を捻って後ろを向くと、巡がベランダを飛び越えたところだった。
☆☆☆
巡がベランダを蹴った衝撃で、金属の手すりが飴細工のように曲がった。彼は弾丸のように空中の恵美奈につっこんだ。
彼の手が彼女のドレスの襟をつかむ。
恵美奈は彼の首筋を狙って噛み付いた。巡が体を回し、それを避ける。二人はもつれあいながら、凄まじい速度で落下していた。
恵美奈の視界は上下左右に回転した。みなとみらいのビル群が左下方からせりあがり、右上方向に変えた。月が彼らの周囲を幾度も往復する。
彼女の全身に鳥肌がたった。
落ち始めて何秒たったのか。アドレナリンをはじめとした脳内麻薬が大量に流れ出し、時間感覚が引き延ばされる。恵美奈である現世の記憶が溢れ出す。初めての殺人、夫との出会い、出産、殺人、殺人、殺人、殺人。
彼女の蹴りが、巡の腹を捉えた。彼が胃液をはきながら後方にふっとび、がくんと止まる。恵美奈の体にも衝撃がきた。どんな握力なのか、彼はいまだにドレスを掴んでいる。
耳元で空気がうなる。
彼女は巡の顔に爪を立てた。肉がえぐれ、あたたかな血が飛び散る。それでも巡は彼女を離さない。
体感時間が延びているものの、もう地面は間近だ。十階から飛び降りたのだ。コンクリにぶつかれば、彼らの体は風船のように弾け飛ぶ。
彼女は引き離そうとしていた巡の体に、全力でしがみついた。また笑い声が喉の奥から漏れた。なんというバカな男だ。彼女の自殺を止めようとして、自分まで肉塊になろうとは。
巡の頭突きをかわし、蛇のように手足を絡みつける。豊満な胸が、彼の胸板でつぶれる。二人は恋人のように抱き合いながら、まっすぐに落ちていく。
彼女は叫んだ。
「さあ! 転生しましょうよ! 縁があったら、また来世で追いかけっこしましょう!」
かつてないほどに脳内麻薬が湧き出す。彼女は性行為にも似た快感を感じていた。乳首は痛いほどに硬くなり、股間が震えた。巡の激しい鼓動が伝わってくる。彼の目が、ひときわ紅く煌めいた。
「いや、追いかけっこは終わりだ」
彼の腕が彼女の首に巻きついた。
次の瞬間、千のクルミを割るような音とともに、視界が百八十度回転した。頚椎を砕かれ、体の感覚が消えた。
巡はぐったりした彼女の体をお姫様抱っこすると、両足から地面に激突した。
☆☆☆
着地の衝撃で、巡の両足がありえない形に折りたたまれた。肉がさけ、血と骨が飛び出す。くるぶし、ふくらはぎ、ひざが赤いヘドロのようなものにかわり、大腿骨が折れたところでようやく落下は止まった。
彼は、恵美奈の体を静かに地面におろした。
通りすがりの女子高生二人組が絶叫した。手にしていた、きな粉ドーナツが手から滑り落ち、血にまみれた歩道を転がった。
恵美奈たちが落ちたのは、マンション一階に入っているセブンのまん前だった。店内から従業員や客のサラリーマンが飛び出してくる。サラリーマンが携帯を取り出し、救急車を呼び始めた。店員は何を考えているのか、スマホで二人を撮影していた。
恵美奈はそれをぼうっと眺めていた。
体が動かない。指先一つ動かすことができない。何かしゃべろうとしたが、舌すら痺れている。声はくぐもった唸りにしかならなかった。
やがて、呼吸がおかしくなった。苦しさはない。ただ、頭がぼうっとして、顔が熱い。
遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。
意識が闇に沈んだ。
☆☆☆
恵美奈の前に、ゲイシーの父親が立っていた。
彼は安酒の瓶を放り投げた。瓶は壁にあたり、粉々に砕け散った。
父親がいう。
「お前の中のオカマが出てきやがった!」
恵美奈は泣いていた。両手を突き出していう。
「やめてくれ! ぼくはオカマじゃない!」
「ああ、てめえはオカマじゃねえよゲイシー。だが、お前のなかにゃオカマがいる。そいつはとんでもない性悪だ」
父親がシャツを捲り上げ、でっぷりとした腹とベルトの間に挟んでいたリボルバーを取り出した。
「俺にゃわかっているんだ。お前の中のオカマはいつかとんでもないことをやらかす。だから、俺は父親としての責任をとらなくちゃいけねえ」
「父さん? 冗談だろ?」
父親が銃口を向けた。
「すまないジョン。父さんもすぐに後を追いかける。お前を一人にはしねえ」
「父さん」
気づけば、恵美奈の目からは涙があふれだしていた。ゲイシーの涙だ。彼の最後に残った良心が泣いている。
うそよ。彼女は思った。ゲイシーは前世で涙など見せなかった。これは、夢だ。わたしは夢を見ている。
父親が引き金を絞り、銃弾が彼女の肩を貫いた。彼女は後方に吹き飛び、白黒テレビのブラウン管に頭からつっこんだ。
テレビの残骸をかぶったまま立ち上がる。あとは前世通りだった。彼女は傷口から取り出した銃弾を父親の頭蓋骨にめり込ませた。父親の眼球がくるりと回転し、豚のような体が崩れ落ちる。
恵美奈は遺体を見下ろした。
なんの感情もわかない。この男はゲイシーの父親でわたしのじゃない。
妙にリアルな夢だが、前世の出来事だからかところどころ妙なところがある。父親の家には電話などなかったのに、キッチンの壁に黒電話がかかっている。ゴミ箱につめこまれた新聞は、スポーツ報知だ。父が握る銃からは硝煙が立ち上っているが、なぜかネズミ花火の匂いがする。
彼女はよろめきながら、遺体を乗り越え、洗面所に向かった。さびついた蛇口をまわし、血にまみれた手を洗う。顔をあげると、鏡の中にいたのは、彼女ではなく小太りの青年だった。子羊のような目をした哀れなジョン・ウェイン・ゲイシーだ。
彼女は瞬きした。鏡の中のゲイシーは目を見開いたままだ。
急に体の感覚が消えた。手も足も動かない。
ジョンの緑の瞳が彼女を見据えている。
彼女は唾を飲んだ。
目の前にいるのはかつての自分自身、それだけのはずだ。なにがどうなっているのか。
ジョンの口が動いた瞬間、彼女は目覚めた。
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