「おにいちゃん、最近、格好良くなってない?」
妹の光が、ソファに寝転がりながら夕にいった。寝巻きから十二歳ながら形のよい足が突き出している。
「ようやくにいちゃんの魅力がわかったか?」
夕は冷蔵庫のドアを閉めながら片腕に力瘤を作った。
光がその腕を指差した。
「それだよ、それ。おにいちゃん筋トレはじめたでしょ。牛乳を飲みまくってるのも筋肉のため?」
「牛乳?」
いわれてみれば、今まさにジョッキ一杯分の牛乳を飲んだばかりだ。なにも考えずに注ぎ、ものの十秒ほどで飲み干した。で、おかわりしようとしている。思えば妙な話だ。ぼくはこんなに牛乳が好きだったっけ?
それにこの二の腕。こんなに盛り上がっていたか?
彼は二階の自分の部屋にあがると、姿見の前で服を脱いだ。
胸板がある。
いままではベニヤ板くらいの厚みだったのに、ちゃんと大胸筋がついている。
腹筋も綺麗に割れているし、肩には小さいながらもボディビルダーのような僧帽筋が盛り上がっている。
なんだ?
彼はパンツまで脱いだ。
全身が引き締まっている。
帰宅部で家と学校を往復するだけなのに、野球部やサッカー部の連中以上の身体だ。
不思議ではあったが、深くは考えなかった。
彼は悩むということがあまりないのだ。
きっと、思春期を迎えて筋肉が付きやすくなったのだろう。
それだけの話だ。たぶん。
原因がわかったのは、三日後のことだった。
☆☆☆☆
「君、いま一人?」
ダイヤモンド地下街の有隣堂で声をかけてきたのは、目の覚めるような美人だった。年の頃は二十代半ばか。タイトなスーツがグラマラスな身体のラインを強調している。
「え、ええ」夕は立ち読みしていた試し読み用漫画を棚に戻した。
「よかった!わたしも一人なの」と、女性。
「そ、そうですか」
宗教の勧誘が何かか? こんな綺麗な人が声をかけてくるなんて不自然だ。
女性が彼の胸をつついた。
「わたし、一人なの」
「え?」
「誘ってっていってるんだけど?」
「え?あ?すいません。お茶でもいかがでしょうか?」
思わずそう答えた。
宗教かもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃないか。なんといっても、ぼくはちょっぴりカッコよくなっているのだから。
女性が彼の手を引いた。
「もちろんお受けするわ。それじゃあ、行きましょう」
「ど、どこへです?」
女性の手は、びっくりするほどやわらかい。小学生以降、異性の手を握ったのは初めてだ。
女性が微笑んだ。
「静かでくつろげてお茶も飲めるところよ」
☆☆☆☆
「こ、ここがですか?」
部屋の真ん中にはキングサイズのベッド、枕元には照明やBGMを切り替えるだろうスイッチの群れ。テレビからはカラオケのデモが流れている。そして、壁の向こうからは女性の甲高い喘ぎ声。
ラブホじゃないか!夕はわくわくしながら思った。童貞を捨てられるチャンスが到来したことは間違いない。
さきほど感じた一抹の不信感はとうに消え去っていた。
背後で衣擦れの音が聞こえた。
「そうよ。ここでゆっくりしましょう」
声と共にタオルのようなものを頭にかけられた。
続いて後ろ手に両手を引かれた。
金属の感触と共にガチャリと音がする。
手錠!?
夕はそんな高度なプレイに対応できるかハラハラしてきた。
「さ、いっしょに楽しみましょう」
「は、はい」
ところがいっこうに始まらない。
そもそも、夕は服を着たままだ。
おまけに妙な音が聞こえてきた。
しゅう、しゅうっと刃物を研ぐような音だ。
続いてハンドドリルが回転するような音。
カチッカチッとペンチを閉じたり開いたりするような音に、シャキシャキというハサミのような音。
不安が鎌首をもたげた。
セックスって、こんなにもいろんな道具を使うものだったっけ?
「そ、そういえばお姉さんはなんて名前なんですか?」
「あら、あたし? ショーン・ジェイ・パーカーよ」
「へえ」夕はしばらく沈黙したのち「え?」といった。
外人? いや、それより〝ショーン〟だ。
女性が笑った。
「安心して、いまの身体は男じゃないわ。ちゃんと女性よ。れっきとした日本人女性」
「も、元男性ってことですか?」
「前世が、ね」
夕は自分の呼吸が荒くなるのを感じた。
この人、いかれてる。
「さてと、それじゃあ始めましょうか」
「い、いえ。ぼく、その」
「ああ、どういうプランか聞きたいわよね。そうよ。あなたにも楽しんで欲しいもの。まずは手の指を第一関節から順番に切ってあげるわ。それから足の指。終わったらドリルの出番。今日はいきなり頭からいってみようと思うの。大丈夫大丈夫、すぐ殺しちゃうようなへまはしないから。自分の脳をかきまわされるのって、ほんとに素敵な感覚なんだから」
「ちょ、ちょっと!だれか!!たすけて!!」
夕は叫んだがその口に何か布のようなものを押し込まれた。
「ずいぶん大きな声を出せるのね!びっくりしちゃった。ホテルの人たちが怖がっちゃうから。しばらくはわたしのパンツでもなめてて」
シャキンシャキンとハサミの音が近づいてくる。
小指に冷たい感触があった。
夕の全身に鳥肌がたった。
筋肉がぶるぶると震え始める。
「あらあら、そんなに興奮してるの? 悪いコねえ」と、ショーン。
夕は〝おこり〟にかかったように激しく震え、次の瞬間、その場に飛び上がって後ろ回し蹴りをショーンの腹部にめり込ませた。
ショーンが、げえ!といいながらのたうちまわる声が聞こえた。
夕は驚愕していた。
秘められた運動能力もさることながら、体が勝手に動いている!?
彼はパンツをむしゃむしゃとかみ千切ると、べっと吐き出した。
片足で立ち、もう片方の足を器用に持ち上げ、足の指で頭に巻きつけられた布をはぎとる。ヨガの行者も真っ青な柔軟性だ。
部屋の鏡に自身が写っていた。
夕はギョッとした。
とても自分とは思えない。全身の筋肉が、家の姿見でみたときより、さらに盛り上がり、顔は歯茎を剥き出しにして、獣のような笑みを浮かべている。
鏡の中の夕が、夕にいった。
「はじめまして、だな」
☆☆☆☆☆
「つまり、あんなやつがいたるところにいるってこと?」
夕は夜道を歩きながら、自分の中にいる「兄」にいった。
正直、自分自身とお話するなんて、完全にいかれている。いまだに悪い夢でも見ているような気分だ。ラブホテルでの「兄」と美女の戦い。思い出すだけで震えてくる。「兄」は美女の首を折ると、その体を担ぎ上げ、窓から這いだし、ほんのわずかな手がかりをたよりに片腕だけで外壁を登り、屋上の貯水槽に沈めたのだ。そして、己の正体を明かした。夕のはるか前の前世であり、殺人鬼狩りをする殺人鬼だと。
別の人格の仕業とはいえ、人を殺したいま、自宅へのいつもの道が妙に狭く見えた。いくら生来の楽天家とはいえ、さすがにショックが大きい。
兄がいった。
「いま、この国にビルガメスが続々と転生してきている。しかも人殺しが大好きな連中ばかりがだ」
「なんでそんなことが起こるわけ」
兄が頭をかいた。
「ずっと昔、俺よりはるかに古いビルガメスがいってたよ。人と人には〝縁〟があるとな。〝運命の赤い糸〟といってもいい。人間が他者と触れ合ったとき、互いの魂に結びつきが生まれるんだ。その結びつきが濃ければ濃いほど、転生したとき、より近しいところに生まれると。一部のイカレたビルガメスは、〝派閥〟を組んでいる。やつらの幹部がこの国に転生すれば、ほかのやつらも芋づる式にくっついてくるのさ。ま、この国の連中には幸いなことに、やつらを狩っていた俺も、くっついてきたわけだがな。これから、俺とお前とで、連中を狩りまくってやろうじゃないか」
「そんなの無理だよ。ぼくはそんなことに付き合うのはゴメンだ! ぼくにはぼくの人生があるんだから。なにより、ぼくは人殺しになんて耐えられない。いまだって吐きたいくらいなんだ」
彼の足音が、住宅街に響く。
あたりには人気がなく、車の音も聞こえない。まるで世界から彼以外の人間が消え去ってしまったかのようだ。
黒猫がいっぴき、ふう!と彼を威嚇してから走り去った。
兄がいった。
「心配はない。お前は耐えられる」
「無理だよ」
「大丈夫だ。お前は〝そういう風〟にできている。お前は、お前の中にいる俺やほかの兄弟たちの影響を受けてきた。お前は狩りに適応した存在になっているんだ。自分が能天気だと思ったことはないか? 立ち直りが早いと感じたことはないか? お前はどんなに厳しい事態も乗り切れる」
「いや、無理」
「お前がどう感じようが、いやおうなしにやつらはお前を狙ってくるぞ。なんといっても、お前は〝魅力的なエサ〟だからな。お前は前世をまったく引き継いでいない分、この世に対してウブなんだ。ウブなのに、中にいる俺たちの影響で、世慣れてもいる。殺人鬼ってのは、そういう存在にたまらなく魅力を感じるもんだ。ま、ようするに隙だらけってことだ」
「じゃあ、逃げるよ。北海道の奥地にでも引っ込む」
「あのなあ」兄が頭をかいた。「お前がやらなければ、お前の家族はいつか死ぬぞ。俺たちの同類にやられてな。それくらい、この街には殺人鬼どもがのさばってるんだ」
「そんなにいるなら、殺人事件ばかりになるはずだけど」
「なってるさ、ただ、年経た連中はとてつもなく巧妙だから、事件化してないだけだ」
いつのまにか自宅に着いていた。
リビングのガラス越しに、小さく家族の話し声が聞こえてくる。
妹が「にいちゃんまだなの?はやくごはん食べたーい」といい、母親が「もう少しまってあげようよ」と返す。
父親が「でも、少しだけ食べないか?俺も腹減ったよ」といい、「ねー」と妹。
ぼくの家族。夕は思った。ぼくがなによりも大切な三人だ。
彼は両の手を握り締めた。
さきほど兄が見せたのに比べれば、はるかに小さな力しかない。
兄がいった。
「お前は一人じゃない。いつでも俺たちが付いている」
☆☆☆☆
でも、まさか脳内以外にも味方ができるとは思わなかったな。
夕は「喫茶店」のドアノブに手をかけた。
ここに来るのは、先日の緊張感あふれる初訪問以来はじめてだ。いや、あの日は「兄」が身体を操作していたから、ぼくとして訪れるのは初になる。
今日からぼくにも仲間がいる。人々の平穏な人生を守るために戦う仲間だ。
彼はノブを回した。
「こんにちは」といいながら頭を下げる。「今日からよろしくお願いします」
返事がない。
頭を起こすと、店内には誰もいなかった。
カウンターの奥。壁にかけられたカレンダーが裏返され、そこに「あんたなんか仲間じゃない!」とマジックで書かれていた。
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