これは夢だ。彼女は思った。
ジョン・ウェイン・ゲイシーだったころの夢。
夢の中で、彼女は父親を殺した。ベガスに移り住み、葬儀屋のアルバイトで生計を立てた。葬儀屋の主人は彼のエンバーミング技術に舌を巻いた。とても十代の子供とは思えない。まるで、何十年もの経験を持つベテランのそれだと。当然だった。ゲイシーになる前、モンタギューだったころは葬儀屋を営んでいたのだから。
死体を扱う仕事は〝衝動〟を抑える役に立った。幼い少年の遺体が入ると、彼は同じ棺に入り、朝までいっしょに過ごした。
二十歳を超えたところで地元に戻り、商売と政治活動に打ち込んだ。高校時代のゲイシーの友人たちは、あのひ弱な男が、どうしてここまで精力的になったのか知りたがった。
寝返りを打つと、夢の中で時間が跳んだ。
彼女は椅子に座っていた。
ステンレス製の椅子だ。向かい合った壁はマジックミラーになっている。奥には、ゲイシーが楽しんだ子供達の遺族が詰めかけているのだろう。
手足は皮枷で椅子に固定されている。口には猿轡が挟まり、唸ることしかできない。唇の端からよだれが流れ出た。
黒服の牧師が額に触れ、十字を切る。
「言い残すことは?」
看守の一人が猿轡を外した。
ゲイシーは目を血走らせ、叫ぶようにいった。
「無実なんだ! 何度もいっているだろう! わたしは二重人格で、子供達を手にかけたのはもう一人のわたしなんだ! 精神障害者を罪に問うことはできないんだ!」
看守が警棒で額をこづいた。
「裁判長は、お前の主張は嘘だと判断した。いまさらビリー・ミリガンの真似をしなくていいんだぜ? お前はもう死ぬんだから」
「牧師!」とゲイシー。「こんな侮辱を、このアメリカで許していいのか? これは人権侵害だ!」
「いい加減黙れよ」
看守が猿轡をかませ、口から出るのは唸りだけとなった。
白衣の医師三人が近づいてくる。一人が持つ銀色の盆の上に、点滴袋が三つのっていた。白熱灯の光を受け、中の液体が怪しく輝いている。
別の一人は、点滴用のスタンドを引っ張っている。床タイルの段差をこえるたびに、タイヤが乾いた音を立てる。
空手に見えた医師は、手に二本の針を持っていた。針の尻には、カテーテル用のゴムチューブがついている。彼はその二本をゲイシーの左右の肘内に差し込んだ。
看守がいう。
「なんで二本? と思っただろ? 一本は予備だ。片方の静注に失敗しても、もう片方があるというわけさ。安心しな。薬殺刑は確実な死をプレゼントしてくれる」
別の看守が、タバコの箱ほどの装置三つを医師に手渡す。医師はそれを点滴袋にくっつけると、袋をスタンドにぶらさげた。
さきほどからゲイシーに絡んでくる看守がいう。
「一つ目の薬剤は、チオペンタールナトリウムだ。これが血液中に入ると一分としないうちに意識を失う。次に、臭化パンクロニウムが肺の機能を殺す。それで呼吸が止まる。最後に塩化カリウムだ。こいつが心臓をドカン! 万一にも蘇生することはなくなる。刑が完了するまで、おおよそ七分てとこだ。それがお前に残される最後の時間になる」
ゲイシーが猿轡の奥でわめくと、意外なことに看守はもう一度猿轡を外した。
ゲイシーは息を荒げながらいった。
「ずいぶんと親切だな」
看守が帽子をとった。
刈り上げた金髪に、青い目、傲慢な瞳のなかには強烈な感情がある。
「俺の甥が、お前の世話になったんでな。志願したんだよ。ぜひ、お前の面倒をみさせてくれってな」
「おいおいおい。そういうのは法律違反じゃないのか?」
「心配しなくていい。今日、俺はここにいないことになっているんだ」
ゲイシーは部屋の四隅に控えている、ほかの看守たちに叫んだ。
「おい! こいつをここから出してくれ!」
「怯えなくてもいい。俺は、仕事はきっちりやるタイプだ」
彼がいいながら、壁に埋め込まれた三つの赤いボタンを指した。
「あれを三人の看守が同時に押す。すると、いま先生方がつないでくれたチューブから、薬液が体内に入るって寸法だ」
医師たちは点滴袋の接続を確認すると、壁際に下がった。
金髪の看守が点滴袋をなでる。
「最後にもう一度チェックだ。うん、しっかりできているようだな」
彼は三つのボタンまで歩くと、テンポよく押した。
「それじゃあ、さよならだ」
☆☆☆☆
第一の薬で意識がなくなる。
それはいつ来るのか。
ジョン・ウェイン・ゲイシー=モンタギューの額に汗がにじんだ。死は一度経験している。とはいえ、前回は事故死だった。馬車の暴走に巻き込まれ、痛みを感じる間もなかった。
口の中は乾いている。舌が頰の内側に触れると、ヨモギを噛んだ時のような苦味が広がった。まだ生きているというのに、口内が腐り始めた気がした。
「頼むよ! 誰か助けて!」彼は叫んだ。「ぼくは乖離同一性障害なんだ! ぼくは誰も殺してない! ぼくのなかにいるやつがやったんだ!」
処刑ボタンを押した看守がいった。
「なあ、お前はもうじき死ぬんだ。いまさら演技したってしようがないだろう?」
ゲイシーは渾身の力を込めて、拘束衣を引きちぎろうとした。彼の肉体操縦は超人の領域だが、分厚い帆布はびくともしない。
壁の時計をにらみつける。
秒針が一瞬も止まることなく、回り続けている。
一周、二周、三周。
意識の喪失はいまにも訪れるはずだ。
だが、そのときはいつまで経っても訪れない。
針が七周を回ったところでかすかな希望を感じた。不手際だ。間違いない。処刑になんらかのトラブルが起こったのだ。ひょっとしたら、支援者たちが何か仕掛けてくれたのか。アメリカの法律では、同一の罪に対し、懲罰は一度しか行われない。ここを生き残れば、出所できる可能性すらあるのだ。
彼はニヤつき、咳き込んだ。
喉の奥に痰が絡む。
激しく咳をしたが、不快感は増すばかりだ。そのうち、喘息の患者のように喉が鳴り始めた。胸の奥が苦しい。息ができない。
肺に火がついた。
一呼吸ごとに燎原は燃え広がっていく。
無意識のうちに歯を食いしばった。目から涙が溢れる。助けを求めようと口を動かしたが、泡が出るだけだ。呼気を吐くことすらできない。声にならない唸り、死にかけた猛獣のような呻きが処刑室に反響する。
なにがとうなってるんだ!? 誰がなんとかしてくれ!
彼は必死で室内を見回した。助けを求めて看守たちを見るが、四隅の男たちも医師も、彼の無残な状態が見えないかのようだ。唯一、処刑ボタンを押した看守だけが目を合わせる。冷たいブルーの瞳。
機材をチェックするーーさきほどの彼の言葉が頭をよぎった。
彼は首をひねり、三つの点滴袋をにらんだ。何度も目を瞬かせ、焦点を合わせる。
第一の薬、チオペンタールナトリウム。死刑囚の意識を失わせる効用を持つ。その投薬が止まっていた。
☆☆☆☆☆
第二の薬は、彼の肺細胞を徹底的に破壊した。
激しい呼吸困難に幾度も意識を失い、その度、苦痛が彼を呼び戻した。
マジックミラーに自身が映っていた。眼球は抜け落ちんばかりに飛び出している。鼻からは大量の鼻血、チアノーゼで顔面は蒼白、噛み締めすぎて歯が砕け、胸元に溢れている。血で溺れかけているせいか、喉の奥からは便所のレバーをひねったときのようなゴボゴボという音。
看守の声が、どこか遠いところで聞こえた。
「安心しな、もう十五分は生きられる」
無限にも感じられる苦しみの後、第三の薬が体内に入り込み、心臓を押しつぶした。
意識はどこまでも闇に沈んだ。
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