カミーユ、湯河原夕のなかにいる女性人格がいった。
「マナーを守れなければ死ぬことになるわ」
「え?」
慧は目の前にテーブルに並んだティーセットを見つめた。
高価そうな磁器のソーサーに、真っ白な磁器のカップ。そのなかではオレンジ色の紅茶が湯気を立てている。横には銀のスプーン、それにサンドイッチの乗った皿、ナプキン、メニュー表。
「毒、ですか?」
彼女のつぶやきに、カミーユが頷いた。
二人の隣に立つ、背の高い初老のウェイターを指す。ウェイターは立派な口ひげを揺らしながら、孫を見つめるようにやさし気な瞳を二人に投げかけている。
「この人は前世で〝殺人教師〟って、呼ばれていたの」
カミーユの言葉に、ウェイターが顔をしかめた。
「その呼び方は好きではありませんな」
「事実なんだから仕方ないじゃない。こうしてふつうに話している分には大丈夫なんだけどね。彼は、ある特定の行為にたいして、ものすご~く怒りを感じるの」
「行為?」と、慧。
「そう、彼は〝マナー違反〟を許せないの。どんな些細なことであれ、目の前で他人を不快にさせるような行為が行われると、ただちにそれを正してしまう。その人間が二度とそんな真似ができないようにしちゃうわけ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
カミーユが微笑んだ。
「大丈夫。死ぬ気でやればできないことなんてない。それに、万一死んだとしても、わたしたちはビルガメスだから、次こそ死ぬ気で身に着ければいいだけよ」
彼女がウェイターに会釈した。
「それじゃあ、はじめましょう」
☆☆☆☆☆
“カミーユ”って誰なのよ。
慧は横浜駅西口改札前の円柱にもたれながら思った。
真夏なのに、ジーンズに長袖姿なのは、先週のゲイリー・ハイドニックの生まれ変わりこと七王子との戦いの傷があちこちに残っているからだ。顔のあざは薄れてきたが、手足は見苦しく、人前に出せる状態ではない。
周囲では乗客たちが押し合いへし合いしていた。
東京の方にデートに行くであろう若いカップルたち、父親に肩車された小さな女の子と隣で微笑むきれいな母親、手を取り合って人波に耐えようとする年老いた夫婦。老若男女の人いきれと、駅員の張り上げる「ごゆっくり通過ください!」という声が入り交じり、とにかくかしましい。
慧はスマホを確認した。
待ち合わせ時間まで、あと十分。
スマホを握り締める。
これにはGPSが仕込まれている。〝喫茶店〟のリーダーである巡は、いつでもスマホの位置を確認できるのだ。
結局のところ、彼はわたしを信用していなかった。いや、当たり前だ。わたし自身が信用していないのだから、他人に信用してもらおうなんて虫が良すぎる。彼がGPSを仕込んでなかったら、死んでいたかもしれないのだ。
入院中、巡は電話で「君も自分を律することの大切さは骨身にしみたはずだ。GPSは削除してもいい」といってくれたが、結局、消せなかった。
自己コントールの重要性はこれ以上ないほどわかったが、だからといって、じっさいにそれをできるかどうかは別問題だ。
訓練が必要だ。
今日はその一環として、クラスメイトであり、多重人格型のビルガメス、湯河原夕の人格の一人であるカミーユなる人物とお茶をすることになっている。
カミーユ、名前の響きからして女性だろう。しかし、夕の肉体は男性なのだ。
いったいどんな人なわけ?
あっという間に十分が過ぎた。
夕はまだ来ない。
彼女は腕組みした。この円柱が待ち合わせ場所のはずだ。なのに、いまいるのは、同じように誰かを待っている若いショートカットの女性と、新聞を手に持ち、赤ペンを耳に挟んだ中年男性しかいない。
ショートカットの女性が視線を彼女に向けた。
やさしげな笑みを浮かべる。
慧の二の腕の産毛が逆立った。
魅力的だ。
真っ白な肌に、切れ長の目、朱色の唇。なによりその雰囲気。一瞬の間に、彼女以外の世界がくすんでしまったかのようだ。
女性が口を動かした。
「こんにちわ、慧さん」
鈴のような声が、彼女の名を唱えた。
慧は女性を見つめなおした。
髪型こそわずかに違え、彼女は夕そのものだった。
☆☆☆☆☆
カミーユに連れられて踏み込んだのは、横浜駅前の高級ホテル最上階にあるレストランだった。
二人は、半個室となった窓際のソファ席に通された。
羽目殺しの窓からは横浜駅前のロータリーが見下ろせる。客待ちの黄色いタクシーたちが車間距離を詰めて何十台も連なり、市営バスがひっきりなしに出たり入ったりしている。
カミーユがソファに身を沈めながらいった。
「慧さんは、〝マナー〟についてはご存じ?」
本当に不思議だ。カミーユが操っているのは夕の肉体なのに、人格が異なるだけでこうも印象が変わるのか。
「はい」慧は答えた。「巡さんから、さわりだけは教えてもらいました。マナーを徹底することが、自己のコントロールにつながるんだって」
「さわりだけ?」
「本格的に教わる前に、巡さんが“ご出張”に行ってしまわれたので」
「ひどい話ね。でも、一応の心得はある、というわけね」
「知識としては、って感じですけど」
「いいのいいの」
カミーユが誰かに目配せした。
一人のウェイターが台車を押してきて、あっという間に二人の前にお茶の準備を整えた。
カミーユがいう。
「それじゃあ、ティータイムをはじめましょう。ただ、いっておくけど、マナーを守れなければ死ぬことになるわよ」
「え?」
☆☆☆☆☆
「あら、美味しいわね」カミーユがいった。「アッサム?」
“殺人教師”と呼ばれた老ウェイターがうなずいた。
「現代の茶の質はすばらしいですな。あなたと初めてお会いしたころは、生産地から何か月という時間をかけて運ばれていました。どれほどの高級品であれ、劣化は避けられません。それが、いまや、この程度の格のホテルですら、当時の女王陛下以上の品を味わえるのですから」
慧は目の前のカップを見つめながらツバを飲み込んだ。
「あの、冗談、ですよね?」
老ウェイターがほほ笑んだ。
「なにがですかな?」
「その、マナーに違反したら、殺されるという話です」
そんなことがあるはずがない。ここは人気のない路地裏でも、密室でもない。半個室とはいえ、ほんの数メートル先には有閑マダムたちがランチを楽しんでいるのだ。
老ウェイターが力づよく頷いた。
「むろん本当ですぞ。わたくしは、マナーを知らない人間は獣も同然ですからな。たとえば、先日、車を運転しておりました。県道を法定速度ぴったりで走っておりましたら、背後に一台の大型車が張り付いたではありませんか。そやつはーー。いや、やめましょう。食事前にこのようなお話をするというのは、まさにマナー知らずですからな」
老ウェイターはニコニコしている。いまのところ殺気は感じない。
慧は腰を浮かせた。
この人はどう攻撃してくる? テーブルの上のナイフ? それとも素手? テッドのジュージュツでどう対応する。
彼女の視線は逃走ルートを探して、彷徨った。
カミーユが目を細めた。
「慧さん。あなた、何をしに来たの? 自己抑制を身に着けたいのでしょう? あなたが自分を律することができなければ、遠からず人が死ぬ。それはあなた自身かもしれないし、そうでないかもしれない。そうした事態を防ぐためなら、逃げるのではなく、ここで命をかけてしかるべきだと思うのだけど」
その通り。慧は息を吐いた。カミーユのいうとおりだ。
慧は紅茶に手を伸ばした。
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