オルゲトリックスが自分の拳を見た。
「どういうことだ?」
護衛兵のラシャが拍手をした。
「見事なものだね。君の肉体はまさに神々からの贈り物だ」
「皇帝は何の反応も見せなかった。わざと手を抜いたんだ」と、オルゲトリックス。
「そんなことはない。君があまりに早すぎただけだ」
俺は周りを見回した。
いまにも近衛兵が突入してくるに違いない。
五十人か? 百人か?
オルゲトリックスの強さなら脱出できるかもしれない。俺はどうだ? 俺の皮膚は近衛兵が全力で振るうグラディウスを止められるのか? あれは斬撃に特化した剣だ。切られた人間が痛みだけで死ぬこともままある。
万神殿は静まり返っていた。
聞こえるのは己の心臓の鼓動だけだ。
オルゲトリックスが足元の石材を蹴り砕いた。
エジプト語でいう。
「俺をコケにするのか? 皇帝やお前が同類だということは分かっている。お前たちは身体を〝使えている〟からな。二人とも、少なくとも二百年は生きているだろう」
ラシャが両手をあげた。
エジプト語でいう。
「これは驚いた。君もビルガメスだったのか。なるほどなるほど、その強さも納得だ。神の肉体に加えて、ビルガメスとしての経験か。しかし、君ほどの使い手となれば、過去の人生もさぞかし長いだろう。これまで遭遇しなかったとは、ある意味驚きだな」
ラシャがオルゲトリックスの後ろに立つ俺を見た。
「おや、オルゲトリックスの息子くん。君も言葉がわかっているな。まあ、そういうこともあるだろう。我々は互いに引き付け合うからな」
この男は何をいっているのか。
オルゲトリックスはなにをいっている?
まるで彼らも俺と同じ、死んでも記憶を継続する人間であるかのような話ぶりだ。
オルゲトリックスが頭をかいた。
「ビルガメスだなんだはどうでもいい。俺が知りたいのは、なぜそこの皇帝が決闘を汚すような真似をしたかだ。闘技場で貴様らが話していたことに関係があるのか? 俺の血がどうとかいう」
ラシャが皇帝の遺体を指した。
「彼はあらゆる人生で、たいへん強力な敵に狙われている。わたしができる限り護衛についているが、やはり彼自身の肉体を強化すべきだ。わたしも彼も肉体の操縦技術は卓越しているが、戦いでもっとも重要なのは生まれ持った肉体の強さだ。当初、彼はきみと友達付き合いをすることで縁を深め、きみの息子として生まれようとしたが、あの日、コロセウムで君を間近に見て、わたしたちは考えを変えたんだよ。君との縁を深めるのは、会話や酒宴ではない。戦いだ。殺すか殺されるかだ。だから、殺されることにした」
オルゲトリックスが拳を握りしめた。
「やはり、わざとか。とてつもない侮辱だぞそれは」
「そういうな。彼は君の息子になりたいんだ。君のいまの血縁のどこかに生まれたいのさ。だから君を殺すわけにはいかなかったんだ」
「殺そうと思えば殺せたと?」
ラシャが手で宙を抑えた。
「落ち着きたまえ」
オルゲトリックスが吠えた。
「侮辱の償いは貴様にしてもらうぞ。そのあとで、俺は俺の一族の全員を殺してのける!そこにいる息子も含めてだ!皇帝を俺の息子や孫になぞしてなるものか!」
「困るな」ラシャがため息をついた。「君を止めなければなるまい」
オルゲトリックスが笑った。
「できると思うか?」
「どうかな」
ラシャがヤヌス像の影から出てきた。
両手を広げて身を落とす。
オルゲトリックスの表情が変わった。
「お前、もしかしてアフカルなのか?」
ラシャが眉をあげた。
「わたしを知っているとは。やはり面識があるのかな」
「いや、俺が一方的に知っているだけだ。俺の人生は、過去に八回あったが、すべからく奴隷だったからな。奴隷の家に生まれ、死に、また奴隷の家に生まれる。その繰り返しだ。お前のような上流階級と面識などあるものか」
「ふむ。しかし、ただすれ違っただけにせよ、わたしがビルガメスに気付かないとは」
「俺は少々特別なんでな!」
オルゲトリックスが躍りかかった。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
護衛兵ラシャ、いや、アフカルはオルゲトリックスを叩きのめした。
オルゲトリックスの剛打を平然と受け流された。ラシャがオルゲトリックスの腹に軽く触れれば、オルゲトリックスは戦車に跳ねられたように宙を舞った。
オルゲトリックスは血まみれになりながら幾度となく向かっていったが、その打撃はかすることすらなかった。
アフカルの攻撃は雨あられとオルゲトリックスに降り注ぎ、さらには不可思議な技が炸裂した。アフカルがオルゲトリックスの手を掴むと、オルゲトリックスは自ら跳ね上がり、したたかに地面に顔を打ち付けた。
なんという技量の差だ。
こんな人間がこの世に存在するとは。
オルゲトリックスは不屈の闘志で向かっていくが、アフカルは容赦なく殴り、蹴り、投げ飛ばした。
やがて、心が折れた。
オルゲトリックスは床に大の字になり、血塗れの顔で泣き始めた。
太い声が万神殿に響き渡る。まるで獣だ。
アフカルが首をかく。
「なぜ泣く」
オルゲトリックスが吠えた。
「なぜだと!?貴様はわからんのか!?俺はこれほどの侮辱を受けたことがない。貴様は俺に情けをかけている!このはじまりの俺にだ!だが、俺には何もできん!俺は弱い!弱すぎる!まさに弱者!奴隷だ!」
「君は強い弱いという価値観に縛られている。奴隷など、この世にはない。人は何にでもなりたいものになれる」
何にでもなれる?
俺が?
アフカルが天に手を伸ばした。
「いや、じきにそうなるというべきかな。いまはまだ、奴隷制は必要だ。しかし、わたしたち進歩派は遠からずこの世界を変えて見せる」
アフカルがしゃがみ、オルゲトリックスの肩に手を置いた。
「君にもそれを手伝ってほしいんだ」
オルゲトリックスは倒れたまま、血の混ざった唾を吐いた。唾はアフカルの頬に当たった。
「殺せ。俺を生かしておけば、俺はお前を殺す」
アフカルが立ち上がった。
胸当の懐から布を取り出して頬をぬぐう。
「頭に血が昇りすぎだ。冷静にならねば、わたしに勝つなど千年経っても無理な話だ」
彼は手を振ると、出口に向かって歩き始めた。
オルゲトリックスが叫ぶ。
「殺してやる!俺は絶対に貴様を殺してやるぞ!」
アフカルが背を向けたままいった。
「君にはまだ無理だよ。稽古を付けてあげるから、カンピドリオの官舎に来るといい。では、また」
アフカルは去った。
万神殿に響くのは、オルゲトリックスのすすり泣きだけだった。
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