カミーユがハート形のクッキーを手にした。
「本当、殺意には困るわよね。わたしと夕の“兄”もとんでもないのよ。殺気を感じると、すぐに表に出てきたがるんだから」
老ウェイターが頷く。
「しかし、兄上はああ見えてなかなかの紳士ですぞ。わたくしの知る限り、食事などの場で自ら先に殺気を出すということはなかったはずです」
「本当? 偶然じゃないかしら。慧さん、あなただってあの兄がそこまで人に気を遣うとは思わないでしょう?」
「え、ええ」
慧は、老ウェイターの視線を感じた。
話からして、殺気を出すのはマナー違反らしい。
いま、わたしは抑え込めているのだろうか。
目の前のカミーユをちらりと見る。
完璧な笑みを浮かべて、こちらを見つめている。
なんて素敵な人なのか。思わず“そそられ”そうになる。
「カミーユさんは、夕の姉、なんですよね?」
「そうよ。夕から数えると、七代前の人格よ。フランスの片田舎に生まれた女の子。ごくごく平凡な子供だったわ。それが、思春期に入ったところで、いきなり“兄”が現れて、もうたいへん。そしていまじゃあ、数百年後の未来で、こうしてテッド・バンディの転生者といっしょにお茶をしている」
「夕の中にいるご兄弟は、みんな夕やカミーユさんみたいなんですか?」
「わたしたちみたい、というと?」
「その、殺人欲をそそるタイプというか」
「なるほど。そうね、ほとんど全員がそう。ただ、兄が人格の分化に慣れてなかったころに誕生した人格は、兄同様に“狩り”を楽しむ人もいる」
「わざと人格を増やすんですか? その、妙な言い方ですが、エサとしての人格ですよね? なら、そういう人格の人が一人だけいればいいんじゃないですか?」
「そうもいかないの。やっぱり、現世の身体は現世の人格のものだから。エサとしての能力をいちばん発揮できるのは、現世の人格が操った時なのよ。こんな風にね」
カミーユの雰囲気が変わった。女性的な何かが消え去り、いつも教室で見かける、なにもかもが普通で平凡な夕のそれに代わった。
彼が手をあげる。
「や、やっほー」
「やっほー」彼女も合わせた。
「な、なんか変な感じだね。こうやって二人でお茶するなんてさ」と、夕。
「二人ってわけじゃないけどね。こちらのウェイターさんもいるし、君の中にはいろんな人がいっぱいいるし」
慧は口の中にツバが湧き出すのを感じた。
まずい。
カミーユをみたときは、“すてきな相手”だと思ったが、夕とは比較にならない。
彼女はテーブルの下で両の手を握った。
この拳を彼の喉に叩き込む。喉がつぶれれば彼はのたうち回る。いや、うまくすれば数分内に死ぬことすらありうる。最高の愉悦を味わえるだろう。
視界の端で老ウェイターが身動きするのが見えた。
しまった、と思った。殺気だ。間違いなく出していた!
老ウェイターが攻撃してくる!
彼女が身構えた瞬間、夕がサンドイッチを紅茶に浸し始めた。
慧と老ウェイターが見守るなか、べちょべちょになったサンドイッチをむしゃむしゃとほおばり、げっぷをした。
慧はいった。
「なにしてるの」
もうひとつサンドイッチを取ろうとした夕の手を掴む。夕と慧の力が拮抗した。慧は必死でサンドイッチを自分の方に引き寄せようとし、夕はさせまいとする。
夕がいった。
「君が殺されちゃうかもと思って」
「だからって、そんなことしたらあんたが」
彼女は意を決すると、テーブルの上のものすべてをもう片方の手で一気に払った。紅茶が飛び散り、サンドイッチが壁に張り付き、ジャムがべとりと床に落ちる。
が、肝心の老ウェイターは固まっている。
彼はオールバックに固めた白髪頭をかいた。
「ここまでではないですかな」
夕の雰囲気がまた変わった。
「まあ、そううまくはいかないわよね」
カミーユがそっと慧の手を外し、ナプキンで水気を拭いた。
慧はカミーユと老ウェイターを見比べた。
「え?」
老ウェイターが笑い始めた。
「はっはっは。スリルを楽しんでいただけましたかな?」
慧は、しばらく沈黙してからいった。
「嘘、なんですか? 殺人教師というのは」
カミーユが紅茶を一口飲んだ。
「彼はアーチボルド、紛れもないビルガメスよ。ただし、前世は殺人鬼じゃなくて、舞台俳優」
「マナーを破ると殺すのは?」
「そういうビルガメスはたしかにいるけど、都合よくわたしたちの仲間になってやいない。だから、アーチボルドに一芝居打ってもらったわけ」
「はっは、なかなかのものだったでしょう?」と、アーチボルド。
「ええ、背筋が震えたわ」
カミーユが小さく拍手すると、アーチボルドは満足そうに頷いて「片付けるための道具をとってまいりますかな」と場から下がった。
カミーユがいう。
「本当をいうと、彼の殺人者役は殺気が出てないんだけどね。ただ、それをいうと、人を殺しかねないから。彼は基本的にダイコン役者でね。それをなんとかしたくて人生何回分も使って〝実体験〟を増やしてるの。ここでウェイターをやってるのも、来世での演技に役立てるためらしいわ」
慧は唇を噛んだ。
「わたしを試したんですね」
「ええ」カミーユが悪びれずにいう。
「そして、わたしは失敗した」
「そうともいえないかな」
「こんなにしたのにですか?」
慧はめちゃくちゃになったテーブルの上を指した。
カミーユが自分の髪をなでた。
「マナーの本質は〝人を思いやること〟よ。巡は形から入らせるけど、目的地は、自身を含めた人を常に思いやれるよう、自己をコントロールすること。そういう意味じゃ、さっきのあなたはそれができてた。夕の命を守ろうとしたじゃない。今後、殺意に囚われそうになったときは、あのときの気持ちを思い出すことね」
「そんなかんたんには。さっきだって、夕くんが先にかばってくれたからできただけで」
「なら、もっと夕といっしょにいるよう心がればいいじゃないの。あの子はあなたの殺意を引き出すけれど、やさしさも引き出すはずよ。同じ体を共有してるわたしがいうのもなんだけど、とてもいい子だから」
カミーユの目は慈愛に満ちていた。夕の目に似ている。
慧は思った。
二人はともに一個の人格として前世の記憶を引き継いでいない。潜在意識下で性格形成に影響するような負の記憶がないことが、彼らに純粋な親切心を与えているのだろうか。
「でも、お兄さんは反対すると思います。わたしを信用されてませんし、じっさいわたしは信用できないような失敗ばかりしてますから」
「かもしれないけど、この人生はぼくの人生だからね。ぼくが君の役に立てるっていうなら、ぼくは協力するよ」
カミーユではない。夕だ。
慧は、いたたまれなさや恥ずかしさ、嬉しさ、殺したい気持ちがごちゃごちゃになり、目を伏せた。
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