巡は、野々市慧の履歴書に目を落とした。
横浜市神奈川区在住、神奈川区立高校の二年生、アルバイト経験なし。趣味・特技は英語。応募理由は、社会経験のためとある。
彼はボックス席の向かいに座る彼女を見た。
美少女といってさしつかえない。
「で、本当はどうして応募してきたんだい?」
「どうして、って?」
「社会経験を積みたければ、ほかにいくらでも有意義なアルバイトがあるだろう。君の見た目なら、よりどりみどりだ。こんな地味な店で働こうなんて、よほどの物好きでも考えないよ。おまけに時給は最低賃金と来てる」
彼女が悲しげな顔をした。
「よほどの物好きってことじゃダメですか?」
これはモテるな。彼は彼女の少し潤んだ瞳を見ながら考えた。人を惹きつける天性の何かを持ってる。
「ダメだ」
しばらくの沈黙の後、彼女が小声でいった。
「その、占いで、ここでバイトするといいって」
「占い?」
「はい。占い師のおねーさんが見てくれたんです。わたしの望む未来のためには、ここで働くことが欠かせないって」
「それを信じたのかい?」
「はい、その、信じざるを得ないことがあったので」
「なるほど」
巡は人差し指を立ててから、携帯で瑠璃をコールした。だが、向こうは携帯の電源を切っているらしい。くそ。まただ。彼女は「運命」にすべてをゆだねるタイプだ。最低限のところだけ関わって、あとは「流れ」に任せようというのだろう。
巡はアイスティーを一口飲むと、もう一度彼女の目を覗いた。切れ長な瞼に長い睫毛、そして澄んだ瞳。
瑠璃が寄越したとなれば、理由はひとつしかない。
☆☆☆☆
彼は、慧が契約書類を鞄に入れ、ドアから出て行ったところでパソンコを立ち上げた。高官用のバックドアを使って警察のデータベースに入り、野々市慧の前歴を調べる。当然というべきか、真っ白だ。補導歴もない。
まち子が紅茶を盆にのせてやってきた。
「どちらですか? 採用ですか? それとも処分ですか?」
「ビルガメスであることは間違いないが、その先はまだわからないよ。肝心の瑠璃と連絡がつかないんだ。また薬でもやっているんだろう」
「じゃあ、瑠璃さんが掴まるまでは、お店は閉めておいた方がよさそうですね。あの子の前世がどういう人かわからないですし。わたしだけじゃ、いざというとき対応できなそう」
「大丈夫だ。彼女の面倒はわたしが見よう。次の〝出張〟まであと一週間ほどある。その間に見極める必要があるからね。まち子くん、君はしばらく休んでいてくれ」
☆☆☆☆☆
翌日午後、野々市慧が出勤してきた。
彼女は、店の制服であるメイド服に着替えてから、改めて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「ああ、よろしく」と巡。「しかし、ご覧の通り、この店は流行ってないんだ」
店内には彼ら以外誰もいない。
湯の湧く、こぽこぽという音が静かに響く。
窓の外では、一匹のカモメが強風に負けまいと必死で翼をはためかせていた。
「意外です。こんなに素敵なのに」と、慧。
「立地の問題だよ。入口が森に囲まれているからだろうね。こんなところに店があるなんて、誰も思わないのさ」
というより、意図的に見つかりづらいように建てられているのだ。この建物は、もともと別のビルガメスが所有していた。彼女は目立つのを嫌い、世界のいたるところにこういった居心地よく、人の目につかない物件を作った。
慧がいった。
「お客さんがあんまり来ないのに、わたしを雇って大丈夫なんですか?」
「大丈夫、経営状態は良好だよ。さ、今日は研修だ。完璧なお茶の入れ方を覚えてもらうよ」
彼はそういうと、ティーポットを手に取った。
☆☆☆☆☆
窓の外から、教会の鐘の音が聞こえてきた。十八時だ。
天窓から差し込む光は、いつの間にか茜色に変わっていた。
巡はいった。
「ご苦労様。あがっていいよ」
「ありがとうございます」と彼女。
「まだ明るいけど、帰りは気をつけてね」
彼女の顔がわずかに強張った。
「あの、このあたり、あんまり人気ないし、できれば駅まで送っていいただけると嬉しいんですが」
紳士である彼は断りようがなかった。
夕暮れの公園を、二人並んで歩く。
カモメが何匹か、ゆったりと空を漂っている。遠くで船の汽笛が響いていた。コスモワールドの観覧車に灯がともり、港町は夜の姿に変わり始めている。
野々市慧は、自分から誘ったわりに、何も言わず黙りこくっていた。ときおり、思い出したように周りを眺めている。
「女子高生には珍しい風景なのかな?」と、巡。
「いえ、子供がいないんだなと思って」
「観光地とはいえ平日だからね。ただ、最近はあちこちにマンションが新しく建っているからーー」
彼は階段を下りながら、五十メートルほど離れたところをあごで示した。
「ほら、あの親子はきっと新しい住民だ」
三十代の母親と、五歳ほどの男の子がフリスビーを投げ合っていた。赤いプラスチックの円盤がするすると空気の上を滑っている。
美しい母親だ。黒い髪を真ん中で左右に分けている。その血を引いた男の子もたいへんな美形だった。
次の瞬間、巡は背筋が泡だつのを感じた。
殺気、悪意、邪気、どのように形容すべきかわからないが、おぞましい何かが意思を撒き散らした。ほんの一瞬の気配だ。一般人では感じ取ることすらできなかったろう。周囲にいるのは、彼と親子連れ、そして野々市慧だけだ。
やはり。彼は思った。瑠璃が彼女を送り込んだ理由はこれだ。
「どうしたんだ? そんなにじっと見つめて。子供が珍しいってわけではないだろう?」
彼女が、横目で彼を見た。
きれいな瞳だ。夕陽を受けて燃えるように紅い。
「姪っこと同じくらいかなって思ったんです。最近、いっしょに出かけることが多いんです」
「姪?」
「ええ、もう目の中に入れても痛くないっていうか。すっごく可愛いんです」
話しながら、彼は確信を深めていた。彼女は殺人鬼だ。それが現世なのか、前世なのかはわからない。ただ、彼女のなかにはどす黒い欲望がある。姪について話すときの口調は、彼がこれまでの多くの人生で接してきた数多の殺人鬼たちと共通するものがあった。
まあ、瑠璃が関わっていた時点で九割がた固い話なのだ。瑠璃は観察力が優れている。巡ほどではないが他人の殺気も感じ取れる。もし、客の中に不審な人間がいたら、彼のところに送り込み、処遇を任せる。
夕日が丘向こうに沈みきったところで、山下公園駅の案内看板が見えてきた。
その前に、小さな人影があった。影が手をふっていう。
「おねーちゃん! おつかれさま!」
野々市慧がぶるりと体を震わせた。
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