恵美奈はつばを呑んだ。
もちろん演技だ。
「変な話かと思われるでしょうが、わたし、中学生のころから同じ夢を見るんです。霧と石畳の町の夢。そこに、あなたが出てくるんです。何度も何度も。あなたはいまと違って、もっと身長が高くて、髪は金色で、目は青。でもサヴィルロウのスーツを着てました。あたりは深い霧に包まれて、石畳の上にわたしたちの足音が響いてるんです」
「ロンドン、ですか?」
「わかりません。わたしは、ロンドンに行ったことがないので。とにかく、不思議な夢なんです。夢なのに、信じられないほどリアルで、何もかも、まるで自分が実際に体験したことみたいに感じるんです。だから、この間、地下鉄に乗っていてあなたを見かけた時、心臓が止まるかと思いました。夢に出てた人にそっくりだって」
「しかし、その、失礼ながら、あなたのわたしに対する思いは、恋愛感情とは少し違うのではないですか?」
恵美奈は微笑んだ。
「どうでしょう。あなたはわたしにとっては憧れに近い存在でしたから。年頃の女の子の夢に、何度も同じ紳士が出てくれば、ぽーっとなるのも仕方ないでしょう? もちろん、いまは夫も子供もおりますので、あのころのように燃え上がりはしないですが」
「結婚されてるんですか?」
「はい。ですので、ウェイターのわたしへの特別な気づかいは当然なんです。ふだん、夫と来ているのに、いきなり別人と現れたんですから」
「いやはや、浮気と誤解されかねませんね」
「ええ。でも、どうしてもあなたと食事したかったんです。不思議なご縁のあるあなたに、どうしてもご相談したいことがあるんです」
「相談?」
「はい。わたしの見る夢の中身についてです」
「夢の?」
「わたし夢の中で人を殺しているんです」
☆☆☆☆☆☆
巡が一呼吸置いた。
「それは、恐ろしいですね。しかし、夢でしょう?」
「でも、毎晩見るんです。ぶつぎりの映画みたいに恐ろしいシーンを」
恵美奈は二の腕をさすった。
「一人や二人じゃないんです。わたしの手が、女性や小さな女の子たちを……。あるときは、わたしはイギリスの紳士で、またあるときはアメリカの裕福な青年で。でも、みんな人殺しを楽しんでる。快楽殺人鬼なんです! わたし、恐ろしいんです。いつか、自分が夢に出てきた自分のように、他の人を殺してしまうんじゃないのかって」
「では、恵美奈さんは現世では誰も手にかけていないということですか?」
「もちろんです。そんな……人殺しなんて恐ろしいこと、絶対にゴメンです。でも、ほんとにごくたまになんですが、殺人に対する嫌悪感が弱くなる時があるんです。生理の前後が多いんですが、そういうときは自分が怖くなります」
巡が目を細めてつぶやいた。
「ふむ。女性としての自身に揺らぎが生じると、過去の自分が強く出てくる。逆にいうと、性別が変化すると、前世を抑え込みやすくなるのか。初めてのパターンだ」
「ぜん、せ?」
何も知らぬ風を装ってオウム返しにして見せながら、恵美奈は心の中で冷笑した。
彼女は四つほど前の前世でも女だったが、そのときも殺しに殺しまくった。男だろうが女だろうが、殺人者になるべくして生まれた人間は必ずそうなる。
彼女は咳払いした。
「逆に、心がすごく安定する夢もあるんです」
「ほお。どんなです?」
「それは……その、巡さん、あなたが出てくるんです。霧の立ち込めた煉瓦造りの都市、あなたはガス灯の下に立っています。黒いフロックコートに、黒いスーツ。吐く息が白く立ち上って。目は今と違って青だけど、宿ってる光は同じ。その目に見つめられると、夢の中のわたしは心が痛くなるんです。あなたの口が動いて何かいいます。でもなんといってるかわかりません。で、起きると、わたしはいつも以上にわたし自身になってるんです」
「おもしろい!」巡がワインをあおった。「つまり、夢の中の、いや、前世のわたしが現世のあなたの殺人衝動を抑えていると。なるほど、なるほど! わたしの活動がついに身を結んだのかもしれませんね」
「活動?」
「ええ、連続殺人鬼の改心です。ああした連中は死刑にしても次の生でまた同じことを繰り返す。それを防ぐには、現世で悔い改める以外に無い。わたしは前世であなたになんといったんですか? それがきっとキーワードですよ!」
恵美奈は首を横に振った。
「す、すいません。何の話なんでしょう。その前世、ですか?」
「これは失礼、少々先走りすぎましたね。あなたには一から説明が必要ですね」
彼は、転生とビルガメスについて丁寧に説明したのち、優美な動きで両手を広げた。
「ですので、わたしのどのような行為があなたの衝動を抑えることにつながったのかを知ることは、非常に重要なのです」
恵美奈は申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい」
「突然、転生、といわれても信じられませんか?」
「いえ、そうではないんです。あなたはわたしの〝夢の人〟、あなたが本当のことをいっているってことは理解できます。わたしは死んでも記憶が継続する人間で、あなたもそうなんだということを、事実として理解しています。前世のわたしが本当に人を殺していた可能性が高いということはショックではありますけど、ようやく夢の説明がついたことに安心もしています。ただ、肝心の、あなたがなんといったかを思い出せないんです」
巡が手元のグラスに目を落とした。
真っ赤なワインが、小さな渦を巻いている。
彼がいった。
「残念です。何があなたを人の道に引き戻しているかわかれば、今後の参考になったのですが。とはいえ、希望を持てるお話です。やはり、殺人性向を持つ人間も改心できると改めて確認できたんですから。今夜は、わたしにとってたいへん嬉しい日になりました。このあとは、ぜひ、楽しい食事としましょう」
彼女はためらいがちに微笑んだ。
「わたしは初めから楽しいですよ。だって、中学生の頃から憧れていた方とお食事してるんですから」
「それは光栄ですね。しかし、あらかじめ謝っておきますが、わたしは人に愛されるような存在ではありませんよ」
「そんなことないです!」彼女は頰を赤らめた。「あ、大きな声を出してすいません。でも、巡さんは魅力的ですよ。夢に出てきたロマンチックな紳士そのままです」
彼女はシャンパングラスをあおった。
顔がさらに赤くなる。
「いい飲みっぷりですね」
巡が笑いながら、ワインを優雅に口に含んだ。
そこからの会食は彼女が思ってもみなかったほど、和気藹々とした空気のなかで進んだ。
巡はデート相手として、なかなかのものだった。あらゆる事柄に対する深い造形、政治、芸術、経済、歴史、すべてに通じており、食についても一流だった。選ぶ酒はすべて料理にマッチしており、マナーも完璧だ。
結局、デザートまでにブランドワインとシャンパンを合わせて四本も開けた。
コスモワールドの観覧車時計が夜十時を示した。
街の灯が少しずつ消え始める。
二人の間できらめくグラスキャンドルも、ずいぶんと短くなった。
彼女の呼吸は、平時よりわずかに荒い。
ドレスの胸元は、三本目のワインを空にしたあたりで「暑くて」といいわけして、指で開いておいた。巡からは豊満な胸の谷間が覗けるはずだ。
横目で、ガラスに映る自分自身を確認する。
日本人離れした目鼻立ちは、女優並みだ。乱れ髪が一本、頰から首筋にながれている。頬は上気し、瞳は潤んでいる。ぷっくりした唇は薄ピンク色に鈍く光る。
男が求める理想の女だ。
思わず苦笑する。理想通りになるのは当たり前だ。男だったときの思考をなぞって、自身を磨き上げてきたのだから。考えるに、極端にモテる男や女というのは、別の性別だった前世の記憶を濃く引き継いでいるのだろう。
巡がいった。
「なにがおかしいんですか?」
「いえ、こんな風に男性と楽しむのって、久しぶりだなと思って」
「まさか。あなたを放っておく男なんていないでしょう。第一、旦那さんがいるじゃありませんか?」
「ほとんどの男性がわたしなんて見向きもしません。最近は、夫とは会話もないです。よそに女の人がいるみたいで。夫がいうんです。お前は顔がくどすぎるって」
「わたしから見ると、最高の造形ですがね」
「あら、そんなこと聞いたら本気にしちゃいますよ」
「もちろん本気です。わたしは冗談はいいませんから」
彼が自分の手を彼女の手に重ねた。
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