弦
その一
私はいつも正午から一時間歩く事にしている。いつものように北に向かって歩き始めた。いつもと変わらずいつもと同じようにだ。それに何の意味があると問われると困るがそれしか無いと言うしかないだろう。前を見ると遙か無限の彼方まで平らな地面が広がっている。私の一歩は三十五センチメートルで一時間に四千二百メートル前進する。先ほどは歩くと言ったが正確な表現では無いだろう。昔の人間が歩いていたのと同じように足を前後に動かしていると、勝手に前進すると言った方が正しい。足は地面に着かず浮いているのだから。私は昔の仲間から保守的と言われているが、その仲間ともずいぶん会ってない。
何とは無しに左を向いた。千キロメートル先に私が見えた。そのまた向こう千キロメートルに私が見え、それがずっと続いている。当然私の視力は無限に高いわけではないし、空間には量子的なブレもある。私自身の陰の部分は見えないので無限に私が見えるわけでは無い。
私は北の方を向くとまた歩き始めた。三千二百十三秒歩いたところで昔の事を思い出し始めたので、歩きながら昔の事を考えた。
事の起こりは二百年ほど前だ。正確には六十三億千二百万四千五百十三プラスマイナス二百五十三秒前だ。私達の惑星に、ある国があった。今の人間が昔の記憶を持っていないとしたら、国や社会の概念を説明するのは難しいだろうがともかくそんな物があった。ある研究所で爆発事故が起きた。その事故の調査から一つの発見があった。有機化合物の結晶体を作っていたのだが、当初目的としていた化合物とは違う物質が生成されていた。偶然出来たその結晶体はなぜか自然に発熱する事が判った。当初は勝手に酸化反応などが進んで発熱しているのでは無いかと考えられたが、周囲の化学的な環境がどんな状態でも発熱した。では物理的な原因、核分裂や核融合で発熱が起きているのか分析したが、質量の増減や元素の生成も全くなかった。実は単に赤外線を吸収しているだの、音波による物だと色々仮説が立てられて検証されたが、発熱する以外何も変化を起こさない事がわかった。
本来絶対あり得ない事だ。何の代償も無しで熱エネルギーが発生していた。
科学の大法則を破る現象に世界中の科学者が一斉に挑み始めた。初めは研究は難航した。結晶体は一つしか無かったし、その研究所があった国はそれを国家機密にしたからだ。だが幸いと言うべきか災いと言うべきか結晶体の生成条件が特定できた為、結晶体が大量に作り出され、世界中で研究が進んだ。そのうち結晶体の生成条件を変えると、結晶体が吸熱現象を起こす事が判った。この際も吸熱するだけで全く他に変化は無かった。何もそれ以外変化を起こさないで発熱と吸熱を起こす結晶体の組み合わせは世界を変えた。当然だろう。熱エネルギーを出し続けるだけでも無限のエネルギー源だが、これなら廃熱を気にしなくて良い。完全無欠の永久機関のできあがりだ。それに複数の結晶体の幾何学的相対位置を変えると、発熱量と吸熱量を自由に変えられる事も分かった。相変わらず原理は不明だったが、応用技術だけが進んだ。
歩き始めてから一時間経ったようだ。とりあえず休む事にしよう。私は歩くのをやめその場に立ち尽くした。
一日が経った。また私は歩き始めた。
無限のエネルギーが手に入ったら人は何をするだろうか。兵器を作る事を考える者もいたし、それを売り物にしようとした者もいた。だが防御にも無限のエネルギーが使えるので、これはすぐに誰もやらなくなった。
次に皆が始めたのは、もし無限のエネルギーが有れば出来るが、現実的には出来ないと言われた理論の見直しだった。超光速移動、超高速演算処理等だ。まずその中で超高速演算処理が技術的に可能だと判断され、開発が進んだ。何せ発熱とエネルギー源を無視して良いため、ありとあらゆる技術が演算装置につぎ込める。すぐに人が一生に使う演算量を瞬く間に演算出来るコンピュータが開発された。初めは家ほどの大きさだったが、直ぐに箪笥ほどの大きさになり、拳大になり、人の体に内蔵しても問題ない大きさとなった。当然のように人はそれを体に取り込んだ。
次は記憶装置だった。無限のエネルギーが有れば、物質を極限まで加工出来る。物質が極限まで加工出来れば大量の情報が保持できる。その上無限のエネルギーと無限に近い演算能力が有るのならば、幾らでもエラー処理が出来る。やはりこれも、人が一生に得られるどころか、人間社会全てが集められる情報が拳大に収まるようになった。当然これを人は体に取り込んだ。次は素材だ。無限に細かい加工が出来るのなら、負の屈折率を持つ物質に代表されるメタマテリアルがいろいろ作れる。それはいろいろな構造物になりセンサーになった。これらも人は体に取り込んだ。取り込んだというより、その素材で身体を作り直した。
この時点で人は大きく生き様を変えた。生き物の根本は自分の情報を次代に伝えて、発展させる事だが、それをDNAなどという不安定な物に任せる必要はない。無限のエラー処理が出来るのならば、機械に置き換え情報のやり取りをした方が確実で早い。人はサイボーグから人の意識を持ったアンドロイドに変わって行った。ただ姿形はあまり変えなかったのは面白い。初めのうちは、気に入った相手と情報のやり取りをして中間体を作っていたが徐々にそれもやらなくなった。
地球は瞬く間に解析と開発が終わった。次は宇宙と言う事となった。宇宙船が沢山作られた。ただ超光速移動は実現しなかったが、それも問題はない。今や人には無限の時間が有るのだから。ただ宇宙の彼方に行ってガッカリするのも問題なので、太陽系の大きさを直径に持つ干渉型の電波望遠鏡などが作られ、目的地の選定が行われた。
歩き始めて三百十三秒だ。何となく上を見た。私が上から覗いていた。
超大型電波望遠鏡での観察結果は意外な物だった。他の星系の惑星を観察する空き時間に、宇宙の果てを観察したところ、宇宙の大きさが急速に縮んでいた。それも光速の数億倍の速度でだ。宇宙の大きさ自体は光速を超えて変化しても問題はないが、縮む理由が分からない。人によってはあの結晶体が宇宙の構造を壊したと主張したが、それも不明だ。人は宇宙を諦めた。ただどんな状態でも生き残れるように、バリア装置や推進装置に全開発能力を傾けた。開発が済んだそれを体に取り込んでいった。それからほんの五十年で宇宙の半径は二百光年程になった。
上から覗いている私に手を振って見た。昔の人間の習慣だ。当然のように光速によるタイムラグ後、私は手を振っていた。
宇宙の半径が二百光年になった辺りで収縮の速度は落ちてきた。当然宇宙は赤熱していたが、人はバリア装置に助けられ存在していた。そして半径が百光年程になった時いきなり宇宙が破けた。XYZの三軸のどれでもないある方向としか言えないその方向のみに広がって行った。今ではその方向を北と言っている。宇宙は細長くなっていった。同時に宇宙の物質とエネルギーは縮退し、一本の棒と変わった。私たちが地面と呼んでいるのはこれだ。その後も宇宙は縮みつつ伸び、最後には円周千キロで無限に延び続ける棒と周囲の空いた空間へと変わった。棒というのも単なる比喩だし周囲の空間というのも比喩だ。多次元的に曲がった何かなのだろうが、人には無限に伸びた棒と言うのがしっくりくる。実際光学的に見ると、無限に広い地面があり、横を見れば光が宇宙を円周方向に一週したエコーである自分自身が何人も見えるし、上を見ればやはり地面と自分自身の頭が見える。当然だ。それが宇宙の全てなのだから。空間が棒を包んでいるのと同じく棒も空間を包んでいる。棒の円周が千キロメートルというのも、千キロメートル毎に自分の姿が見えるからそう言っているだけで、もっと多次元の構造がそう見えているだけだろう。
宇宙は人間を除くと極単純な構造になった。バリア装置も人を覆う程度の大きさしかカバー出来なかったため、残ったのは人間と服ぐらいだ。体内の装置で何か作り出しても、置く場所が無いため、人間と衣服の他に存在しているのは縮退した棒のみになり人間は存在の目的を失った。
私はまた歩き始めた。
そんな人間達の中に一人の思想家が生まれた。宗教家、カウンセラーと言ってもいいだろう。妄想家でもかまわない。彼は言った。
「棒に沿って進めば天国に行ける」
天国とは昔の人が信じていたらしい理想郷だ。他にやる事もないため、人は歩き始めた。私のように歩く動作の真似をする者もいれば、推進装置をフルに働かせて亜光速で進む者もいた。天国がどういう物かは分からないが、行って損は無いだろう。皆信じてはいないが目的がある事は良い事だ。
気が付くと前方のはるか彼方で閃光が煌めいた。
それぞれの速度で天国に向かっている人間達の相対位置は散けてきた。私も五百六十二日他人と会ってない。絶対的位置はと言われると正確な位置は分からない。地面は全く特徴が無いからだ。体内のナビゲーションシステムで移動距離などはわかるが検証のしようがない。私たちに苦痛という感覚はないが、感情はある。ずっと歩いていると飽きてくる。人によっては地面に突っ込んでみようと考え出す者もいる。地面に触れバリア装置を解いた瞬間、身体の構成物は縮退し地面に吸収される。その際の地面の振動で閃光が発生しそれと知れる。地面はその重力もしくは全ての力が統合された何かで直ぐに平らに丸まり、そこに何かがあった形跡は、光と対発生した粒子線と重力波のみが広がる事だけで、そして消える。人によってはこの光と重力波が天国に届いて、情報として再構成され、人が蘇るという者もいる。ただそれは無いだろう。全ては量子の揺らぎの中に消えるだろう。
今では人間がどれ程残っているか分からない。大規模な計測器が無いので、それは不明だ。近くにいれば電波で通信も出来るが、離れると地面の縮退物質との干渉で電波も揺らぎ、空間に溶け込んでいく。だからただ私は歩き続ける。ただしこれは無駄なのかもしれない。宇宙の端が超光速で広がっているのなら、絶対たどり着けない。いろいろな技術を開発した人間だが、超光速移動だけは開発出来なかったからだ。
だがもし宇宙が膨張を止めていれば、天国に行けるのかも知れない。天国は昔の宇宙のように一様かつ等方らしい。そしてゆっくりゆっくり膨張しているらしい。私は天国に着いたら何をするか、体内の計算機でずっとシミュレーションを続けながら歩き続けている。
南の方でまた閃光が煌めいた。
私は時々南に向かったらどうなるのだろうと考える。宇宙が破けた時は丸い末端があったのだろうが、もしかしたら南にも天国があるのかもしれない。今でも丸い端があるかどうかは行ってみなければ分からない。ただ今更南に戻るのも何かもったいない。時間は無限にあるのにもったいないとは面白いと考える時もあるが、それはまだ私が人間だからなのだろう。
ともかく私は北へ歩いていく。
その二
その日地球の重力波望遠鏡は大忙しだった。各地の観測装置で重力波が検出された。それらの情報を総合すると、ブラックホールの衝突等とは異なっていた。発生源が異常に広範囲に広がっていて数十万光年程もあり、スペクトルも偏っていた。数ヶ月後、国際天文学連合より発表があった。
「発表します。検出された重力波の発生源は超巨大なコズミックストリングです。半径が約五十万光年の環状になっております。元々は両端が開いていましたが、最近両端が重なり接続したため、振動により重力波源となっています」
世界中の共同研究により解明されたこの事実はビックニュースだ。宇宙論に訂正が入るほどのインパクトを持っており本来なら世界中がその話で盛り上がるだろう。だがそのニュースはそれ程話題にならなかった。何故ならアメリカのある研究所が発表した無限に熱エネルギーを発生する結晶体の検証結果が発表され、それが間違っていないと証明されたからだ。人類は、これでエネルギー問題が解決し、貧困も飢餓も争いも解決されると喜んだ。
その三
「この宇宙のエネルギーの刈り取り完了。次の宇宙への種まき完了」
どこかで誰かがこんな意味の事を呟いた。
終わり
読み終わったら、ポイントを付けましょう!