「とりあえず、服が必要だな。オレの服で良いか?」
と、目を伏せたままロドウは尋ねた。
「ヌシさまの服を、貸していただけるのなら、光栄なことなのですよ」
「チョット臭いかもしれんぞ。しばらく洗ってないから」
「ワッチのほうこそ、ヌシさまの服を汚してしまうかもしれないのです。お借りする前に、カラダを清めるのですよ」
少女はそう言うと、指をパチンと鳴らした。少女の指先には小さな六芒星が生まれた。手のひらサイズの大きさ。
青白く光るそれは、魔法を発現するさいの前兆だった。
魔法陣から水が発せられる。水は少女のカラダにまとわりついた。少女の肉体の輪郭を覆っていく、薄いヴェールに包まれたかのようだ。水が霧散した。少女のカラダを染めていた血が払拭されていた。
洗われた少女の素肌は、ますます儚げであった。
処女雪のような白いなかに、うっすらと黒ずんでいる場所があった。
右の乳房のふもとから、左のワキバラにかけて刻まれていた。それはまさしく、たったいま完治した傷跡に違いなかった。素肌を塗りつぶしていた血が消えたことによって、その傷跡がハッキリと見えるのだった。
「そ、そんなに見られると、照れ臭いのです。ヌシさま」
と、少女はそのつつましい乳房を隠すようにして、カラダを抱きしめていた。豊満とは言いがたいけれど、貧相というほどではない乳房の肉が、腕で押しつぶされていた。
「わ、悪い」
少女の清純な肉体に、いかにブシツケな視線をやっていたのか自覚して、ロドウはとっさに目を伏せた。
しかし見ていたのは、そのカラダではなくて、その傷跡だった。
弁解をしようと思ったがやめた。上手く言い訳できる自信がなかった。カラダに見とれる気持ちも皆無というわけではなかった。気まずさを取っ払うように咳払いをした。
ベッドの下から、汚れていないブリオーを引っ張り出して少女に与えた。
「オレは後ろを見てるから、服を着てくれ」
「ワッチはべつに、ヌシさまに見られても良いのですよ」
「そういうわけにはいかないだろ」
「照れ屋さんなのですね」
少女はそう言うと、着衣する気配があった。衣擦れの音を、ロドウは背中で聞いていた。少女の「ヌシさま」という呼称は、いったいどういう意味が込められているのかを考えていた。それは対等の者を呼ぶよりも、目上の人を呼ぶ音色に聞こえる。それとも魔族は、他人のことをそう呼ぶのだろうか?
「もう良いのですよ」
と、少女の声を合図に、ロドウは振り向いた。
少女はベッドの上に立ち上がっていた。
ロドウのブリオーはもともとヒザしたあたりまで丈のあるものだった。少女が着ると、脚までスッポリ隠してしまった。
「ヌシさまのカラダは大きいのですね」
「まぁ、君が小さいというのもあると思うけれど。スソを切るか。そのままだと歩けないだろう」
「ヌシさまの服を切るだなんて、申し訳ないのですよ。ワッチはこれで充分なのです。翼や尻尾を隠すにも都合が良いのです」
「そうか」
「ヌシさまの濡れたカラダも、ワッチの魔法で乾かすのですよ」
少女はそう言うと、魔法陣を展開して、たちまちロドウの服も乾かしてくれた。まるで長いあいだ陽光に暖められたような心地よさがあった。血で汚れてしまっていたブリオーもいっしょに洗ってくれた。礼を言うと、たいしたことではないのです、と少女は返した。
少女の素性は、避けては通れぬ話題だった。
「まさか魔族だなんて、思いもしなかった」
と、切り出すことにした。
「ヌシさまは、人間なのですね」
「見ての通り、オレには翼も尻尾も生えてなければ、キバも角もないんでな」
少女はベッドに腰かけなおしていた。サイドテーブルとして使っている丸太の上に、ロドウは座ることにした。
「ヌシさまは、どうしてワッチを助けたのですか? 人間の少女だと思ったからですか?」
「それもあるけど、お前が寄る辺なさそうだったから、オレが助けなくちゃ――と思って」
少女が傷だらけで倒れていて、助けを求めていたのだ。
見捨てるほうがむずかしい。
少女が生死をさまよっているとき、ロドウの胸ぐらをすがるようにつかんできた、あの小さなチカラを、いまも忘れてはいなかった。
「ヌシさまみたいな人に助けられて、ワッチは運が良かったのです」
「本気で言ってるのか」
お世辞だろうと思った。少女からしてみれば、助けてもらった恩人を悪く言うことはできない。こんな貧相な部屋に連れて来られて、手際の悪い治療をされて、オマケに襤褸い服を渡された状況だ。「運が良かった」は、皮肉にしか聞こえなかった。悪意がないことはわかっていたが、自嘲を禁じえない。
「冗談に聞こえるのですか」
と、少女はふくれっ面をして見せた。その表情は、人間の少女と大差ないように見えた。
「じゃあ、運が良かったと言える点をあげられるのか?」
意地の悪い質問だと気づいて、悪い、とあわてて口を閉ざした。しかし少女はその質問にたいする答えを持っていたのだった。
「ひとつは、ヌシさまがワッチを魔族だとわかっても、殺さなかったことなのです」
「まあな」
それと気づいたのは、もう回復薬を買ったあとのことだったのだ。気づいたから、殺すというわけにもいかなかった。
魔族は人の敵意をかわすために、あえて好意をいだかれるような風貌をしているという。そういう意味では、少女の風貌に見事なまでにとらわれた、とも言える。
「もうひとつは、ヌシさまが、王の器を持っていたことなのです」
「さっきから、魔王がどうとか言ってるが、オレにはその意味がわからない」
「ヌシさまは、気づいておられないのですか」
「だから、何に」
「魔族は同族の魔力も吸いますが、おもに人の魔力を食べて、命をつないでおります」
「そうだな。だから、人と敵対してる」
「さきほどワッチは、ヌシさまの魔力をいただきました」
「食われるかと思ったけどな」
と、ウナジをさすった。
甘噛み程度の痛みだった。血も出ていない。痛みももう消えていた。
「ヌシさまの魔力は、魔族であるワッチからしてみれば、最上級の味がいたしました。魔王さまに匹敵するほど――いえ、あるいはそれ以上とも言えるかもしれません」
少女の白銀の双眸には、あきらかに尊敬――いやそれ以上、崇拝の光がやどされていた。他人からそんな目で見られることに、ロドウは慣れていなかった。いや。正確には、久しぶりだった、というべきか。皇子として生きてきたころには、他人からそういう目を向けられることはあった。遠い昔のことだ。
「まさか、オレはそんな特別な人間じゃない」
と、ロドウはかぶりを振った。
それは確信をもって言えることだった。このスキルのおかげで、自分は皇族を追放されたのだ。そして母は殺されたのだ。のみならず、自分の人生が惨憺としているのは、自分という人間の能力の低さによるものだと卑屈な思いを拭えなかった。
「どうやら、人間はヌシさまの偉大さに気づいておられないようですね。それも、ワッチからしてみれば、運の良いことなのです」
「オレからしてみれば、最悪だがな」
失言だったことに気づいたようで、少女はあわててあやまった。ロドウはたいして気にしていなかったので、別に良いんだと一蹴した。
「ワッチのこの傷が治ったのも、ヌシさまの魔力のおかげなのですよ」
と、少女は腹をナでて言った。
「回復薬の効果じゃないのか?」
「違うのです。ヌシさまの魔力をいただいたから、傷を癒すことができたのですよ。ヌシさまの魔力には、それだけのチカラがあるのです。ワッチがその生き証人なのですよ」
「でも、オレは魔法なんて使えないぜ。癒術だって、火球だって使えない」
「体内に魔力をためておられるのでは?」
言われて、気づいた。
スキル《貯蔵》。
体内に魔力を貯めおくことができる――というものだ。もしかすると、そのスキルに影響しているのかもしれない。
「そうか……。そういうことか」
「どうやら、納得がいったようなのですね。ヌシさまは、偉大なおかたなのです。ワッチの命の恩人なのです」
と、少女は笑った。
この眼前にいる少女の腹を癒したのは、オレなのだ。そう思うと、もう一度、少女の腹の傷を見たくなった。少女の腹に、ロドウの勲章が刻まれたような心地になったのだ。
言えば、少女はそのブリオーをまくりあげて見せてくれるような気がした。けれどあまりに傲慢な考えだったし、遠慮もあって、口に出すことはできなかった。
さっきから窓をたたいていた雨の音がやんでいた。
春が来るな、と思った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!