ゴンゴンゴン――ッ
トビラを叩く音に遠慮はなかった。いまにも踏み込んで来る気配をかんじた。この部屋にやってくる人間などかぎられている。大家が家賃の取り立てに来るには、まだ時期が早かったし、それほど乱暴なノックはしない。
「マグワナ。隠れてろ」
「隠れると言っても、どこに?」
部屋を見渡した。見渡せるほどの広さすらなかった。ベッドの下になら、人ひとりぐらい入れる余裕があった。入れたからと言って、どうなるだろうか。
ロドウの厭な予感が的中しているならば、このトビラの向こうにいるのは、マグワナを捜索している騎士だった。十中八九間違いないだろうと感じていた。
足音や、息遣い。聞こえてくる気配は、ひとりやふたりのものではなかった。
相手が騎士なら、ベッドの下に隠れてもすぐに見つけ出してしまうに違いなかった。窓から跳び下りるにしても、ここは3階だ。
「私、戦うのです。ヌシさまがチカラを貸してくれるなら、ワッチは勝てます」
「いや。こんなところで暴れられたら、たまったもんじゃない。それは最後の手段にしてくれ」
追放された皇族である。死んだことになっているのだ。目立ちたくはなかった。
「では、どうすれば良いのです?」
バン――ッ
ついにトビラが破られたようだ。ロドウは何事もないかのように、パンケーキを食べていることにした。
やはり入ってきたのは、都市の騎士だった。ガチャガチャと武具の音が、騒がしかった。
「何事ですか」
と、ロドウは平静をよそおって尋ねた。
「私はイア・フェルタイン。勇者の名を冠される者です。この部屋をすこし調べさせていただきたいのですが」
「勇者――さまですか」
まさか勇者がじきじきに、やって来るとは思わなかった。しかし、マグワナは勇者に傷つけられたと言っていたし、その勇者がマグワナの捜索に参加しているのは、道理にかなっていることである。
こいつが――勇者か、とあらためて見つめた。
ブロンドの髪をショートボブにしており、目は碧眼であった。鉄の胸当てをつけていたが、その胸がおおきく膨らんでいることがわかる。
みじんの陰りすら感じられない女性だった。清い、とはこういうことを言うのだろう。いったいどういう生き方をすれば、これほどまでに陰りのない顔立ちになるのか興味をおぼえた。美人を通り越して、もはや神々しい。
「はじめまして。ロドウ・フェレンツェです」
と、名乗ってみたのだが、こんな状況で名乗るのも滑稽な気がした。
マグワナを匿っているという事実が、ロドウにすくなからず悪事を秘密にしているような心理にさせていた。冷静さを忘れるな、と自分に言い聞かせた。
「部屋を調べる許可をいただきたい」
「ええ。それは構いませんが、いったいどういう理由です? ヤマしいものは、何も持っていませんが」
ロドウがマグワナを、この部屋に連れ込んだところを見られていたのだろうか。それとも密告があったのだろうか。
他人に見られないように配慮はしていたつもりだ。
「このあたりに、魔族の娘が逃げ込んだので、シラミツブシに捜索しているのです」
「そうでしたか」
と、いうことは、べつにロドウだけがターゲットにされている――というわけではないのだろう。
ひとまずは安心だ。
「もし、見かけてもくれぐれも近づかないように、お気を付けください。魔族の娘は可憐な見た目で、人をあざむき、その魔力を吸いとろうとしてくるはずです」
「吸い取られると、どうなります?」
「よほど強い魔力を持っていないかぎりは、魔力を吸い上げられて、死にいたります」
「それは怖い」
と、肩をすくめた。
ロドウが死ななかったのは、≪貯蔵≫のおかげだろうか。もし魔力がすくなかったら、マグワナに吸われたさいに、死んでいたのかもしれない。
「とは言っても、調べられるような場所はないようですね」
「ご覧の通り、狭い部屋なんて。ベッドの下ぐらいですよ」
覗き込むのも億劫だという態度で、騎士がベッドの下を見ていた。べつになにもありはしない。騎士がかぶりを振っていた。
「失礼だが、ここには1人で暮らしているのですか?」
「ええ」
「しかし、食事はふたりぶん、あるようですが」
と、イアはサイドテーブルの上に置かれている食器に目をつけたようだ。
たしかにパンケーキもジャガイモも2人ぶんあった。これに関しては、咄嗟に隠すことができなかったのだ。
目ざといな、と思った。
「これが2人ぶんに見えますか? オレがひとりで食べるんですよ」
「なるほど。そうでしたか」
納得したのかはわからないが、イアはそうこたえた。
ロドウはイアの顔を見つめた。
皇帝陛下より、『勇者』の爵位を授与された女――。
もしもロドウが魔王として立ったならば、必ずや戦場で相まみえる相手であった。
何度見ても、その顔には劣等感や辛酸をナめた痕跡が見受けられなかった。顔立ちだけでなく、その健全にふくらんだ乳房も、しなやかな四肢も、すべては鬱屈のない快活さを感じさせられた。
そう見えた――というだけだ。事実は定かではない。
人知れず努力しているのかもしれない。泥をすすって生きてきたのかもしれない。しかし、イアの全身から発せられる明朗な雰囲気は、ロドウに憎悪すらおぼえさせるのだった。
自分のスキルは無能だと蔑まれて、ここまで落ちぶれた。皇子から、貧民となり、泥をすすって生きている。なのにこんな女もいるのだ。それはつまらない嫉妬であり、ヤッカミであった。この女を汚してやりたいという欲求にすら駆られたほどであった。
この女が、自分のところに回ってくるはずの幸福まで、すべて吸い上げてしまっているような気がした。
「私の顔に、なにかついていますか?」
と、イアは怪訝に思ったようで、そう尋ねてきた。
「いえ。あまりに整った顔立ちなので、すこし見惚れてしまいました」
異性をホめる言葉などロドウは滅多に口にしなかった。スラスラとそう言うことが出来たのは、思ってもいないセリフだったからだろう。整っているというのはウソではない。二重マブタ。透き通った碧眼。通った鼻筋。どれをとっても一級品である。しかし、惹かれることはなかった。むしろ近寄りがたいほどの美女である。
「そうですか。あなたのほうこそ、とても庶民とは思えない顔立ちをしております」
と、イアは微笑んだ。
「いえいえ。オレはただの庶民ですよ。いや、庶民にもなれなかった人間のなれの果てと言いましょうか」
顔立ちが整っているのはトウゼンだ。奢りではない。なにせ皇族から与えられた顔なのだ。しかし、ロドウの顔に付与されたのは、皇族より与えられた品位ばかりではなかった。そこには復讐心や憎悪や貧困といったものが、凄まじい陰りを落としているはずであった。
「なにか悩みでもあるのですか?」
と、イアが尋ねてきた。
「悩みがあるように見えますか?」
「眉間に深いシワが刻まれています」
と、イアはそう言うと、ロドウの眉間を軽く小突いてきた。
まさか触られるとは思っていなかったので、すこし驚いた。自然と手が伸びてしまったのか、イア自身も驚いた表情をしていた。
「悩みなら、たくさんありますよ。明日の飯にも困っているぐらいです。オレには魔法も剣も、生まれ持ったスキルもクズだったんで」
「そうですか」
と、イアは淡泊に応じた。
沈黙。
なんだか気まずい空気が流れた。
沈黙をやぶったのは、騎士の声だった。部屋に異常なし、ということだ。マグワナは、見つからなかったようだ。
ひとつだけ、この部屋には、隠れられる場所があった。倉庫として使っている壁穴である。部屋としては欠陥であるこの壁穴が、こんな形で役立つときが来るとは思わなかった。中の物を取り出して、マグワナに隠れてもらった。そして壁穴をふさぐ形で木の板を張り付けた。張りつけると言っても、すぐに剥がすことができる。はたから見れば、ただの壁だった。まさか空洞になっているとは、誰も思いもしないだろう。まるでこのときのために、誰かがこの壁穴を用意していたかのようだ。
(勝ったな)
鬱屈としたロドウの生活をともにしてきた、この質素な部屋が味方をしてくれたのだ。あの壁穴が、そう簡単に見つかるものか。
「失礼ですが、これはなんでしょう?」
と、イアが拾い上げたのは空き瓶だった。マグワナのために、ロドウがあわてて買ってきたものだ。
「回復薬の空き瓶ですよ。オレはこう見えても冒険者なんで」
そう言い逃れできると思ったので、べつに隠す必要性は感じられなかった。そう不審なものではなはずだが、イアはジッとその空き瓶を見つめていた。
そうでしたか――とイアはその空き瓶を床に戻した。
「失礼しました。もしかすると、またお邪魔するかもしれません。それからこちらを」
と、イアはマグワナの人相書きをわたしてきた。
「これは?」
と、ロドウはふたたび平然をよそおう必要があった。
「魔族の娘の顔です。見かけたら近くにいる騎士にお報せください。懸賞金も出ていますので」
「わかりました。注意しておきます」
イアは一礼すると、騎士を連れて部屋を出て行った。出て行ってからも、イアがトビラの向こうで耳をすましているような気がした。
これは――。
これは、ただマグワナをかくまった――というだけの話ではない。
勇者から、魔王の娘をかくまったのだ。それはつまり、ロドウがすでに魔王として立つ厳然とした決意をもっている、ということでもあった。
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