石畳のストリート。背の高い石レンガの建物がところ狭しと密集している。そのすきまから見える空は灰色ににごっている。普段は極彩色に見える都市の風景も、今日はくすんで見えた。魔術師たちは魔法で半透明な傘を展開していた。半透明な花が、いくつも開いているようにも見えた。
ポツ……ポツ……。
雨粒が石畳の地面を鳴らしていた。火照ったカラダには、冷たい水の感触が心地よかった。
濡れたまま、歩くことにした。
馬車がロドウ・フェレンツェを追い越すようにして走り去って行った。その拍子に跳ねた水が、ロドウのブリオーのスソを濡らした。冷たい。どうせ濡れるつもりだったが、すこしイラダチをおぼえた。
「はぁ」
手元にある銀貨。5枚。全財産。
これで今月を乗り越えなくてはならなかった。ギリギリまで切り詰めれば、乗り越えられなくはない。とはいっても、みすぼらしい気持ちをおさえることはできなかった。
銀貨の冷たさは、雨によって冷えた浅春の空気によるものだった。しかし、自身に対する世間のつめたさであるような錯覚を拭いさることができなかった。5枚の銀貨を乱暴にポケットに突っ込んだ。
裏路地。
木造板を適当に打ちつけたようなトビラがある。「立入禁止」の文字。構わない。トび出ている釘を足場にして、乗り越える。この裏路地を抜ければ、アパートへの近道だった。上手く乗り越えたつもりだった。
「おわっ」
乗り越えたさき。少女がもたれかかっていた。あわや踏みつけるところだった。あわてて避けた。滑った。浅い水たまりに尻もちをつくことになった。その水たまりはよく見ると、赤くにごっていた。少女のワキバラから、流れ出た血液による染色であった。
しばし、その少女を見つめた。
なにゆえ、少女が負傷しているのかわからなかった。どう対処すれば良いのかもわからなかった。
「大丈夫か? ケガしてんのか?」
そう問いかけた。
愚問だったな、と思った。ケガをしているのは明白である。
「殺さないで」
「殺したりしないけど……」
少女。
白銀の髪を長く伸ばしていた。顔にはまだあどけなさがあった。髪の色と同じく白銀の双眸をしており、濃厚なマツゲがそれを縁取っていた。乳白色の頬には、濡れた白銀の髪がはりついていた。
真っ白いコタルディを着ていた。
血がにじんで、腹のところが赤く染まっていた。
泡雪のような儚さがあって、この雨で溶けてしまうんじゃないかと心配になるほどだった。その白銀の髪のせいか、それともあまりに白い肌のせいか、あるいはその華奢な体型から薄幸な印象を受けたのかもしれない。
まるで一枚の絵を見ているかのようだった。カラダから流れ出る血も、雨に濡れたカラダも、少女はそれを自分を演出する道具として使いこなしているかのように見えたのだった。
見とれている場合ではない。
ひどい傷だ。このままでは助からないだろう。
『おいっ。こっちに逃げたぞッ』
『決して逃がすなよ!』
と、裏路地の奥のほうから、蛮声が聞こえてきた。
蛮声を受けて、少女の唇がふるえた。「たすけて」。桜色の唇は、そう訴えていた。
「わかった」
少女が何者で、なにから追われているかもわからない。なのに、なぜか助ける気になってしまった。
厄介なことになるのは、目に見えているのに、ロドウは少女を抱き上げていた。思ったよりも、軽い。いかなる状況であっても、こんなに弱った少女を追い詰めるのは正解ではないと思った。
追いかけてくる足音は、1人や2人のものではなかった。5人。あるいは、もっといるかもしれない。
この裏路地は複雑に入り組んでいる。そしてそのすべてを、ロドウは把握していた。この場所にかぎっては、逃げ切れるという自信があった。
しかし相手の数が多かった。行く先、行く先に、乱暴な足音が迫っていた。路地のかたわらに木箱が並べられていた。果実やら、野菜が詰め込まれていた。空箱がひとつあった。そこに身を投じることにした。
ひとりでは充分な広さがあったけれど、ふたりで入ると窮屈だった。少女のやわらかい肉の感触が、ロドウの肌につたわってきた。お互いカラダが濡れているため、余計に少女の体温を感じるのだった。
「うっ……」
と、少女がうめいた。
「傷が痛むのか?」
「はい」
「もうすこし辛抱してくれ。声を出すんじゃないぞ」
「はい」
木箱のなかには、血の臭いと、少女のカラダから放たれる花の蜜の香りがたちこめていた。雨に濡れたせいで、余計に匂いが強く感じた。
いまにも消えてしまいそうな少女から、これほどまでに強い香りが出るのかと思うと、官能をくすぐられると同時に、感心もしてしまった。あるいはこの匂いは、少女が命を燃やし尽くそうとしている最後の死力なのではないかと思うと心配にもなった。
(シマッタ……)
追われている少女を木箱で隠すだけで良かったのだ。なにもオレまで隠れる必要はなかったじゃないか、とロドウは気づいた。一度、入ってしまったものは仕方がない。激しく地面をたたく雨粒の音。追っ手の足音も接近していた。いまさら、出るわけにもいかなかった。
『女は?』
『見逃しました』
『遠くへは行ってないはずだ』
木箱の隙間から、外の様子をうかがうことができた。みんな布の鎧を身にまとっていた。腰に剣をさしている。剣の柄には、都市テンペストの旗印が刻まれているのが視認できた。
(都市テンペストの騎士なのか?)
どうして都市の騎士が、こんな少女を寄ってたかって追い回しているのか、わからなかった。
自分の心臓の音がウルサかった。
もし見つかれば、どうなるのだろう。ロドウも殺されるなんてこともありうる。緊張で吐き気すらもよおした。この心臓の動悸を、激しく打ち叩く雨の音がかき消してくれていた。それがありがたかった。
『こっちだ』
と、騎士たちが木箱を通過していった。
足音が完全に遠ざかるのを確認すると、ロドウは音をたてないように木箱から出た。隠れていた少女の傷が酷く、少女が着ていたコタルディの白を、血の色が侵食していた。その血液はロドウの着ていたブリオーにも付着していた。
「おい、死んじまったりしないだろうな」
「助けて」
と、少女の意識はモウロウとしているようだった。白銀の双眸から、光が失われていくのがわかった。
「セッカク助けたんだから、死なないでくれよ!」
一度、手を出してしまった以上は、ここで放り出すわけにもいかなかった。少女を抱き上げる。少女は、ロドウの着ているブリオーの胸元を、やわらかくつかんできた。子供みたいな手が、ギュッ。生きているのだ。安心した。
この死にかけている存在が、わずかなチカラで、ロドウを頼っているのだ。その少女の微力が、寄る辺のなさを象徴しているように感じた。助けたのは、間違いではなかった――とロドウを奮起させたのだった。
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