ヴァレンは、逃げていた。
イアとの剣戟によって、カラダのあちこちに傷を受けていた。鉄の胸当てやヘルムはすべて脱ぎ去っていた。もうその重さを、ささえるだけのチカラが残っていなかった。薄い布の服だけである。それも血に染まっている。
「離しなさいッ」
「いけません。ヴァレンさまもいっしょに逃げなくては」
伝令役のインキュバスがそう言った。
自分の意思で逃げたのではない。仲間たちの手によって、逃がされたのだ。両脇から、腕を通されて、かつがれるようにして運ばれていた。
「まだ、仲間が残っているのよ。私だけ逃げては面目が立たないでしょう」
「ほかの者たちは納得するはずです。今はヴァレンさまが逃げるとき。6魔将のヴァレンさまが生きていれば、生きている魔族たちの集う旗印となります」
「子供たちは?」
「ほとんどの者を地上に逃がすことができました。逃げていない者もおりますが、その者たちはヴァレンさまとともに残って戦う覚悟をしております」
「愚かな……。我々、サキュバス、インキュバスはふつうの魔族とはあつかいが違うのだ。人間に捕えられれば、生き地獄になるというのに」
「承知しております。恐怖よりも、ヴァレンさまへの忠誠心が勝った――ということでしょう」
泣かせてくれる。
しかし、イアたち冒険者の狙いは、6魔将の肩書きをもつヴァレンであるはずだった。ヴァレンは自分が逃げ切れるとは思わなかった。自分が犠牲になれば、ほかの者を逃がすことはできるはずだ。
後ろから足音が近づいてきている。
「助けてくれたことに礼は言う。けれど、私のことは置いていきなさい。冒険者の追っ手が迫ってるわ」
「しかし……っ」
「私が犠牲になることで、より多くの者たちが助かる。そこからまた、新たな6魔将に代わる者が立ってくれれば良いのだから」
6魔将は、以前の魔王から与えられた役職である。その魔王亡き今となっては、その役職にも意味はないのだ、と思った。次期魔王の座を争う6魔将たちの姿をふと思い出す。そんなことになるぐらいならば、いっそのこと組織を一新してしまえば良い。
「古木が倒れることで、ふたたび新芽が芽吹くはずよ」
そうつぶやいた。
「なるほど。その心意気や、さすがは6魔将の器というわけか。ならば、その器をもってオレの仕えてもらおうか」
正面から声がした。
冒険者たちに先回りされたのかと思った。
石造りの通路。正面にひろがっている薄闇に目を向けた。闇の向こうから歩いてくるのは、2人の人影であった。
あっ、とヴァレンは息を呑んだ。
その小さな人影のほうを知っていたからだ。魔王の娘――マグワナであった。魔王がイアによって討たれたさいに、マグワナも行方知れずとなっていた。人間たちに捕えられたか、討たれたのだろう、というのが6魔将の意見だった。
「生きていたの。マグワナ姫」
「はい。この御方に助けられたのですよ」
マグワナはそう言うと、となりに立っている男に目を向けた。
マグワナのとなりに立つ男――。
否。男がどうかも正確にはわからない。仮面をしている。声質や体格からして、おそらく男だろう。紺色のブリオーを着ている。みすぼらしい風体をしているが、その奥にすさまじいものを隠していることがわかった。何がすさまじいのか……と問われると、名状しがたい。ただ、なぜか突風を受けたような威圧をおぼえるのだ。
どこにでもいそうな存在であり、唯一の存在であるようにも思った。
「何者かしら?」
「オレは、新しく魔族の王になる男だ。以前の魔王とかぶらぬよう、皇魔とでも名乗っておこうか」
「信用できるの?」
と、ヴァレンはマグワナに問いかけた。
この男ひとりならば、ただの妄言と一蹴しているところだ。が、そのとなりには魔王の娘がいるのだから、無視はできなかった。
「ワッチはイアに殺されかけていたところを、この御方に助けられました。信用できるか否かは、この御方の魔力を吸ってからかんがえると良いかと思います」
基本的に魔族は人間の魔力を吸うことで生きている。だからと言って、魔族の魔力も吸えないことはない。仲間内で吸ったり吸われたりしても意味がないから、吸わないだけである。共食いである。
「私は共食いは好きじゃないわ」
「選り好みをしていられる状況ではないと思うがな。サキュバスの姫。そのカラダでは、もう長くは持つまい」
たしかにヴァレンは自力で歩くことすら、ままならなかった。仲間たちにささえられてやっと立っていられる状態だった。
この闖入者に、仲間たちは味方とみなせば良いのか、敵とみなせば良いのか、戸惑っているようだった。
「魔力を吸ったところで、どうせ私は助からないよ。この傷を治せるほどのチカラを持つのは、6魔将のひとり粘りのスライム皇か、かつての魔王さまぐらいだろうね」
ほお、と男は言う。
「なら、そのカラダで感じるが良い。このオレが皇魔である証を」
胡散臭い、と思う。
仮面で顔を隠しているのが、信用できないなによりの証だ。だが、マグワナが信用できると言っているのだ。その魔力を吸ってみる価値はあるか、と思った。
べつに吸っても害はないはずだ。しかし益があるわけでもなかった。魔力を吸う、という行為は、食欲を満たすという行為に相違ないのだから。
仮面の男が近づいてくる。
堂々とした足取り。ヴァレンを前にして物怖じする気配はない。
ヴァレンのまわりにいたサキュバスやインキュバスが、ヴァレンを守るようにして前に出た。
「良いのよ。道を開けなさい」
と、ヴァレンが言うと、素直にしたがった。
ヴァレンは仲間の支えをふりほどいて、男の首に腕をまわした。自分の全体重を男にあずけるようにした。その肩のあたりに噛みついた。よほどの自信家であるらしいこの男の魔力を吸いつくしてやろうと思った。死ぬまで搾りつくしてやる。そう簡単に魔王にかわる存在がいても良いものか……。
一口吸って、腰が砕けそうになった。
なんという芳醇な魔力!
これほど濃厚な魔力を、いままで味わったことなどなかった。まるで自分のカラダが、日向に放置されて溶けてゆくバターになってしまったかのようだった。蕩ける。一口吸うと、もう一口吸いたくなった。
味が濃いだけではなかった。斬られた脚の腱の痛みが引いていった。全身にあった切り傷がふさがってゆくのを感じた。男の左肩から口を離した。甘く噛んでいた左肩のところが、ヴァレンの唾液がヌラヌラとかがやいていた。
「どうです。この御方の魔力はすばらしいでしょう」
と、なぜかそれが自分の手柄であるかのように、誇らしげにマグワナが言った。
「ええ。たしかに。こんな魔力、いままで吸ったこともない。今は亡き魔王さまに魔力を与えられたときよりも、もっと偉大なチカラを感じるわ」
そしてその魔力は実用的なチカラをやどしていた。ヴァレンの全身にチカラがみなぎってきたこと。
そして、全身の傷が何事もなかったように、完治したこと。
「オレが皇魔と名乗る理由がわかってくれただろう。オレのチカラがあれば、この戦いに勝利することができるはずだ。もう一度言う。その器をもってして、オレに仕えてもらいたい」
たしかに――。
ヴァレンは腹の底からあふれでる魔力を感じて、万能感をおぼえていた。いまならば、どんな敵であっても勝てる気がする。たとえあの勇者イアであっても、負けるとは思えなかった。
(しかし、この男に――)
すがっても良いのか。
迷いは一瞬だった。
後ろから追ってくる足音が近づいてきている。イアに対抗できるチカラが、ほかにはなかった。選択肢などないのだ。
それに、魔王の娘であるマグワナもついている。
いまはこの男を信用してみるのもありかもしれない。
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