伯爵屋敷のホールには、ピアノが置かれていた。
皇子時代には、いちおう傅役のペニからピアノとバイオリンを教えられた。多少は弾けた。だが、暗譜している曲をいくつか弾ける程度で、楽譜を読むのが苦手だった。皇族を追放されてからは音楽に触れていないし、いまでも弾ける自信はなかった。
「お初にお目にかかりますわ。私はこちらの伯爵令嬢であるスロフォノ・メリサともうしますのよ」
少女は着ているコタルディのスカートのスソをつまみあげると上品に会釈してみせた。
フォケットとペニの所在が知りたいとロドウが言うと、ヴァレンがその少女を連れてきたのだった。
「伯爵令嬢か……」
「言っておきますが、人間とは違いましてよ。私はインキュバスの父と人間の母から生まれたサキュバスですの。そして魔族の立ち位置で説明するなら、こちらのヴァレンさまの部下ですわ」
青い髪を長く伸ばした娘だった
瞳の色も青く、着ているコタルディも青みがかったものだった。
目が大きくて、チカラ強かった。凛とした光ではなくて、高慢ちきなものをやどしていた。どこか人を小馬鹿にしているように見える。眉尻が、わずかに吊り上っているから、そう見えてしまうのかもしれない。しかし、その高慢ちきな表情は、人の神経を逆なでするほどではなく、むしろ彼女自身の魅力と言えるかもしれなかった。幼くてもサキュバスなのだ。ヴァレンと同じく、男を誘うに適した顔にも見える。
「なるほど。インキュバスと人間の娘か。それは興味深いな」
外見は、どう見ても人間である。
騙される人間が多くても不思議ではない。
「インキュバスと交わって生まれた子は、必ず魔族の子になりますのよ。だから私もサキュバスですの」
と、まるで誇らしいことのように、メリサは腰に手を当てて、胸を張って言う。
「魔族の血のほうが強いのか」
「インキュバスやサキュバスは、悪意と狡猾さをもって人間と交わるんですもの。人間に卵を産み付けるようなものですわ」
まだ幼いくせに、えげつないことを言う。
「サキュバスが人間の男性とのあいだに子どもを生む場合もあるだろ」
「なら、生まれてくる子どもも、サキュバスないし、インキュバスになりますのよ。そして、父親がたの人間は、精子を絞り尽くされて死んでいるか、妻となったサキュバスの傀儡となっていることでしょうね」
人間の姿をしているから、人間社会に食い込むことが出来るとは聞いていた。たしかに人間社会に食い込みやすい特質を持っているようだ。
「興味深い話だったが、サキュバス、インキュバスの生態について勉強しにきたわけではない」
「聞いておりますわ。フォケット皇子の居場所を調べて欲しいのでしょう。それから、リュチマ・ペニという女性でしたか」
「そうだ」
と、ロドウはうなずいた。
「どうして、フォケット皇子の居場所を調べておりますの?」
と、メリサは小首をかしげた。その所作が他人にどう映るのか、きっとメリサはわかってやっているのだろう。
「それは、こちらの事情だ」
メリサ――とヴァレンが注意した。
メリサは肩をすくめた。
「わかりました。ヴァレンさまから、全面的に皇魔さまのチカラになるように言われております。マグワナさまもいるというのなら、信用できるのでしょう。フォケット皇子の居場所を調べるのは、そう難しくありませんわ」
「助かる」
「しかし、リュチマ・ペニという女性に関しては、すこし難しいかもしれませんわね。我らは、素性を隠して伯爵家として生きている身ですのよ。あまり目立ったことは出来ません。すこしばかり貴族たちの情報を、流すぐらいのことしかできませんのよ」
「可能なかぎりで構わない」
貴族たちの情報――。
メリサを使って、ロドウ自身のことを調べさせようかと考えた。ロドウ・アルテイアと、その母シュリ・アルテイアの死について。それを計画した者と、賛同した貴族たちの名を、調べ上げさせることは可能だろうか?
やめた。
頼めば、多少は動いてくれるかもしれない。しかしそれと同時に、ロドウの素性が露見するおそれがあった。
ロドウが追放された身とはいえ、アルテイア帝国の皇子と知れば、魔族たちが協力してくれるとは思えなかった。
「最優先は、フォケット皇子の居場所だ」
「わかりましたわ。しかし、タダでは出来ませんわ」
「金はないぞ」
「いいえ。金銭的な援助は、むしろ、して差し上げますわ。私が欲しいのは、皇魔さまの魔力ですのよ。ヴァレンさますら魅了させる、その魔力がいったい、どれほどのものなのか、私も味わってみたいですわ」
「良いだろう」
どうやらメリサは、『爛れ石のダンジョン』にはいなかったらしい。伯爵家の皮をかぶって生きているなら、無闇にダンジョンなどに近づかないほうが良いのだろう。
「ちなみに私が、いただいた魔力のなかで、トビッキリ強力だったのは、先代の魔王さまの魔力でしたわ。もっとも、先代の魔王さまの魔力は吸ったのではなく、強化魔法として、いただいたのですが」
父さまは、魔族に強化魔法を施すことを得意としていたのです……と、マグワナが教えてくれた。
「なら、比べてくれ」
メリサはロドウの前に立つと、その場にしゃがむように命じてきた。身長差のせいで、メリサの口が、思った場所にとどかなかったようだ。中腰になった。メリサはロドウの首に手をまわして、ウナジにかぶりついてきた。
マグワナ、ヴァレン、『爛れ石のダンジョン』にいた魔族たち、それにメリサ……と、ここ数日のあいだ、噛みつかれてばかりな気がする。もはや歯が食い込んでくるその感触にも慣れてしまった。
「きゃんっ」
と、メリサは雌犬のような声をあげると、さらに強くかぶりついてきた。すこし痛かった。
マグワナの噛み方には愛情があった。ヴァレンの噛み方には遠慮があった。メリサの噛み方は貪欲だった。
「あまり強く噛んではいけないのですよ」
と、マグワナが止めに入らなければ、血が出ていたかもしれない。ロドウの魔力が極上のものだったということは、メリサの蕩けきった表情を見ればわかることだった。
「なんて魔力をしているのかしら。ヴァレンさまが魅了されるのも納得ですわね」
へなへなと弛緩するようにして、メリサはその場に座り込んだ。高慢ちきな少女を屈服させたような征服感があった。メリサの青い瞳の奥に、ハート模様にかがやきが宿っていた。
「オレの魔力は、そんなに美味いか」
と、座り込んでいるメリサを、ロドウは見下ろした。
「いったいあなたは、何者ですの? こんなにも美味しい魔力を持つ者が、隠れていたなんて……」
「皇魔だ。新しく魔王となる男だ」
「もしかして、先代魔王さまの隠し子かしら?」
「さあな」
「わかりましたわ。この魔力のお礼として、フォケット皇子の居場所を調べておきます。金銭的な援助もさせていただきます」
「よし」
フォケットの居場所がわかれば、どうにかして接触を試みなければならない。しかし、一国の皇子とどうやって会うかが問題だ。
「皇魔さまは、ピアノをおやりになりますの?」
メリサはおぼつかない足取りで立ち上がると、ピアノイスに腰かけた。
「いいや。多少は弾けるという程度だ」
「あら。そうですのね。もったいない」
と、メリサは「ド」の音を人差し指でやさしく鳴らして見せた。
「もったいない? オレはべつの芸術に関して、特筆した才能は持ち合わせていないがな」
「手が大きいじゃありませんの。……私と違って」
と、メリサはみずからの手の平を、ロドウの前に突き出して見せた。もしかすると、メリサはピアノにたいして何かしらの思い入れがあるのかもしれない。たしかにロドウは人よりすこし指が長い。
「まだ子供だろ。手のひらぐらい、これから大きくなるかもしれない。それに優先されるべきは、手の大きさなんかではなくて、弾きたいかどうかという気持ちだと思うがな」
教えられたから弾けるだけで、ロドウにはべつに音楽をつづけたいという気概はなかった。
「あら、皇魔さまって意外とお優しいのね」
と、メリサは屈託のない笑みを浮かべていた。
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