(逃がしたかッ)
あと一歩というところで、皇魔と名乗った男を逃してしまった。周囲を探してみたのだが、あちこちで騎士隊と魔族が交戦しており、さらには冒険者たちも参加している。都民たちも逃げ惑う
という荒れ模様なので、皇魔を見つけ出すことはついぞ出来なかった。
いつも詰めが甘いのだ。
あと一歩というところで失敗することが多い。気持ちの緩みがあるのかもしれない、と自省した。
そのときだ。
「バカなッ」
と、イアは声をあげた。
テンペストの城塞に火の手があがっているのが見て取れたのだ。あの場所に火が上がるということは、すでに魔族に潜り込まれているということか。テンペストの城塞にはフォケットに、テンペストの領主もいる。そうやすやすと魔族に足を踏み入らて良い場所ではない。
皇魔探しは諦めて、急いで城内に戻ることにした。城塔のうえで半狂乱になっているフォケットの姿があった。フォケットが無事であることに、ひとまずイアは安堵した。以前、ドボンを守れなかったことを繰り返すのはゴメンである。
「やられたッ。どうやらすでに内部に魔族どもが、潜り込んでいたらしい。おかげで防御がメチャクチャだ!」
日頃の冷静さをうしなっているようだ。フォケットの碧眼が血走っていた。
「魔族は、どこから潜り込んだのでしょうね。厩舎の火を放ち、食糧庫まで焼かれてしまった。まさか内側から城門まで開けられるとは」
城内には火に驚いた馬が駆け回っている。それに踏み殺されている者たちもいるようだ。逃げ惑う使用人と、混乱した騎士が入りみだされていた。そこにサキュバス、インキュバスの連中がなだれ込んでいる。
「そんなこと知ったことかッ。戦争がはじまる前に、忍び込まれていたんだろうさ。それよりも、オレたちも逃げなくては」
しかし、出入りする者たちは、入念にチェックしてあったはずだ。使用人として志願していた連中のなかに、魔族に与する者がいたということか?
いや。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
この状況をどうにかしなければならない。
「この状況で、逃げるのは難しいでしょう。火の手はすでに主郭のほうから上がっております。主郭のほうにも魔族が入り込んでいると見るべきか――と」
「なら、どうすれば良い!」
「混乱している部隊をまとめることが先決かと」
「知るか、知るか! この城はもうダメだ。オレは抜け道から逃げる。貴様は最後まで決死の覚悟で、敵の攻撃を防ぐのだ」
と、フォケットは護衛の騎士を連れて、城塔を下りようとしていた。
「お待ちください。まだ押し返せます。とにかくこの混乱をおさめれば、勝機はあります。たかが城壁を破られたぐらいで」
あと一歩というところで、皇魔と名乗った男を捕えそうになったのだ。そのこともあって、イアは引きたくない気持ちが強かった。魔族たちは不思議なチカラで精強になっているが、冒険者たちと結託すれば魔族を一網打尽にできなくもない。城に火を放たれたことで、一時的に敗色が濃厚に見えるというだけだ。
「黙れッ。万が一にもオレが死んだら、責任を取れるのかッ」
「数で言えば、こちらのほうが有利。それほど容易く城を放棄してしまっては、都市にいる者たちもカワイソウではありませんか。上に立つ者が、民衆を守らなくてはなりません」
そう言うと、フォケットの整った顔が、醜く歪んだ。
「ウルサイ! 民衆はオレたち貴族を支えるためにいるのだ。なにゆえこのオレが、民衆のために命を張らなくてはならないんだ!」
「それは聞き捨てなりません」
と、イアも感情を乱した。
フォケットの言葉は、死んだイアの父すら侮辱するものに聞こえたのだ。
「魔王を倒して、父から勇者の爵位をもらって、それでいっぱしの貴族気取りかッ。貴様なんて、ただのお飾りなんだよ。魔王を倒したという看板だけで充分だ。魔王の娘ひとり捕えられぬクズがッ」
それが本音か、とイアは消沈した。
帝国の皇子にもマシな人がいると思っていた。こういうときにこそ化けの皮は剥がれると言うべきか。
フォケットは頭が切れるし、勇猛果敢な青年でもある。しかし、しょせんは苦労を知らないお坊ちゃんだ、とイアは感じた。逆境に弱いのだ。一度、崩れると、持ち直すだけの胆力はない。
自分がシッカリしなければならない、とイアは自分を律した。乱れていた感情を押し殺すことにした。
「それでは、この城の指揮権を私がもらっても良い――ということでしょうか」
「ああ。好きにしろ。なんとしても、持ちこたえろよ。せめてオレが逃げるだけの時間を稼げ」
「御意」
「念のために、これを渡しておく。何かあったら、すぐに助けに来い」
フォケットはそう言うと、連絡石をイアに渡してきた。投げ捨ててやりたい気分だったが、皇子という旗頭は重要だった。
フォケットは、護衛の騎士に囲まれて、城塔を下って行った。
(さて……)
イアは眼窩を見下ろした。外郭はすでに魔族によって制圧されている。
この魔族の指揮を執っている人物は、皇魔と名乗ったあの人物だろう。顔がわからないので断言はできないが、おそらく男だ。あの男を助けたのは、6魔将のひとりであるサキュバス・クィーンだった。それを見て察した。
(あの男が――)
マグワナをかくまって、さらには潰滅目前の『爛れ石のダンジョン』に助力をした人物に違いない。マグワナが「あの御方」と呼んでいる人物だ。戦士としてのイアの直感がそう告げていた。
6魔将のサキュバス・クィーンを従えられる人物が、ほかにいるはずがない。あの男こそが、マグワナという釣り餌に引っかかった大物に違いなかった。
いったい何者だろうか。
魔族を従えるということは、魔族だろうか。
しかし。
人間という可能性も捨てきれない。
皇魔と対峙した時間を思い出した。ほんの一瞬だったようにも思うし、長い時間対峙していたような気もする。
あの仮面の奥にはどのような表情が隠されているのか。どのような双眸が伏せられているのか。興味を惹かれた。
中庭で逃げ惑っている使用人たち。交戦している騎士と魔族。混乱して暴れまわっている馬……。そのすべてが、モウロウとして見えた。声もボヤけている。まるで全員が、海底のなかにいるかのようだった。
(この騒乱のなかに……)
皇魔はいるはずだ。
争いのことなどまるで眼中に入らなかった。皇魔の姿だけを、イアの碧眼は求めていた。それは敵の指揮官を求める目であり、親愛なる友人を探し求める目でもあった。あの皇魔という人物にたいして、イアは不思議と憎悪を抱けなかったのだ。
しかし容易には見つからない。また人目につかないところに隠れているのかもしれないし、後ろの安全な場所で指揮を執っているのかもしれない。
(なぜだ)
自分がその仮面の男と、似た存在であるような気がした。イアはその仮面の男のことを何も知らない。性格も知らなければ、素顔だってわからない。なのに、なぜか、自分がその男と似ているような気がした。憎しみよりも、会って話をしたいという気分にさせられた。
深いところで、つながっているのだ。
(私は何を考えているのだ)
相手は魔族を率いている男だ。なぜ、会って話などしなければならないのか。余計な情など無用。魔族はひとしく滅するべきだ。
頭を振った。
そうすると、もう海底にいるような幻覚も消えていた。
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