キャリッジを降りるときに、ロドウは仮面の上からフードをまぶかにかぶって、その顔を隠した。
「ずいぶんと慎重なのですね」
と、マグワナが呆れたように言った。
「慎重になるに越したことはないからな。誰から何を隠せば良いのか、わからなくなる」
「ふぅん」
と、マグワナが他人事のように言う。
「そっちこそ、迂闊に顔をさらせないだろ。なにせ、人相書きが出回ってるんだから」
「ワッチは平気なのですよ」
と、マグワナは言う。
いったい何が平気なのか。見つかることを、危険だとも思っていないのかもしれない。
フードで仮面を隠すほど慎重になる必要はなかったかもしれない。伯爵の屋敷は、塀で囲まれていた。外からは見られない。
庭には極彩色の花弁が吹き荒れていた。花弁はまるでロドウの来訪を歓迎するかのように吹きまわると、一斉に屋敷の壁面に打ちつけられていた。白い壁面に、青い屋根の建物であった。さすが伯爵の屋敷というだけあって、巨大であった。
帝国貴族の偉大さを主張するかのようなたたずまいに、ロドウは渋面を隠せなかった。心臓が圧迫されるような感覚に陥るのは、かつて皇子だったころを思い出すからなのか、はたまた、貧民街での暮らしによって植え付けられた質素な生活に由来するのか……。ロドウ自身にも、この圧迫感の理由がわからなかった。
花弁が張りついて、館の白い壁面を華やかに彩っていた。その花弁の華やかさだけは、なんの屈折もなく魅入られた。
伯爵の屋敷といっても、この都市テンペストにあるのは別館であり、本宅は別のところにあるということだ。伯爵というからには、きっと広大な土地を保有しているのだろう。
「ヴァレンには、人間であることを明かしても良いと思うのですよ。ヴァレンはすでに、ヌシさまの心酔しているのです」
花弁の一枚になったかのように、マグワナはロドウの前で一回転して見せた。白銀の長い髪がなびいていた。
「どうしてそう言える。たしかに多少の忠誠心を得ることはできたと思うが、心酔というほどではないだろう」
「いいえ。『爛れ石のダンジョン』で、ヌシさまは魔族を指揮して、冒険者を撃退したのです。その手際はヴァレンを落とすのに充分だったのですよ」
「それでも、オレが人間であることを明かすわけにはいかない。魔族と人間はずっとイガみあって来てるんだ。皇魔として立つ人物が人間だなんて知られたら、魔族の連中からの信用はなくなる」
「べつにワッチはそうは思わないのですよ。ヌシさまは特別なのです。ヌシさまはワッチの命の恩人なのです。そこに種族は関係ないのですよ」
「マグワナはそうでも、他はそうもいかないだろうさ」
「そうなのです?」
「魔王を倒したイアと、同じ種族の人間なんだぜ、オレは」
そう言うと、マグワナの白銀の目に一瞬だけ憎悪の光がやどるのを、ロドウは見逃さなかった。そりゃそうだろう。アルテイア人に殺された他民族は、アルテイア人すべてを目の仇にする。人間と魔族も、それと同じだ。
「それでもヌシさまを選んだのは、ワッチなのです」
「なににせよ、素性は明かさないほうが良いだろうさ。オレだって復讐のために、魔族を利用してやろうと思ってるだけなんだから。そもそも仮面で顔を隠せと言ったのは、マグワナだぜ」
「わかったのです。でもワッチは、ヌシさまを嫌ったりはしないのですよ」
「ありがとう」
マグワナは照れ臭そうにうつむいていた。
「ようこそ、いらっしゃいました。皇魔さま」
と、出迎えてくれたのはヴァレンだった。
ヴァレンは赤い髪を三つ編みにして、長く垂らしていた。その髪がまるで蛇のようにうねって、ロドウの腰に巻きついてきた。そのまま取って食われそうだった。これは獲物を取って食らうそれではなくて、親愛の情なのだろうと思い込むことにした。ヴァレンの前では、皇魔、である必要がある。下手に動揺したりはできない。
「まさか、こんな屋敷にいるとはな。驚いた」
と、切り出した。
「インキュバスの青年が、とある伯爵令嬢をたぶらかして、子供を生ませたのですわ。その子が当主となって、帝国に隠れて魔族たちの支援をしてくれているのですよ」
と、ヴァレンはさらに身を寄せてきた。
「ずいぶんと気の長い話だ」
ええ、とヴァレンはうなずいた。
「あの手この手で、魔族は人間を倒そうと試みてきたのです。魔王さまが討ち取られたことで、その夢もついえるかと思った。しかし、あなたさまが現われた」
腰に巻きつけられた髪によって、ロドウはヴァレンに引き寄せられることになった。ヴァレンの大きな乳房が、ロドウの胸元に押し付けられて、やわらかく潰れる感触があった。女性の肉の感触に狼狽した。女の香が突風のように吹き付けてきた。仮面をしていても、思わず咳き込みそうになったほどだ。狙ってやっているのだとすれば、なるほど、たしかにサキュバス・クィーンである。仮面が、今はありがたかった。
「オレがいれば、人間と戦えると?」
距離を置こうとしたのだが、ヴァレンの三つ編みの髪が、ロドウの腰に巻きついたまま離れない。助けを求めるつもりでマグワナを見たのだが、ロドウの困惑を楽しむかのように、マグワナはにやにやと笑っていた。
ヴァレンの顔が寄せられる。
ロドウの耳朶に向かって、湿り気を帯びた声音でささやいてきた。
「皇魔さまの魔力は非常に美味で、魔族に底なしのチカラを与えます。傷を癒し、魔力を増強させる。それほどの魔力を吸ったことはありません。それにダンジョンでの采配も見事でした。どうか、我らにチカラをお貸しください」
たしかにマグワナの言うように、ヴァレンはロドウに心酔しているらしかった。『爛れ石のダンジョン』を助けたことが、おおきかったのだろう。しかし、だからと言って、素顔を見せるつもりはなかった。
密着を好機と見たのか、ヴァレンの手がロドウの頬にあてがわれた。仮面にヴァレンの指先がかかった。さすがに看過できないと判断したのか、マグワナが助け船を出してくれた。
「ヴァレン。皇魔さまに失礼なのですよ。そんなに密着して……」
と、マグワナが強引にロドウとヴァレンを引きはがした。
ヴァレンの人差し指の腹が、ロドウの仮面の表面をすべった。間一髪のところである。ロドウは右手で仮面をおさえつけて位置を調節した。
「マグワナ姫。私はサキュバスですよ。これが私にとっての最大の敬意の表し方です」
と、ヴァレンがマグワナを見下ろした。
ヴァレンの背丈はロドウの匹敵するぐらいある。マグワナとはまるで大人と子供の対格差であった。だが、マグワナは依然として不適な笑みを浮かべており、ヴァレン相手にすこしも劣る様子はなかった。
「今日はオレも、頼みがあって来た」
「皇魔さま。ここではなんですから、中にお入りください」
と、ヴァレンはなかば強引に、ロドウの腕を引っ張った。
屋敷の中。いちおう人間のなかで隠れて暮らしているのだから、特別変わったところはないはずだ。しかし、屋敷のなかに脚を踏み入れるのは勇気のいることだった。入った瞬間に、魔族たちが押し寄せてきて、ロドウのことを取って食ってしまうかもしれない。杞憂。屋敷のなかは、いたって平凡なものだった。
石造りのホール。走り回るぐらいの広さはある。壁には油絵がかかり、2階へと続く階段があった。吹き抜けになっているらしく、2階の様子を見通すことができた。
「ふふっ。どうかしましたか。皇魔さま。ずいぶんとおカラダが硬いようですが」
と、ヴァレンが今度は背中から抱きついてきた。
豊満な乳房が、今度は背中に押し付けられていた。ヴァレンはもちろん、わかってやっているのだろう。むぎゅぅ……という音が、その乳房から聞こえてくるかのようだ。
魔族ウンヌンという以前に、ロドウは女性という生き物にたいして不慣れな点があった。それでも、あからさまな色気は、ロドウを怯ませこそすれ、性欲をそこまで掻き立てはしなかった。
「さすがサキュバスの女王と言ったところか。その肉体が、男にたいしてどういう効果をもたらすのか知悉しているわけだ」
ロドウがそう言うと、ヴァレンは身を離した。
ロドウの正面に回った。
上目遣いをおくってくる。
ヴァレンの瞳は赤く、目元は色気に富んでいた。なにか魔力でも込められているのではないかと疑うほどの目元である。男を侮蔑するような冷たさがり、それでいて、媚びを含んでいるような目元をしているのだ。
「たしかに私はサキュバスの女王です。ですが、これは計算ではありません。私はホントウに皇魔さまに惚れてしまったのですよ」
「どうだかな」
「皇魔さまのチカラは、今の魔族にとって必要なもの。私の気持ちも、皇魔さまに向けたいと思っています。ですが、その前に、そのお顔を拝見してもよろしいでしょうか。その仮面に隠された素顔を、確認したいのです」
その質問をブツけられることは、むろん想定していた。
「顔を見せることは出来ない。非常に醜男なんでね」
「どんな顔であっても、私は皇魔さまに付いて行く所存です。『爛れ石のダンジョン』で、私は命を救われました。いえ、私のみにとどまらず、サキュバス、インキュバスの子どもたちも救われたのです。絶対的な忠誠を誓う所存です」
「ならば、顔など見せる必要はないだろう。行動で示せば良いのだから」
「それはそうですが……」
と、ヴァレンはロドウの顔を見るための口実を、何か探しているようだった。隠されると、気になる。その心理はわからなくもない。
「ほかに何か?」
と、ロドウのほうからたずねた。
「せめて魔力を吸わせては、いただけませんか?」
ヴァレンはそう言うと、ロドウにしなだれかかってきた。
「むろん。構わない」
ロドウの左肩のあたりに、ヴァレンが噛みついてきた。歯が、やわらかく食い込む。まるでお互い抱き合うようなカッコウである。ヴァレンの背中に手を回すべきなのかどうか逡巡した。そう迷っている時点で、すでにヴァレンの色気にやられているのかもしれない。手元が所在なかったが、ただブラブラと遊ばせておくことにした。
「はうっ」
と、ヴァレンが嬌声をあげた。
本気なのか演技なのかわからなかった。
ただ魔力を与えているだけの行為なのだが、ヴァレンの声のせいで、なにか卑らしいことをしている気分になった。そしてなぜか、マグワナにたいして申し訳ないという気持ちがわいてきた。
マグワナを見ると、マグワナは蕩けたような目をして、羨ましそうにこちらを見ていた。マグワナにたいして後ろめたく思っていた気持ちは、べつに必要のない感情らしかった。
「皇魔さまの魔力は、なぜこんなにも美味なのでしょうか。悪魔的です……。この魔力を味わったら、もう他の粗悪な魔力なんてトテモ吸えたものではありません」
と、ヴァレンは腰砕けになっていた。
「魔力を与えてやったかわりに、こちらもひとつ頼みがある」
と、その場に座り込んでしまっているヴァレンに手を貸して立ち上がらせた。
「なんなりと、お申し付けください」
「まずひとつ。第6皇子のフォケット・アルテイアが、どこにいるのか調べてもらいたい」
「はい」
「それからもうひとつ。リュチマ・ペニという人間が、どこにいるのか調べてもらいたい」
かつてロドウの傅役だった女性である。その忠誠心に偽りはなかった。いまでも声をかければ協力してくれるという期待と確信があった。
腰砕けになって座り込んでいるヴァレンは、紅色の双眸をうるませて、ロドウのことを見あげていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!