一塁に俺は残る。
俊足の1番、2番の前に俺がいても足枷にしかならないかも知れない。
だがこんな俺でもホームまで戻れば1点が追加される。
俺は全く走塁練習をしていない。
そんなものが求められるとは思わなかったからだ。
一塁上でチョロチョロする事が、ピッチャーの集中力を削ぐ事になる。
一塁手に聞こえないように、ファーストコーチに「岡森さんにバントの構えをさせましょう」と呟いた。
岡森さんは俺より一年先輩の外野手で、最近トップバッターを任されている男だ。
先輩とはいえ、2月生まれの早生まれで年齢的にもほとんど差はない。
その上、あんまり『先輩、後輩』を気にしない性格で練習中に先輩、後輩にちょっかいをかけている。
今年は1番か2番の打順にいる事が多いが去年はファームで俺と一緒にプレーしている事が多かった。
高校時代はピッチャーでとにかく強肩だ。
140キロ出す野手の一人は岡森さんだ。
「良いのか?お前走る事になるぞ?」
「実際にバントする必要はありません。
とにかく相手ピッチャーに揺さぶりをかけましょう。
俺は投げてあと1イニングか2イニングでしょう。
俺のスタミナを気にする必要はありません。
とにかく点を取らないと勝てないんですから」
「わかった」
一塁コーチは短く答えると、ベンチにサインを送る。
すると、すぐにベンチは打者にバントのサインを送った。
ベンチのサインを受け取った岡森さんは表情を変えず「ふー」っと大きく息を吐いた。
岡森さんはバッターボックスに入る前、両手の掌でバットのグリップ付近をコロコロとこねた、岡森さんのルーティンだ。
岡森さんは左打席に入るとバントの構えをした。
奇策だ。
「ピッチャーを走らせて、走力のある1番バッターを犠牲にする」
愚策にも映る。
ファンが野次る「辰並、狂ったか」と。
ファンの中には『ワイバーンズの低迷は、辰並監督の舵取りが悪いからだ』と思っている者も少なくなかった。
俺の提案を信じて乗った監督がなじられている。
こういうものかも知れない。
結局、下の者の責任は上が取らなきゃいけない。
俺は「この作戦は必ず成功させなきゃいけない」と思った。
作戦を行うのは何故今なのか?
今じゃなきゃダメなのか?
今じゃなきゃダメなのだ。
相手ピッチャーの頭に血がのぼっていて、制球が定まらなくて、まともな判断力を欠いていて、キャッチャーのリードの意図を全く理解出来ていない、今しか奇策を使う時はない。
俺は出来るだけ大きなリードを取る。
・・・と言っても、ピッチャーが手から帰塁する訳にはいかない。
『足から戻れる精一杯のリード』にすぎないが。
牽制球が来る。
必死で足から戻る。
俺のリードは下手くそだ。
牽制球の上手い投手相手なら牽制死していたかも知れない。
だが、ジャッジを聞くまでもなくファーストはセーフだ。
相手投手の牽制球が下手くそすぎるのだ。
相手キャッチャーがタイムを取る。
きっと「バントさせろ、確実にアウトを取ろう」とピッチャーに言っているのだろう。
正直、岡森さんはそんなにバントが上手じゃない。
それにもしバントが成功したとしても2番バッターの小島さんは今年何故かめっぽう得点圏打率が低い。
普通に考えればこれは『相手チームに労せずスリーアウトを与える作戦』なのだ。
しかしそれは『外側から見たら』の話だ。
間近で顔を真っ赤にして頭に血をのぼらせている相手ピッチャーを見たら「その作戦もアリなんじゃないか?」と思う。
現に一塁走塁コーチの凪本さんは作戦には全く反対しなかった。
反対した理由は「ピッチャーのお前がそんなに塁上で走り回って大丈夫か?」という一点からだ。
凪本さんは俺の「徹底的に相手ピッチャーをおちょくろう」という作戦を瞬時に見抜いた。
凪本コーチは四年前まで現役の選手だった。
凪本コーチはいつも言っていた。
「ピッチャーは大変だよな、三回に二回完全に抑えてても一回ヒットを打たれたら『負け』なんだから」
「でも三回に一回しかヒットにならなかったら得点にならないんじゃないですか?」
「短打ならな。
でも一塁ランナーが長打でホームインすれば得点になる。
それ以前にホームランなら最低でも二点は入る」
「そんなに話は上手くないんじゃないですか?」
「その通りだ。
実際にワイバーンズはホームランは少ないし、長打も少ない。
ヒットは特に少なくないがヒットのほとんどが短打だから残塁の山だ。
だが『無い物ねだり』してもしょうがない。
ワイバーンズに長打力はないんだ。
だから『エラー』や『フォアボール』を絡めてビックイニングにするんだ。
それしかワイバーンズが勝つ方法はない」
バントの構えをしている岡森さん相手に相手ピッチャーが第一球を投じる。
キャッチャーは内角低めにミットを構えている。
投じられた球の球種はストレート。
右腕投手が左バッターの内角を抉る『クロスファイヤー』と言われる投げ方だ。
しかし、少し内角すぎた。
岡森さんは身体をひねりボールを避ける『フリ』をした。
そして『当たった、当たった』とデッドボールのアピールをした。
岡森さんは全く痛くない。
ユニフォームに軽くボールがかすっただけだ。
痛いのは相手ピッチャーだ。
ワンナウト一塁二塁。
バッターはリードオフマンを争っている小島さんだ。
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