ホームまで全力疾走した俺が息を弾ませながらグラブをはめてピッチング練習を始めようとする。
「息上がってるじゃねえか。
『のんびりしろ』とは言わないけど、息が整うまで深呼吸でもしたらどうだ?」ベンチから声がかけられる。
声の主は控えキャッチャーの中野さんだ。
中野さんはワイバーンズが珍しくパリーグの球団からFAで獲得したキャッチャーだ。
でも森上さんに正捕手の座が奪われ気味でファームに落ちる事も多い。
だが、やはり経験とリードでは「中野さんが一番」という声は少なくなく、たまに先発マスクをかぶる事もあった。
「わかってるんですが、気持ちが焦ってしまって・・・」
「わからんでもないけど、そんな『形ばかりのピッチング準備』は逆効果だぞ?」
俺と中野さんが話していると後ろでアニエルが、内角高目のストレートを空振りする。
「あの球・・・」
「あぁ、ウチの主砲はなめられてるんだよ」
ファームで俺は中野さんとバッテリーを組む事が多かった。
俺は『ピッチング理論』を中野さんに厳しく叩き込まれた。
何度も首を横に振りサインに頷かない俺のところにタイムをかけ中野さんが来る。
「お前はどんなボールが投げたいんだ?」
「あの左バッターの内角高目は弱点です!
内角高目にストレートを投げましょう!」
「既にツーボールだ。
内角球で退け反らせてもスリーボールになってしまう。
まして今日のお前は制球が定まっていない。
確実にストライクを取りに行ったら甘いコースに球が寄ってしまうだろう」
「内角ギリギリの球をストライクに入れれば良いじゃないですか!」
「・・・お前はアホか。
内角高目のコースを得意なバッターなんて稀なんだよ。
何でか解るか?
そのコースにストライクを狙って投げれる投手がいない、そこで勝負する投手がいないからだよ!
データを見て見ろ。
苦手って言っても、そこで勝負してるケースほとんどないから」
「何でですか?」
「逆に打ち取るケースがどんな時か教えてやるよ。
内角をエグるボール球を投げようとして、ストライクコースに行っちゃった時だよ。
狙って内角高目にストライクを投げれるピッチャーは大投手だよ。
今日の不調のお前じゃない」
「どうしてですか?」
「今日のお前は細かいコントロールが出来ない状態だよな?
逆球も何度も来てる。
何回コースが少しズレたか数えきれない。
ストライクコースに入れようとした内角高目のストレートが少し真ん中よりにいったらどうなる?
ど真ん中高目、メジャーの伝説のホームランバッター『マグワイヤのホームランコース』にボールがいっちまう。
覚えときな。
強打者は弱点の隣にホームランコースを持っているもんだ。
弱点とは知りつつ『投げちゃいけないコース』ってのもあるんだよ」
長くタイムをかけている中野さんに焦れて球審が「そろそろ試合に戻りなさい」と促す。
こんな風に中野さんは俺に試合中、試合外でもピッチング理論を仕込んでくれた。
ストライクコースに投げる内角高目のストレート・・・。
右サイドスローから繰り出される内角球は想像以上に身体の近くを通る感覚だろう。
しかし四番バッターにピンチの場面で放る球だろうか?
少しコースを間違えば、ど真ん中高目スリーランホームランのコースだ。
外角低め、クサいところでストライクの出し入れで勝負するのがセオリーだ。
ノーボールの状態なら内角低めのボール気味の球を投げて内野ゴロダブルプレーを狙うのもアリだ。
だが、相手バッテリーの選択は『内角高目のストレート』だった。
アニエルもまさかそこにストライク球が来るなんて思っていない。
思わず咄嗟に手が出て空振りしてしまったのだ。
相手バッテリーは『してやったり』だ。
アニエルにとっては『屈辱』だ。
いくら不振とは言え、自分はワイバーンズの四番バッターだ。
元々自分はハイボールを苦にはしない。
手が長く低め、特に外角低めの球も苦にしない。
・・・というか身体のサイズが大きいからか、真ん中のコースを窮屈な体勢でスイングする事が多く、打率も低い。
しかし打率が低いからと言ってど真ん中に投げ込むピッチャーはいない。
「ど真ん中にボールは来ないだろう」と思っているところに咄嗟にど真ん中に放られて、凡退する事が多いのだ。
どこに投げても「打ち損じ」はある。
甘過ぎて、想像外で打ち損じる事はよくある。
「ど真ん中にボールが来る」とわかっていればさすがにアニエルレベルの打者であれば打てる。
同様に内角高目、しかし真ん中寄り、ホームランコース寄りのストレートが来た時、アニエルは慌ててしまったのだ。
失投であれば、ピッチャーもキャッチャーももう少し表情を変えただろう。
だが、ピッチャーもキャッチャーもどこか満足そうだ。
つまり、ほぼ狙ったらところに、狙った球が投げられたのだ。
温厚なアニエルも流石にここまでなめられたら主砲のプライドが傷つく。
アニエルが一度、二度とバッターボックスを外し、素振りをする。
鋭い目付きでピッチャーを睨むと、バッターボックスの一番後ろに立った。
俺は「アニエルってあんなにホームベースから離れていたか?」と思いながら、次の回のためにキャッチボールを開始した。
その後の試合展開はわからない。
自分のピッチングの準備をしなくちゃいけないからだ。
試合展開は気になるが、俺は自分に出来る事をしなきゃいけない。
アニエルは粘っているようだ。
スコアボードを見上げると現在はツーボール、ツーストライクみたいだ。
そこで大歓声があがる。
だが、その歓声は「おいおい、ストライクだろうが!」「審判、ちゃんとジャッジしろよ!」「審判!お前、ワイバーンズから金もらってるのか?」という野次に変わる。
どうやら際どい球をピッチャーが投げて、アニエルが見送ったらしい。
その球がボールと判定され、球場で野次が飛んでいるらしい。
アニエルに打って欲しいが「打席から戻ったばかりでピッチング練習している暇があんまりない」俺にとっては粘ってくれるだけで有難い。
そして乾いたバットの芯にボールが当たる音が響く。
ワイバーンズベンチの選手やスタッフ達が一斉に立ち上がり「「「「「よっしゃあ!!!!!!」」」」」と絶叫があがる。
キャッチボール中だった俺は弾かれたように、ダイヤモンドの方向を向いた。
ショートが横っ飛びしている。
男のナレーションが発音良く「ナイスプレイ!」と叫ぶ。
その後「あー!惜しかった!」と言いながら、ワイバーンズナインがグラブ片手に守備位置に散っていった。
どうやらアニエルはヒット性の当たりをショートに横っ飛びで捕られたらしい。
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