桃源の乙女たち

星乃 流
星乃 流

公開日時: 2021年9月4日(土) 17:03
更新日時: 2021年9月6日(月) 01:42
文字数:4,635

「一歩も外に出ないで」

 レミは抱き支えていたエリンの身体からだを草に覆われた地べたに押し倒し、その焦げ茶の瞳を真っ直ぐ見つめ、確かにそう言った。決して冗談などではない、真剣な眼差しで。

 さすがにエリンもそれには戸惑った。しかし、当然の事なのかもしれないとも思った。現にこうしてふらりと一人で不用心に人気ひとけのない場所までやってきたせいで、命を落としかけた。そんなことがあった以上、過度に心配されても仕方がない。

(うん、その方がいいのかな。もし私がまた外に出たせいで、今度こそ死んだりしてしまったら……)

 …………。――違う、駄目だ、それは駄目だ。

「ごめん、レミ姉さん、それはできない」

 エリンはレミの涙のせいでいっそう金色に煌めく瞳をしっかりと、真っ直ぐ見つめ返して答える。……私の本当の曲げようのない自分の心を、どれだけ叱られてもどれだけ心配させても決して曲げたくない、曲げられない想いを真っ直ぐに伝えなければならない。

「私はこの儀式に勝ちたい。そしてアルトを助けたい、結ばれたい」

 ――だから。

「今日は本当にごめんなさい。不用心過ぎた。でも、レミ姉さんの言うことでも、それは聞けない。私は刻印を集めないといけないから」

 いつものように微風そよかぜを友にうたた寝しているだけでは、刻印はやってこない。自分自身で動かなければこの願いは叶わない。――だが、レミというひとりの少女の願いは違った。

「うん、分かってる。やっぱり貴女には刻印が必要だよね。だからそれは全部、私が集めてきてあげるから」

 ――え? 

 レミが何を言っているのか、エリンにはすぐに理解ができなかった。

「私が必要な数の刻印を全部集めてきて、それを全部エリンに渡す。そうすればエリンがアルト君を解放できるし、お嫁さんにだってなれる。だから……お願い、ずっと屋敷の中に、家の中に、安全なところに居て。私が集め終わるまで……一歩も外に出ないで」

 ……レミ姉さんなら、本気でかかれば必要な十四画を一人で集めきることも不可能ではないのかもしれない。手強てごわい相手はいるものの、レミ姉さんなら――。……けれど。

(そうじゃない、違う、きっとそれじゃ駄目なんだ。これはきっと……)

「……レミ姉さん」

 エリンは一呼吸入れて自分の心をしかと確かめる。そしてレミのその真剣な眼差しから、決して目を逸らさぬようにして応える。

「ごめん、レミ姉さん。それも駄目、聞けない。だって、これはきっと私が、私自身の手でやらないと意味のないことだと、そう思うんだ」

 エリンはレミの瞳を真っ直ぐに見て、一言一言に想いを込めて、今言えるだけの、自分自身で言葉にできるだけの純然たる本心をぶつけた。――これで届かなければ、もう私に伝えられる言葉はない。

 そしてレミ姉さんは少しだけ悲しそうな顔をして、やっと私の上からのいてくれた。

「うん、ごめんね、変なこと言って、そうだよね、当たり前だよね」

 彼女はエリンに背を向けて地べたに座り、背中越しにそう言葉を返した。後ろ姿だけでも何となく悲しそうな、切なそうな、そんな感情が伝わる。エリンはその背中に何て声を掛けてよいか分からず、しばし二人の間に静寂が流れた。やがて鳥の声か何かが聞こえたのを機に、レミのほうから先に動いた。

「さぁ、日が完全に暮れる前に帰ろう。夜の山は恐いんだから。立てる?」

 差し出されたレミの手を掴んで、エリンは引き上げられるように上半身を起こし、いざ立ち上がろうとしたものの……まだ立てなかった。もう随分休んだというのに、いまだ足が震え、ただ立ち上がることさえ叶わない。これが腰が抜けたというものなのだろうかと、エリンは思った。

「ごめん、情けなくて。まだ怖かったのが残っているみた……い⁉」

 エリンがそう言い終わるのを待たずして、再びレミは抱きついた。先程みたく抱き起こすようではなく、正面からぎゅっと力強く。両手はしっかりと背中に回され、もう決して離さないと言わんばかりにぎゅーっと、強く強く、彼女はエリンを抱き締めた。

「レミ姉さん、ごめん、力入れ過ぎ、ちょっと、痛いって」

「――好き」

(――え?)

「私、貴女が好きなの」

(え……と? 私もレミ姉さんのことは好きだ……よ?)

「愛してるの」

 エリンは理解した、理解せざるを得なかった。エリンと彼女レミの「好き」が違うことを。

(そういう意味なの? 本当にそういう意味なの……?)

 この里は女ばかりだ。住民の八割以上だかを女が占めていたはずだ。それだけ女が多い以上「そういう恋愛」に走る例は少なくない。世俗に疎いエリンですらそれは知っている。

 珍しいことではない、それは分かる。分かってる。

(――でも、レミ姉さんが……?)

 いつも優しく、本当の姉のように――。……レミ姉さんとの今までの思い出の、言葉の数々が次々と脳裏をよぎる。もし、レミ姉さんがずっとそんな想いを抱いていたのならば……。あれ? あの時の事はそういうこと? あの言葉はそういう意味?

 ……数えきれないほどの思い出の数々が、次々と今の告白に結びついて想い出の色を塗り変えてゆく。

(いや、でも、それならおかしいよ。ならどうして、ならなんで私がアルトとのことを楽しそうに話すのを平然と、優しい笑顔で聞いてられたの……?)

 もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。多様な想い出たちがもつれ合って絡まり、ほどけなくなっていた。いや、本当は解けるのかもしれなかったが、頭がいうことを聞いてくれない。きっと、心が受け入れることを拒んでいる。

 そうだ、きっと勘違いなんだ。なんだか分からないけれど、きっと全部私の勘違いなんだ。……違う、これは現実逃避だ。もしそうなら、レミ姉さんは何で今、私をこんなにも力強く抱き締めたまま動かないの?

(……うん、分かってる)

 逃げちゃ駄目なんだ。向き合わないといけないんだ。まだ心は突き付けられた真実を飲み込むことができていない。それでも早く、今何か応えなければ、答えなければ……。

 ……何を話す? 何て声を掛ければいい?

「えっと……いつ……から?」

 混乱し、迷いに迷った挙句飛び出た台詞がこれだった。

「――分からない。気づいたら好きになってた。気づいたらいつも貴女のことを目で追って、貴女のことばかり考えるようになってた」

 レミはエリンを強く抱き締めて目を合わせないまま、今まで溜め込んでいた想いを少しずつ、少しずつあふれさせるように吐露する。

「最初は本当にね、ただお姉さん役として面倒をみていただけだったの。でもね、いつもいつ見ても気づいたら一人きりで、窓辺や縁側でぼーっとしている貴女のことが気になって気になって……気づけばどこに居るのか、すぐに目で探すようになってたの。それからだんだん放っておけなくなって、端っこにいる貴女を見つけては皆の中に引き戻して、見つけては皆の中に引き戻して……。それを何度も繰り返すようになって。絶対鬱陶しかったよね? あの頃の私。でも、そうしているうちにね、なんだかそうやって貴女と触れ合うこと自体が楽しみになっている自分に気づいたの。だからもう引き戻すのはやめて、貴女の側に寄り添うようになった。

 あの頃はまだ、貴女はたまに独り言は言うけれど、なかなか私とは話してくれなかったよね。でも、それでも傍にいるだけで何だか心地よかった、何となく幸せだった。そのうち貴女の家まで押しかけるようになって……。そうしたらようやく観念したのか、私と話してくれるようになって。私はそれが本当に嬉しかったの。――あぁ、その頃だったかもしれない。私が貴女のことを好きだって気づいたのは。

 それからは機があらば貴女の家を訪れて、他愛のない話をしたり、勉学を教えたり、だらだらとくつろいだり……。そんな何でもない時間がとても幸せだった。本当に毎日貴女のもとに通いたいぐらいだった。

 でも貴女は……他に仲良しなんていないと思っていた貴女には、既に好きな人がいた。それを貴女とよく話すようになってから初めて知った。その時に私は本当は決めてたの。この気持ちはこの身朽ちて山に還るまで持って行くって。

 ……言うつもりなんて本当になかった。なかったのに……今の貴女を見ていたら、もう我慢が利かなくなっちゃった。なんだか儚くて脆くて……突然居なくなっちゃうような気がして……。

 今日もこの場に居たのは偶然なんかじゃないんだ。貴女が心配でずっと遠巻きに屋敷を見張っていて、貴女が一人で抜け出したものだから後をつけて、こっそり見守っていたんだ。

 おかげで貴女を守ることはできたけれど……こんな事してるの、今日が初めてでもないんだ。――ね、引くでしょ? あとこれも引いちゃうだろうけど……。貴女が嬉しそうに、楽しそうに無邪気にアルト君の話をするとき、内心、私は彼に嫉妬していた。けれど、その代わり貴女とたくさん話せて、笑顔も見られる。それだけでも幸せだったから、微笑んでいられた。

 ……でもね、この儀式が始まったとき、氷像になったアルト君を見て……少しホッとしちゃったんだ。私、悪い女だよね。貴女の側にいる資格なんてないよね。……でも、それでも私は時の許される限り貴女と一緒にいたい。貴女を傍で感じていたい、貴女の声だけを聞いていたい。だけど貴女が死んだらそんなこと全部、何も叶わなくなる。だから――」

 レミは抱きしめていた腕をほどき両肩を軽く掴んで、真っ直ぐにエリンの目を見つめ、言った。

「お願い。全部終わるまで、ずっと安全な場所に隠れていて。お願いだから……」

 涙をたたえた金の瞳で、涙声になってそう訴えかけてきたレミに対し、エリンは何も言えなかった。そのあまりに強く、深く、溢れんばかりの――溢れても尚、溢れ続けるほどの想いに、エリンは応える言葉をみつけられなかった。レミの吐露した想いはあまりに大きくて深すぎて、とてもじゃないがすぐに受け止めきることなんてできなかった。しかし、今エリンが一番の衝撃を受けているのはそこじゃなかった。

 ――私は何で、今までそれに気づけなかったの?

 あれだけ長い時間を一緒に過ごし、一緒に笑い合っていたというのに、私はその想いの一片さえも気づいていなかった。本当にたったの一片さえも。だのに、私は……レミ姉さんのことを分かっている気でいた。彼女のことならなんとなく、分かっている気になっていた。一番大事な、大き過ぎる感情にまったく気づかなかった癖に。

 レミ姉さんは私と話しているだけで幸せだと言ってくれた。でも、私はきっとそれと同時に、たくさんたくさん、何の悪意もなく彼女を傷つけていたのだろう。

 私はどうすればいいの。私はどう応えればいいの。私は……私は……。

「さぁ、帰ろうか!」

 どれくらい自分は黙りこくってしまっていたのだろう。時間の感覚なんてなかった。

 結局、エリンはまだすぐには歩けなかったので、レミに負ぶってもらい、ようやく帰路についた。途中からやっと自分の足で歩いて、そのまま家まで送られた。道中、二人はほとんど言葉を交わすことはなかった。エリンが家に着いたとき、もう外は真っ暗になっていた。

 レミはエリンの両親に何があったかを――告白のことを除いて――すべてを事細かに、てきぱきと説明して帰っていった。おかげでエリンは長時間、盛大に叱られる羽目になったが、ずっと上の空だった。レミのことでずっと頭がいっぱいだった。……そして余計に長く叱られる羽目になった。

 ――その翌朝。

 真っ先に刻印をナルザに譲渡していた最年少の少女、ハレ・ラ・ウェルスの遺体が見つかった。

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