その日、アルヴの里の首長であるアルの家に十二人の少女が里中から集められた。この里の社会活動は主に「家」単位で行われるが、その家々の中でも代々首長の役を継承してきたのが「アル」の家である。
アルヴの民がこの地に入植した際にあった始まりの八家。その長だったのがアル家であり、これまで絶えることなく代々首長の役を務めてきた。ただ、その役に長としての権力というものはあまりない。そもそもこの里では、権力という概念にほとんど縁がないのだ。
長の役目の一つは里の中での重大な方針、規律などの最終決定、及び諍いごとに関する最終的な裁定、仲裁を行うこと。ただし、大概の場合は長の決定、裁定を仰ぐ前に問題は解決してしまう。それはある意味平和である証でもあった。
そしてもう一つは数の限られる貴重な食糧、資源の管理。定められたいくつかの品目は収穫、採集の後に一度首長の家が預かり、その後、各家に平等に分配する。――だが、はっきり言ってこれはただの雑用である。別に一度預かるからといって、過度に貰えるわけでもないし、不正を働く余地もない。
他にも細かな役目はいくらか有るものの、大体が雑用である。一応地位に見合う優遇もあるにはあるが、わざわざこれらの面倒事を引き受けてまで欲するほどのものでもない。つまり、これまでアルヴの里の歴史で揺らぐことなくアル家が首長の地位を独占し続けることができたのは、ただ単にその座にあまり魅力がないということでもあった。
今、そのアル家の屋敷、母屋の裏庭に十二人の少女と一人の少女、――そして彼がいた。
アルの家の屋敷は広く、大きい。実情はどうであれ仮にも里の長の屋敷だけあって、母屋だけでいえば里の中でも一番の広さを誇る。そしてその屋敷の特徴的なところの一つは、母屋を丸々囲った高い塀だ。この里では家屋を塀が囲っているほうが珍しく、特に大きな屋敷丸ごとともなれば余計にだ。だから、誰もが知らなかった。屋敷の最奥にこんな庭があったなんて。
広い立派な前庭は誰もが知っていたし、これまた風流な拘りの中庭があることも、直接見たことがなくとも誰もが聞き及んでいた。しかし、そのさらに奥の果ての裏庭の存在は、その場に招かれた少女たちの誰もが知らなかった。
招かれた少女らは広い屋敷の中に通され、長い廊下を進んで曲がって、進んでは曲がってを繰り返し、中庭の横をも通り過ぎ、さらに奥へ奥へと進んだ先で視界が唐突に開け、その庭に辿り着いた。
質素な庭だった。小さな石ころが敷き詰められていて、石垣の塀に囲まれている。石垣やその足元に転がる大きな石にところどころむした苔が、灰色の世界に僅かな緑を添えている。
そして一番に目を引くのは、中央に構える巨大な岩だった。中がくり抜かれて空洞になっており、祠のように飾り付けがなされている。――それは紛れもなく祠であり、だがその中に在るのは御神体などではなく、鎮座したひとりの人間だった。
アル家の嫡男、アルト・イ・アルは物言わぬ氷像と化して、ただ、そこに在った。
「――夫、アルトは産まれながらにしてとても虚弱でした」
この庭に通された時点で誰もがぞくりと寒気を感じていたが、それは正常な反応であり、その原因はこの祠にあった。祠の中はすべてが凍てついており、霧のような冷気を周囲に吐き出して視覚にまで寒さを訴え掛けていた。
その氷の祠の中で肘掛けと背凭れのついた椅子に座ったまま、次期アル家当主アルトは凍りついていた。彼は表情を苦悶で歪めるわけでもなく、ただ静かにそこに在った。
そんな氷の祠の前で「彼女」は語り始めた。
「アルトの命は母の腹より取り上げられし時には、もう既に風前の灯火だったそうです。本来なら尽くせる手はありませんでした」
肩まで伸びたさらさらとした銀髪に一点の汚れもない真っ白な雪の肌。それを包み込む、華美ではないもののどこか繊細な艶やかさを感じさせる装束。透き通る空色の瞳。差し込む夕暮れの陽光。そのすべてが相まって、幻想的で、儚げな雰囲気を醸し出す少女。
彼女の名はハルキ・ル・アル。――アルト・イ・アルの正妻である。
「しかし、彼が産まれる直前、外界から来た『呪い師』を称する人物がアル家を訪っておりました」
そう語るハルキの声量は決して大きくはない。だというのに、その透き通る声は不思議とはっきりと聞こえ、頭の芯にまで言葉を響かせる。
「その者は全身を、顔までもを黒布で包み隠した、誰が見ても怪しげな風貌の人物だったそうです。結局素顔を見た者がいたのかどうかは、私も聞き及んでおりません。
その者は告げたそうです。『間もなく産まれるあなた方の男児は産声と共に既に死の淵にあるだろう。だが、私ならばある代償と引き換えに子の命を救い、未来への希望を繋ぐことができる』、と。そして産まれた男児――アルトは本当にいつ息が絶えてもおかしくない虚弱児でした。
結果として、両親である現アル家当主夫妻は呪い師の条件を飲み、彼を頼りました。今この日この時、あと半月ほどで齢十五を迎えようとするまで彼が生き存えているのは、偏にその呪い師の力があったからこそなのです。……しかし、呪い師からは前言の通り、アルトが生き存えるに当たって、ある代償を提示されていました。
――カルナ様は右利きでいらっしゃいますでしょうか」
「ん? あ、あぁ、そうだが」
唐突に話を振られ、短めの赤い癖っ毛の大女――カルナは困惑しつつ答える。ただでさえ話がさっぱり飲み込めていないところにいきなり振られたものだから、彼女はついおどおどするように返事をしてしまった。
「では、左手をこちらに差し出していただけますでしょうか」
訝しげな表情を浮かべながらも、渋々といった様子でカルナは左手を前に差し出す。
「失礼いたします」
そう言ってハルキは差し出された手を取ると、目を瞑り息を整えた。その場の全員がカルナの左手――背丈に比例するかのように大きな手――の甲に注目する。するとハルキの右腕の袖の下から「黒い線のような何か」が彼女の手の表面をするすると曲線を描いて這うように伝い、カルナの左手の表面に流れ込んだ。
「あぁ⁉ おい、お前何をした⁉」
カルナは咄嗟にハルキの手を振りほどき、自身の左手の甲をまじまじと見つめる。
「……おい、何だこれ」
「カルナ様、お手を――手の甲を皆様によくお見せください」
ハルキは事態が飲み込めず混乱して動けないでいるカルナの左手を再びとり、その手の甲をよく見えるように皆に向かって差し出した。そこには二本の黒い線が組み合わさり、なにか記号のような、簡素な紋様のようなものが描かれていた。一本の線が真ん中で二辺に折れ曲がり、その折れ目から両端にかけて内側に曲線を描いて凹んでいる。それが二本、対に描かれてひしゃげた菱形のようになっていた。
「な、何なんだよこれ!」
動揺して大声を上げるカルナを余所に、ハルキは相変わらず静かで、しかしよく通る声で皆に告げた。
「これより、皆様にはある儀式を――この『刻印』の争奪戦を行っていただきます」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!