「るぅ……」
エリンはアルトと出逢った思い出の花畑でひとり、へたりと地べたに座り込んでいた。一面には彩り鮮やかな春の花々ではなく、涼やかな風に揺れる秋の草花が敷き詰められている。
昨日「死」の話をしてからエリンはずっと胸の奥が苦しくて仕方がなかった。
――人が死ぬ。二度と会えなくなる、触れることも、声を交わすこともすべて叶わなくなる。今まで酷く鈍感だった喪失の感情に対して急に近づいてしまったものだから、堤が切れた川の水のように溢れ出した感情は、簡単に自分の中で咀嚼できるものではなく、飲み下せない濁流だった。――結果、ふらふらとひとりで屋敷を抜け出し、アルトとの思い出の場所に来てしまった。
此処に来たら何かが分かる……とまではいかずとも、何かしら感情の整理でもつくかと期待していた。しかし、脳裏に楽しい思い出の中の彼の笑みと、氷牢に囚われ時の止まった彼の顔が交互に、幾度も繰り返し重なり映し出されるだけだった。
結局彼女は感情の整理も何もできず、何の答えも出せぬまま、ただいつものようにぼーっと無為に時を過ごしていった。
(何しているんだろう、私……)
気づけばもう陽は西の山の陰に迫ろうとしていた。この里は東西北を高い山に囲まれている。東西の山のおかげで日の出は遅く、日の入りは早い。夕陽が山の稜線に触れてしまえば、暗くなるまではあっという間だ。
(もう帰らないと……夜の山は恐いんだから)
……それと、こっそり抜け出して居なくなってしまったことがばれて騒ぎになっているかもしれない。帰ったらちゃんと謝らないと。
――しかし、そのまま直帰することは彼女には許されなかった。立ち上がろうと腰を少し浮かせた刹那。
「避けて!」
その声とほぼ同時に凄まじい光と轟音がすぐ近くで炸裂し、衝撃で彼女の躰は地べたに転がるように、打ち付けられた。
(何が起きたの……?)
なんとか上体を起こし振り向くと再び光と光が――いや、違う、雷が宙で弾け衝撃が一帯を飲み込んだ。澄んだ山の空気が唸り声を上げるように、震える。
(そうだ、最初の光もあれは雷光だ。雷と雷がぶつかって打ち消し合ってる……?)
「エリン、早く逃げて!」
姿を見ずとも分かった。その声は決して聞き違えようのない、レミ姉さんのものだった。
(逃げる……? 私が? 何から?)
思案する暇さえ与えず、水平に撃ち放たれた雷がすぐ側の樹に直撃して、その幹を焼き穿った。大きく身を抉られ自重を支えきれなくなった樹はメリメリと音を立て、倒れ始める。
(今、私は誰かに雷で襲われている……?)
声の聞こえた方向――レミ姉さんの方を見ると、レミ姉さんは茂みの中で立ち上がり、バチバチと唸る雷の槍を放つ構えをとったまま、じっとどこか一点を睨みつけている。その視線の先を辿ると、花畑の向こうの太い樹の幹の傍らに、真っ黒な「影」が夕陽に照らされていた。
よく見るとそれは全身を黒い布で包むように纏った、エリンより少し背丈があるほどの人のようだった。顔にあたる部分だけは、ちらりと白木色の面のようなものが覗き見えた。
(誰、あれ……え、なに……?)
そもそも私はなんで襲われているんだろう。……あぁそうか、刻印のせい? ということは、あの黒衣の誰かは刻印持ちの内の誰かで……私に本気の雷をぶつけてきてるって……それはつまり、私を殺してでも刻印を奪い取ろうとしてる……?
エリンはようやく状況を理解した。
(――けれど、どうすればいいの。逃げる? それとも戦う?)
私も風と雷を扱えるから、雷相手なら渡り合えるんじゃないだろうか。今は刻印で力も上がっているし――って駄目だ。相手も刻印持ちなら条件は変わらないじゃない。
それにそもそも人との戦い方なんて分からない。人に対して巫術で戦うことなんて、考えたこともなかったのだから。
(きっと誰もがそのはず……なんだけどなぁ……)
それ以上考えている時間はなかった。黒衣の影は水平に左腕で大きく宙を払い、前方に雷を圧縮した球をいくつも浮かべ、さらに右手を上に掲げ、振り下ろすとともに一斉に全て撃ち放った。――これはきっとレミ姉さんでも撃ち落としきることは叶わない。数が多過ぎる。
「後ろへ飛んで!」
雷球が放たれる寸前にレミ姉さんがそう叫んだのが聞こえた。エリンは瞬時に自身の身体に風を纏い、後ろへ大きく飛び退こうとした。――ものの、跳ぼうとしたところで足下を樹の根に取られ、見事に後ろから転倒した。直後エリンのすぐ頭上――今の体勢で言えばすぐ眼前を雷球が通過し、幾本もの樹々を掠め、その幹を焼いた。
「エリン‼」
レミが絶叫する。エリンは文字通り目と鼻の先を小さな雷が通過した衝撃で耳が痛くて仕様がなかったが、辛うじてレミの声は届いた。
「大丈夫!」
エリンは大声でそう口に出してレミに伝えようとしたが、それは音にならなかった。
(あれ? どうして声が出ないの?)
とにかく起き上がろうとした。だが、動けない。手も足も動かない。たぶん、怪我はしていないし、雷で痺れたりもしていないはずなのに。
(なら、何故動けないの?)
……そのまま彼女の思考は停止し、樹々の枝葉の合間にちらつく夕空を眺めて呆けてしまった。
「エリン! 大丈夫‼」
すぐ傍でレミ姉さんの声が聞こえてハッと我に返った。
(そうだ、私、襲われてたんだ……)
少しの間、意識が飛んでいた気がした。すぐに立ち上がろうとしたが、地面に手をつくことすらできなかった。腕にも足にも力が入らない。
「大丈夫? 怪我とかしてない⁉」
抱き起こしてくれたレミ姉さんに、今にも泣きそうな顔で問いかけられた。
「力が……なんか入らないけど大丈夫。怪我もしてないと思う」
もしかしたら草木で引っ掻いた掠り傷程度はあるかもしれないが、あの雷撃による直接の怪我は何もしていないはず。体の感覚が正常ならどこも問題ないはずだ。
「よかった……」
両腕で思いきり抱きしめられた。――レミ姉さんは泣いていた。
「レミ姉さん、大丈夫、私は大丈夫だから……」
「貴女死ぬところだったのよ⁉」
レミの怒るような涙声でようやく、エリンは今度こそ状況を正しく理解した。
――そっか、私もうちょっとで「死ぬ」ところだったんだ。あの時たまたま足を樹の根に取られることなく、そのまま真後ろに向けて真っ直ぐに跳んでいたら、逆にあれが直撃していたかもしれない。転んだのも、ちょっとずれていたら当たっていたかもしれない。
(本当に……今、五体満足で生きているのは運が良かったからなんだ……)
そうか、だからレミ姉さんは泣いているんだ。私が死にかけたことによる心の痛みと、今ちゃんと生きている安堵で。
「だって、だって貴女が居なくなったら、私は、私は……」
――私が死ぬ。それはどういうことなんだろう。
他人の死については少しは理解を進められたつもりだった。けれど、自分が死んだ場合のことはまるで考えていなかった。……でも、一つだけ今分かった。それはレミ姉さんが泣くということ。他にも家族や知り合いに、泣いてくれる人はどれほどいるのだろうか。
(――なら、とりあえずは)
レミ姉さんが泣くなら死んじゃ駄目だよね。
しばらくの間、レミはずっとエリンを抱きしめた状態で泣いていた。ようやく少し収まってきたところで、今度はエリンのほうから問いかけた。
「レミ姉さん、あの黒い人は……?」
「分からない。私がエリンに気を取られている間に何処かへ消えてた。エリンに駆け寄るまで周囲に気をつけてはいたけど、やっぱりアレはもう何処にもいなかった」
「あの人……真っ黒な布で全身隠して……やっぱり刻印貰った誰かなのかな……」
あの日呼び出され刻印を託された少女は現在十二人。エリンを襲撃する目的は、その手に刻まれた印しか考えられない。否応なしにも、自分とレミ以外の他の十人の顔がエリンの脳裏に順々に映し出される。
「……いや、たぶん違う」
「え?」
「あの十二人のうち雷術が使えるのは私とエリンと……残りはサリャとハレだけだ」
サリャは既に死んだ。殺された。そしてハレはあの中で最年少な上に、年相応よりも背丈がさらに小さいほうだ。あの黒衣の人物の体格はさすがにもう少し大きく見えた。
「遠目だから確証は持てないけど、ハレよりかは背丈はだいぶ大きかったと思う。そして何よりハレはナルザに一画譲ったから、もう手元には一画しか刻印が残っていない。さっきの奴の雷の威力は……正直私をかなり上回っていたと思う」
じゃあ、一体あれは何者なのか。雷単一持ちのレミの力は、この里の雷術使いの中でも頂点に近い。同年代の子らではとてもじゃないが太刀打ちできないはずだ。
「それより、とりあえず今は帰ろう。もう暗くなっちゃうよ」
「――ごめん、こんな所に一人でふらっと来たりして……本当にごめんなさい」
死人が出た、人が殺されたというのに、本当に不用心だった。ただただ謝るしかなかった。家に帰ったら家族にも、それこそ土下座をするぐらいのつもりで謝ろう。
「うん、そうだね……。だからもう……お願い、これから全部終わるまで……もう、一歩も家から外に出ないで」
――え? 一歩も?
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