桃源の乙女たち

星乃 流
星乃 流

未章

いつか訪れる光景

公開日時: 2021年8月31日(火) 17:01
文字数:605

 あたり一面に炎が燃え盛っていた。どちらを向いても赤い揺らめきが視界を染め、方向感覚さえまどわす。パチパチ、バチバチと木を焼く音がする。時々ドサリと屋根、壁、柱が焼け崩れる音がする。吸い込んだ熱気が鼻腔びこうを灼く。熱気は肺にまで入り込もうとして度々咳き込む。 

「――僕はここで命をす」

 火の海の中に立つ一人の男は、背中でかばった女に視線を向けることなくそう言った。

 風であおられたかのように、いや、意思を持っているかのように、炎の一部が男に向かって飛び出して突進する。まるで蛇だ。

 男はその喰らいつく炎の牙を「何か」で払い除ける。弾かれた大蛇は再び猛る炎海えんかいへと還る。男の視線の先には特に激しく燃え上がる一帯があった。紅蓮の炎渦えんかが踊り乱れ、つい昨日まであったはずの日常を無にすように、焼き尽くす。

「だから君もその子に、その子の命にすべてを賭すんだ!」

 背後の女に――赤子を抱えたその女に、男は強い意志を語気に込めてそう言い放った。

 払っても払ってもきりがなく、幾度も押し寄せる炎の波。その衰えを知らない厄災に、男は徐々にされてきている。

 いまだ動けずにいる女に向かって男は背を向けたまま、ありったけの声で叫んだ。

「行け! 僕らの子のために‼」

 女も覚悟を決めた。息を呑み、腕の中の赤子をしっかりと布でくるんで強く抱き直す。

「……はい」

 女は涙を必死にこらえながら男に背を向け、赤子を抱え、その場から走り出した。もう、決して振り返ることもなく。

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