あたり一面に炎が燃え盛っていた。どちらを向いても赤い揺らめきが視界を染め、方向感覚さえ惑わす。パチパチ、バチバチと木を焼く音がする。時々ドサリと屋根、壁、柱が焼け崩れる音がする。吸い込んだ熱気が鼻腔を灼く。熱気は肺にまで入り込もうとして度々咳き込む。
「――僕はここで命を賭す」
火の海の中に立つ一人の男は、背中で庇った女に視線を向けることなくそう言った。
風で煽られたかのように、いや、意思を持っているかのように、炎の一部が男に向かって飛び出して突進する。まるで蛇だ。
男はその喰らいつく炎の牙を「何か」で払い除ける。弾かれた大蛇は再び猛る炎海へと還る。男の視線の先には特に激しく燃え上がる一帯があった。紅蓮の炎渦が踊り乱れ、つい昨日まであったはずの日常を無に帰すように、焼き尽くす。
「だから君もその子に、その子の命にすべてを賭すんだ!」
背後の女に――赤子を抱えたその女に、男は強い意志を語気に込めてそう言い放った。
払っても払ってもきりがなく、幾度も押し寄せる炎の波。その衰えを知らない厄災に、男は徐々に圧されてきている。
未だ動けずにいる女に向かって男は背を向けたまま、ありったけの声で叫んだ。
「行け! 僕らの子のために‼」
女も覚悟を決めた。息を呑み、腕の中の赤子をしっかりと布でくるんで強く抱き直す。
「……はい」
女は涙を必死に堪えながら男に背を向け、赤子を抱え、その場から走り出した。もう、決して振り返ることもなく。
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