桃源の乙女たち

星乃 流
星乃 流

公開日時: 2021年9月5日(日) 05:04
更新日時: 2021年9月10日(金) 11:37
文字数:10,777

「はー……」

 レミはエリンが風を浴びて気持ち良さそうに伸びをしている様子を見て、微笑んだ。

 屋敷の真裏……ではないが、高い塀の外の人目につかない場所で、レミとエリンは二人並んで地べたに座っていた。人目につかないと言えど、塀一つ挟んだ内側には大勢の人々がひしめいている。

「……ありがと、連れ出してくれて」

 エリンはレミにそう礼を言って微笑みかけた。――だが、その瞳には微かに翳りがあった。少なくともレミにはそう見えた。

(やっぱり私のせいかな……)

 エリンが人酔いするのはいつものことだ。でも、私が話しかけたときのあの僅かにびくついた反応――。

(嫌われちゃった……かな)

 もし嫌われていないとしても、エリンを悩ませてしまっていることは間違いない。――やはり言うべきではなかった。でもあの時は……自分で自分を抑えきれなかった。

 ――後悔しかなかった。

 生涯誰にも言うまいと覚悟していたはずだったのに。あんな姿を見せられては抑えが利かなかった。エリンにはちゃんと異性の想い人がいて、万に一つも私の願いが叶うことはない。そう思ってずっと秘めていた気持ちすべてを吐き出してしまった。一度声に出して言葉にしてしまうと、もう止めることができず、すべてが溢れ出した。覆水は盆には返らない。……だけど少しだけ、本当に少しだけ、その万に一つ未満の可能性に期待してしまっていた自分もいた。――そして万に一つ未満は訪れなかった。分かっていたはずなのに。

 まだはっきりと振られたわけでなくとも、あの様子を見れば分かる。きっと私のことをエリンも好いてはいてくれている。けれど、それは私の「好き」とは違う。だからこそエリンは……きっと悩み苦しみ、今もこんな曇ったをしている。

「……レミ姉さん」

 すぐ隣に座っているエリンがそう言って袖の裾をくいと引っ張ってきた。前を向いたままで視線は合わせてくれず、その声もかすかに震えていた。

(……あぁ、振られるんだ、私)

 覚悟はしていたつもりだったが、やはり怖かった。そしてその答えを言うために、エリンはどれほど苦悩したのだろう。逃げずに向き合ってくれることが嬉しくも、心苦しくもある。

 きっとエリンのことだから、優しい振りかたをしてくれるだろう。でも、駄目なんだ、もう私たちはきっと元の関係に戻れない。他人への興味が薄くとも心根の優しいエリンは私に気を遣い続けるだろうし、なにより私自身がきっともう同じでいられない。いられる自信がない。今まで隠し続けていた彼女に対する感情の栓は、もう直すことができない。

(……やっぱり怖いなぁ……)

「レミ姉さん……えっと、あのね、私ね――」

 そこまで言ってエリンの言葉が止まった。そして表情かおこわばる。

「――レミ姉さん、おかしい。風の声が……変」

 ――え?

 次の瞬間感じた。まだ真新しい、あの感覚を。どこか近くで――いかずちが生まれる気配を。

「エリン‼」

 ズガァァァァン

 咄嗟にエリンを突き飛ばして地べたに転がし、自分も逆方向に転がった。直後、よく知る轟音がすぐ側で鳴り響いた。耳が痛い。すぐに身体からだを起こして元居た場所を見ると、地面が焦げ、僅かな白煙を揺らめかせていた。周囲を見渡すと、少し離れた場所にある一本の大きな樹の太い枝の上に、それは居た。

 そこには全身を黒衣こくいで包んだ人影がたたずんでいた。

 ――私は馬鹿か! なぜ、敷地内に全員居るのだから安全だなんて思ってしまっていたんだ。刻印を配られた面子の中に雷の適性を持っていたのは四人しいなかった。エリンと私、そして残りは既に殺された若い二人。――昨日、そう言っていたのは紛れもない私じゃないか! 迂闊うかつどころの話じゃない。結局のところ、私は昨日のあれからずっと、まるで冷静さを欠いていたんだ。

「外しちゃったかー」

 昨日は遠目からの姿しか分からなかった黒い影が、言葉を放った。聞き覚えのないその声のは意外にも若い女――少女のようだった。

「今日は手出しするつもりなかったんだけどさー、なんかあんまりにも甘ったるい空気を出してるのがうざったかったからついつい、ねー」

 可愛らしいはずの声の音だというのに、酷く不快でかんに障る語調だった。

 ――あぁ、十三人の中に当て嵌まる人物がいないということは、十四人目がいる可能性に何故考えが至らなかったんだ、私は。

「――お前の目的はなんだ。なぜ私たちを襲う」

 落ち着くんだ。まずは情報を引き出せ、状況を把握するんだ。そしてなんとしても……エリンだけは逃がす。昨日の感触だと、奴の雷撃は相当に強い。刻印で格段に出力が上がっている私の雷でも押されていた。あの時は角度をつけて小細工を弄したから上手く相殺できたが、真正面からならきっと押し負ける。

「目的、ねぇ……」

 そう言って黒衣の少女は左腕を掲げ、袖口から黒布こくふを肘あたりまで捲って、見せつけた。

「これで分かるかな?」

 レミは息を呑んだ。信じられなかった。露わとなった彼女の左腕の白い肌には、無数の――二画や三画どころではない数の刻印が連なっていた。

「いくつあるか分かるかなぁ? なんと十画! 君たちの分を貰えばもう十四画だよ? やったね、ゴールだよ?」

 この黒衣を纏いし者が何者かなんて疑問は今はいい。アレは駄目だ。やり合うこと自体駄目だ。昨日は本気じゃなかったんだろう。でなければ、いくら小細工を弄したところで私が打ち消せるわけがない。たった二画でも恐ろしいほど力を底上げしてくれる刻印が十画……?

「あー、昨日は試し撃ちだったけどさ……今はこれくらい出せるぜ」

 再び撃ち放たれた雷の槍を、今度は二人で同じ方向に避ける。撃ち出す手の動作に加え、二人とも雷属適性を持っているので、雷の気配そのものを感じ取れる。だが、地面を大きく抉った雷槍の威力は想像をさらに越えていた。今度こそ鼓膜が破れるかと思えるほどの衝撃が二人を襲った。

「見たかい? これが十画の力さぁ!」

 ――敵うわけがない。私たち二人で太刀打ちできる相手じゃない。ならせめて、エリンだけでも逃がす方策をみつけなければいけない。この子がいなければ、どの道私に生きる意味などない。心中するのもごめんだ、私にはそんな趣味はない。ただただ生きて、生き抜いて欲しい。そして幸せになって欲しい。――たとえ私の身がどうなろうとも。

 ともかく、私が奴の気を引きつけてその間にエリンを逃がすほかないだろう。……そうはいってもあれだけの能力差。どうすればエリンの逃げる時間を稼げるのか。

「それとこんなこともできるぜ」

 そう言うと、黒衣の者は左手で宙をなぞるような動きをして、無数の小さな光の球をその頭上近くに浮かべた。

「降り注げ」

 宙に浮かんだ光球一つずつが弾け、その光の欠片すべてが細い矢のように、雨のように二人に向かって降り注いだ。二人とも咄嗟にかわしたものの、その動きは誘導されていた。屋敷の正門の方向から引き離し、追い込むように光の矢は幾度と狙いをずらしながら地に突き刺さる。さらに厄介なことに、その攻撃には予備動作がなかった。光球が弾けたと思った次の瞬間には無数の光の矢が地に突き刺さる。文字通り光速で撃ち出される矢そのものを目視で躱すことは、きっと不可能だ。

「……エリン」

「はい」

「もしも、もし隙ができたら全力で逃げ――」

「嫌です」

 分かってはいたが、言葉をさえぎってまで即答されてしまった。でもお願い、貴女に死なれたら私はどの道生きる意味を見失う。――だから……なんとしてでも納得させる。

「エリン、聞いて。あいつが本気になったら私たち二人じゃ絶対に勝ち目はない。だから、生き残るには助けを呼ぶ以外ないの。そして私は雷属単一だけどエリン、君には風の力がある。――何が言いたいか分かったね?」

 風の巫術は周囲の空気の流れを自在に操る。使い方によっては風の流れにおのが身を乗せ、素早い移動を可能にする。どちらかが助けを呼びに行くなら、風使いが行くほうがより成功する可能性が高いのは自明だ。エリンにもそれはすぐに理解できた。

「……分かった。私が行く」

 もっと食い下がるかとレミは思っていたが、そう間をおかずしてエリンは了承した。彼女も腹を括ったをしていた。……これならば少しは、せめてエリンだけの生存率は上がったと思いたい。実際は奴が本気になれば、二人共生還できない可能性のほうが遥かに高いだろう。次元が違いすぎる。なんなんだあのおびただしい数の光矢の雨は。

「作戦会議は終わったかーい?」

 黒衣の者は相変わらず癇に障る語調で問いかけてきた。完全に舐めてかかってきている。……遊び感覚なのか? ならその方が都合がいい。もしかしたら何か隙を作り出せるかもしれない。

「あぁ、たっぷり話せたよ。ありがと……なッ!」

 レミはそう言い終えると同時に、まずは片手の四本の指先から、雷の力を矢のように放つ。この程度のもの安易に避けられるだろうとレミには分かっていたが、とにかく少しでも戦いのペースを掴む必要がある。

 案の定、黒衣の者は樹の枝から飛び降りて回避をしながらも、同時に手元に雷を集束させ、着地とともに再びレミとエリンに向けて雷の槍を撃ち放った。飛び降りるその様は、もはや黒い布そのものが身をなびかせ、ひるがえるかのようだった。

(派手な回避動作に攻撃動作を重ねて読みづらくしてきたようだが……雷単極を舐めるな。雷の発生には一際敏感だ)

 二人とも雷槍を回避をしつつも、ほぼ同時にエリンが放った風の刃を黒衣の者は即座に張った雷の盾で相殺し、そのまま両手で、合わせて八本の雷矢を指先から二人に向けて放つ。僅かな時間での連技であったにも関わらず、その雷矢一つ一つの持つ威力は並のそれではなかった。

 二人ともがぎりぎり雷矢を避けきって一連の応酬が途切れたところで、黒衣の者は呟いた。

「つまんね」

 黒衣の者は再び腕で宙をなぞり、光球を無数に浮かせる。咄嗟にレミは雷矢を放つものの雷の盾で相殺され、光の雨が二人に向かって降り注ぐ。――今度は誘導ではなかった。

「ぐっ……!」

 いくつかの光矢が肌を掠った。痛い、傷口が灼けるように痛い。光の術は光をとても高い密度で圧縮して光弾を放つため、大きな熱を伴なう。がむしゃらに逃げ回ったおかげでなんとか掠り傷だけで済んものの、その傷すべてが火傷をしたようにひりひりと痛む。

(そんなことよりエリンは――!)

「貴様ァ‼」

 頬を抉った赤い筋、あちこち破れ襤褸ぼろのようになった衣服、その隙間から細く滴る血が草土を赤く染める。そんなエリンの姿を見て、レミは激昂してしまった。

 咄嗟に足元で小さな雷の爆発を起こし、それを推進力に一気に黒衣まで距離を詰め、てのひらに集束させた雷を直接叩き込もうとした。だが、その激情に駆られた一撃も即座に作られた雷球の爆発に防がれ、逆にレミのからだは宙に弾き飛ばされた。そして弾かれた肢体したいが再び地に着くより早く、彼女の肩を追撃の光槍が貫く。

「レミ‼」

 すんでのところでエリンが滑り込み、彼女の躰を風の毛布で受け止めた。

「レミ‼ しっかりして……‼」

 肩から血をだらだらと垂れ流すレミに、エリンは涙声で必死に呼び掛ける。傷口は大きくはないものの完全に貫通しており、血が止まらない。二人の衣が真っ赤に染まっていく。

「馬鹿……今のうちに逃げればよかったのに……」

 弱々しい声でそう言いつつも、レミは少しだけ嬉しかった。

(いつ以来かな。呼び捨てにしてくれたの)

 まだ幼い頃は呼び捨てだった。だのに、成長するに連れていつの間にか呼称が「レミ姉さん」になってしまっていた。口には出さなかったが、レミとしてはそれが少しばかり寂しかった。そして皮肉にも、命の窮地に陥ったことで久しぶりに呼び捨てにしてもらえたなんて。

(――駄目だ、違う。今はそんなことを思っている場合じゃない)

 身体のあちこちが痛む。肩の激痛は既に感覚が麻痺しつつあるが血は止まらない。――でも、私はまだ生きている。この子を護るためなら、命ある限りいつまでも動ける……!

「……エリン、次は私がどうなろうが……とにかく逃げるんだ。いいね?」

「………………うん、分かった」

 エリンは涙でぐしゃぐしゃの顔でこくりと頷いて了承した。きっと本当は一人だけ逃げるなんて嫌で嫌でしょうがないだろうに。

(ありがとう、そしてごめんね)

 ……さて、その隙を作るにはまずは一撃、一撃でいいから奴に攻撃を入れなければ始まらない。エリンも既にぼろぼろだが、まだ少しは動けるはずだ。なんとか一撃だけでも入れてそこから隙を作りだせば、勝機はある。エリンさえ生き残れば私の勝ちだ。

「これでおしまいー? だったらもう本当に終わりにしちゃうよー?」

 癇に障る煽りとともに、黒衣の者は再び腕を払って宙に夥しい数の光球を浮かべた。小さな星空のようだった。夜闇の中であれば、さぞ周囲を明るく照らしてくれたことだろう。

「避けるよ!」

 二人で逆方向に跳んで回避する。そこに容赦なく真昼の星々は矢となり、降り注ぐ。回避するといっても光速の矢相手には結局がむしゃらに動いて逃げるしかなく、そのすべてを避けきることなんてできやしない。数が多すぎる上に範囲も広い。

 ……身体中が灼けるように痛い、熱い。だんだん自身の動きが鈍くなっていくのが分かる。右肩を穿たれたせいで、右腕の動きが悪い。でも、エリンが生きている限り、私はまだ負けていない。

 レミは必死に避けながら雷球を放って応戦するも、黒ずくめの怪人は未だ掠り傷一つさえ付けることを許してはくれない。対して光の雨は容赦なく、幾度も降り注ぐ。その度にレミの綺麗な白んだ肌が赤い傷で彩られてゆく。間違っても掠り傷なんて呼べないほどの深い傷も幾つも負い、全身のあちらこちらから血を滴らせている。

 風の助けでレミより素早く動けるエリンも全身がぼろぼろだった。だが、彼女も決して諦めてはいない。ただただレミのことを信じて離脱の機を待ち、避け続けていた。――レミの前に割り込みたい衝動を必死に抑えて。

「ちょこまかと鬱陶しい!」

 黒衣の者は光の雨を降らすと同時に、レミとエリン二人共に向けて両の手の指先から八本の雷矢を放つ。空気を裂く矢は咄嗟に防御に回ってしまったエリンの風の障壁を易々と貫き、彼女の身体に突き刺さる。雷矢を回避しきったレミには、畳み掛けるように幾本もの光矢の追撃が放たれ、その身に突き刺さった。

「ぐっ……」

 痛い、痛すぎてもう感覚が麻痺している。どこが痛いか、どこに傷を受けたかなんてもう何も分からない。でも、まだ立てる。まだ動ける。私もエリンもまだ生きている。

 ――いや、待て、何故私たちはまだ生きている? 奴が遊んでいるせいなのか?

 力の差は歴然。技術で補える次元を軽く通り越している上に、あの光の雨に関しては奴も相当な技術を持っているはずだ。いつとどめを刺されてもおかしくない。――だのに、まだ私たちは二人共生きている。二人とも衣服は赤く染めた襤褸のようで全身は傷だらけ。今にも死にそうなていをしているが、未だ致命傷と呼べるものはなく、まだ生きている。

 それは何故だ。思い出せ、奴の言動、挙動のそのすべてを――。

「ちゃんと避けないと死んじゃうよー」

 獲物をもてあそぶかのような、そのままなら絶対優位故の余裕と取れる言動。いや――。

(――賭けてみるか)

 再び降り注ぐ光の雨。それをレミは敢えて避けなかった。光の矢は容赦なく立ち往生するレミの全身に突き刺さり、肌を抉り、穿ち新たな生傷を無数に刻み込む。

 しかし、その光雨は途中で降り止んだ。宙に浮かぶ光球はまだまだ残っているというのに。

「どうした? もう諦めたのか?」

 そう嘲笑あざわらう黒衣の怪人に対して、レミはニヤリと笑みを浮かべた。

 ――止めたな? その圧倒的な攻撃を。

「お前こそどうした? 止めは刺さないのか?」

 レミは真っ直ぐに黒衣の者をめつけながらそう煽り、さらに反応を待たずして畳み掛けた。

「実はお前……まだ『殺し』に慣れていないんじゃないか?」

 直後、残りの光球が弾けて矢となり降り注ぎ、突き刺さった。レミの周囲の地面に。

 ――図星、か。おそらく奴はただ獲物をなぶり殺しにしようと遊んでいるように見せて、その実は殺す覚悟が中々決まらないだけなのだ。儀式が始まってから既に二人殺されているが、それでもきっと奴はまだ殺すことに慣れていない。当然だ。規格外とはいえ、里の技を使っている以上、きっと奴はこの里の中の者だ。だが、この里で人殺しなんて物騒なことは今まではなかった。少なくとも私が生まれてこの方、一度もなかった。だから殺しに慣れている者なんて、誰一人としてこの里には存在しない。

「だっ……だったら今すぐ殺してやるよ‼」

 先程までの余裕綽々よゆうしゃくしゃくとした様子から一変、冷静さを欠いた声と共にこれまでより見るからに多くの光球が黒衣の者の頭上周辺に浮かび、広がる。

(精神的な優位は取れた。あとはこの圧倒的な力の差をどう覆すか……)

 その差は本当に圧倒的すぎて笑ってしまいそうだが、まだ可能性は残っている。この命がある限り、可能性は残っている。

「死ね!」

 レミは降り注ぐ膨大な数の光の矢を必死に避け続けた。一撃一撃の威力は強くなってはいるものの、その精度は明らかに落ちている。とはいえ、やはり光速の矢をすべて避けきるなんて芸当はできるわけもなく、レミの生傷は増え続ける。

 ちらりとエリンの姿を確認すると、まだ倒れたままではあるものの、なんとか動きだせるように少しだけ体勢を整え、涙で濡れた真っ赤な目でレミを見つめていた。光の雨は倒れたままのエリンの存在を無視して、すべてがレミに向けて降り注いでいる。

(エリン、それでいい、そのまま気配を抑えておくんだ)

 おそらくもう少しだ。もう少しでエリンだけは奴の意識の圏内から外れるはず。あと一踏ん張りだ。仕込みももうすぐ完成する。

 レミは雷球を両手それぞれに作り出し、交互に撃ち放ち反撃に転じる。そのすべては当然の如く弾かれ、靡く黒衣にはまるで届かない。それどころか雷球を撃ち出す僅かな動作の度に、光の矢がレミに突き刺さる。だが、レミはもう何も怖れてはいなかった。無意識が拒んでいるのか、既に痛みもろくに感じていない。

 そしてレミが「最後の仕込み」を終えるとほぼ同時に、より強い光矢が彼女の足の甲の中心を貫き、彼女はそのまま転倒した。血糊だらけの地べたにその躰は打ち捨てられた。

「これで終わりだ」

 黒衣の者がそう言い放つと、レミはにやりと笑みを浮かべた。

 ――一斉曲射。

 光の槍を構えた黒衣の者に対して、周囲ほぼ360度から雷球が襲いかかった。

 ――回避と反撃。レミは息も絶え絶えに、動けるのが不思議なほどの状態でその二つの行動を並行して行いながら、さらに同時に「地面すれすれに雷球を配置する」という三つ目の行動を取っていた。そして配置したその雷球すべてに遠隔で力を送り込み、黒衣の者に目掛けて一斉に、出鱈目でたらめな放物線を描いて撃ち放った。平常時さえ、こんな芸当ができる者はそうそういない、神業の域。

(いくら奴が膨大な力を持っていても、ほぼ360度すべての方向から、しかも、出鱈目な軌道を描く雷球すべてを防ぐことはできまい……!)

 だが次の瞬間、猛烈な風が吹き荒れた。黒衣の者を中心に据えた強靭な旋風せんぷうだった。雷の球はすべて、形無き風の刃に相殺され無に散った。

「逃さない」

 黒衣の者の放った光の槍が正門へ向かって飛び出したエリンのももを貫いた。

「エリン!」

 咄嗟に背を見せてしまったレミに光の雨が容赦なく降り注ぐ。

(ぐっ……どういう……こと……だ……?)

 巫術の適性は多くて二属までのはず。だから奴の適正は光、雷のはずだった。だのに……今奴は、確かに風の力を使った。三番目の適性……これも刻印の力なのか?

「減らず口もお終いかい?」

 黒衣の者は厭らしい口調で言い放った。しかし、その声音は苛つく感情を隠しきれていない。――確実に効いている。まだだ、まだ終われない。エリンは脚をやられて倒れている。ならどうすればいい? こんな勝てっこない相手にどうすればいい? 強大な力の量、技、そして三属の使い手。いや、殺された二人の凶器の件も入れると四属かもしれない。もうそこまでいけば五属全ての可能性も否定できない。……どうすればいいの。

「もうそろそろ諦めたらどうだ?」

 いくつもの細い光の矢がレミの身体に向かってさらに降り注ぐ。

「あぁ、そっちの子も動かないでね? 後でたっぷりいたぶってあげるから」

 刹那、細く鋭い雷閃が黒衣の者の顔を白木色の仮面のふちごと掠め、今まで一切が隠されていたかの者の素肌に、頬に初めての傷を与えた。血が涙のように一筋、伝い落ちる。

「おまえの……相手は……こっち……だ」

「てめぇ……‼」

 火事場の馬鹿力とはよく言ったものだと、レミは思った。咄嗟に何も考えることなく放った一撃は、ほんの掠り傷ではあるが、確かに奴の身体に初めての傷を与えることができた。とはいえ、こんな一撃、もうこれっきりだろう。身体がもうほとんどいうことをきかない。

「どうした? やっぱり止めは刺せないのか?」

 煽る、ひたすら煽る。まだ口は動く。声も出る。具体的な策はもうない。ただもう煽って奴の心を乱し、自分に注意を向かせ続ける。私にはもう、それぐらいのことしかできない。

「くは…………」

「……ご希望通り止めを刺してやろう」

 ……痛い。痛い? 痛みがもう分からない。光の槍がまた身体を突き刺したようだ。でも、もうどこに刺さったのか分からない。どこが痛いのか分からない。痛覚はもう死んだのか? だが、まだきっと致命傷じゃない。だからまだ動け……あれ、動か……ない……?

「やめて! お願い、レミは、レミのことだけは助けて!」

 朦朧としてゆく意識の中、そんなエリンの、愛しい人の悲痛な叫びが聞こえた。

(違う、だめ、駄目だ! そうじゃない! それじゃ駄目だ……‼ そうだ、ここで私が倒れたら、次は……次はあの子が……‼)

「黙れ、お前は後でじっくり嬲って遊んでやる」

 光の雨がエリンに降り注ぎ、彼女の身体に生々しい赤い傷を増やす。

(動いて! 動け! 私の身体……!)

 ――‼ そうだ、動かないなら動かせばいいんだ。

「ま……まだ……付き合って……もらう、ぞ」

 息も絶え絶え、掠れた声で言葉を発しながら、レミは頭から足までずたぼろで血にまみれた身体で立ち上がった。――正確には立ち上がらせた。

「まだ私は……生きてい……る」

 そう言ってレミは赤い血がだらだらと流れ落ちる身体で一歩、また一歩と動き出す。肉は削がれ、穿たれた骨は砕け、それでも彼女は地べたに血溜まりを作りながらも、歩む。

「い、いい加減に倒れろ‼」

 雷の槍がレミの、今度は脇腹を抉るように貫く。

「ぐっ……」

 だが、彼女はまだ倒れない。まだ踏み止まる。

「どう……した……ま、まだ生きて……いる……ぞ?」

 真っ赤に染まった無惨な襤褸を纏った彼女は、さらに一歩、また一歩と黒衣の者に向けて歩みを進め続ける。その姿はさながら、不死の怪物のように。

「お、おまえ、な、なんでうご、動けるんだよ‼」

 黒衣の者はそう叫び、思わず一歩後ずさった。彼女が見せた初めての後退だった。彼女は全身から血を垂れ流しながらも未だ動き続けるレミに対して慄き、恐怖すら覚えていた。

「知っ……るかい……? 人の身体って……雷をなが……動……くんだ……よ……?」

 ごく微量の雷を身体に流せば、ビクリと反応して跳ねるように動く。それの応用の応用のさらにその先。レミはある時偶然その用法に気づき、その後特に目的もないのに追求し続けた結果編み出した、異端の技能。とはいえ、全身をまともに動かしたことなどなかった。そんな機会はなかったのだから。

 今、彼女はぶっつけ本番で、こんな生きているのが不思議な体で、その繊細すぎる人間離れした技をやってのけている。すべては愛する人の為。その執念が彼女を限界の先へと突き動かす。

「……ば、化物め‼」

 一歩、また一歩と歩みを止めないレミに対して、徐々に後ずさりながら黒衣の者は声を張り上げ、叫ぶ。

(――怯えろ、震えろ、恐怖しろ)

 遊ぶように人を嬲ることはできても止めを刺すことには躊躇する。その程度の半端なへたれなら無理をするな、頑張るな、さっさと去れ! 私の最愛の人の前から消え失せろ‼

「こっちに来るなあああ‼」

 そう叫び黒衣の者は頭上に大きな光の塊を発生させ、炸裂させた。今までの小さく集束させて放っていた光弾とは違い、周囲一帯に薄く広く伸ばして覆うように。……それはただの光だった。物を、人を傷つける力を持たない、ただすべて照らすだけの光。――いけない、目眩ましだ‼

 直感だった。

「先にお前からだ!」「エリン、避けて!」

 二人の言葉はほぼ同時だったが、レミの叫びはもうほとんど声になっていなかった。それでもレミは瞬時に足元で雷を炸裂させ、その衝撃に躰を乗せ、エリンの居た方に飛び込んだ。

「がはっ……」

 レミが吐き出した血反吐ちへどがばしゃりとエリンに降り掛かり、そのひたいを真っ赤に塗りたくった。エリンに覆い被さったレミの身体の中心には雷の槍が突き刺さった跡があった。雷槍はレミの持つ雷に相殺され、貫通するには至らずに彼女の身体だけを穿ち、消えた。

「レ……ミ……?」

 ああ、ごめんね、汚しちゃって。その綺麗な顔も、髪も……。

「嫌……嫌……! レミ、返事をして……!」

 ごめん、エリン。声を出そうと思っても、もう音にならないんだ。

「おい、何してるんだ!」

 遠くから誰かの声が聞こえた。

 ――あぁ、やっと、やっと誰か気づいてくれたんだ。そうだ、これでエリンは……エリンは助かるんだ……!

「レミ、駄目、駄目、いかないで……」

 そっか、もう死ぬんだ、私。

「誰か、助けを呼んできてくれ‼」

 また誰かの声が聞こえた。

 ――エリンは生き延びたんだ。私やったよ。がんばったよ。私の勝ちだ。

「嫌、こんなの嫌……レミ……レミ……!」

 ごめんね、さすがにもう駄目みたい。

 でもね、私今、すごく満たされているんだ。最期に君のことを護れたんだから。

 ――でも、もし叶うならば。最期にもう一度。

「顔を……見せて」

 その願いはかすかな声となり、彼女に届いた。……あれ、声もう出ないと思ったんだけどなぁ。

「レミ……!」

 抱き締めてくれていたエリンの身体が少し離れたと思ったら、彼女の顔が辛うじてまだ保たれていた視界に映り込んだ。

 ……ああ、ありがとう。ありがとう。しかもこれ、たぶん膝枕されている……?

「駄目、駄目、いかないで、レミ……」

 そんな顔しないで、エリン。私は今、すごく幸せだから。だからそんな顔しなくていいんだよ。

「レミ……で……レ……ミ……」

 もう耳も聞こえなくなってきちゃったよ。視界もぼやけてほとんど見えない。君の可愛い顔がもう見えないよ。優しい声がもう聞こえないよ。

 ごめんね、ありがとう。私、君に出会えて幸せだったよ。

 ――バイバイ。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート