「ほんとに来やがったな」
待ち受けていたカルナの前に、彼女は本当に現れた。
――エリン・ウォ・ウルカ。棚ぼたで四画の刻印を得た引き篭もり。何処にいるかと思ったら、あの日以来ずっと家に篭っていたそうだ。
それがどうやったかは知らないが、セラの呼び出しに応じてこんな人気のない場所にたった一人でのこのこやってきた。――懲りてねーのかよ、馬鹿じゃねーの。しかも、十四番に負わされた脚の怪我がまだ良くないのか、杖までついている。
「あの紙ヒコーキを飛ばしてきたのはやはりセラさんでしたか」
「おう、用があったのはあたしだけどな」
呼び出しだけしてもらってセラは帰らせた。どうせどっかで見てるんだろうが。……たとえ相手が四画の刻印を持っていようとも、コイツぐらいは、今度こそ一人でヤれないと、あたしはこの先十五画なんてとても集められない。今持っているのは三画。奴を倒せば七画。大体半分だ。――それでもまだ半分、か。
「で、要件はなんですか」
エリンは無表情に、けれどもカルナの目を真っ直ぐ見据え、訊ねてきた。
(なんだ……? 何か雰囲気が違わねーか……?)
相変わらず表情は消えたままだというのに、その目には何か気圧されるものがあった。大切なものを喪った虚ろでも、ぼやっと呑気にしていた頃のそれでもないし、逆に怒りや復讐のような色が見えるわけでもない。……なんだこの目は。
「そ、んなの決まってんだろ!」
駄目だ、こんなことで狼狽えるな、気圧されるな。この程度のガキなんて怖れていたら、あたしは……あたしは……。――落ち着け。あたしのやることは変わらない。そうだ、変わらない。力尽くで欲しいものを……奪い取る。
「これが……欲しいのですか」
エリンは自ら左手の甲を縦に翳した。袖の裾が少しずり落ちて、手の甲から手首に掛けて刻まれた印が露わとなった。四画の刻印。エリンがレミから受け継いだ二人の絆。
「そうだ。それを全て、だ」
「三画ではなく、『全て』なんですね」
刻印は任意で、自発的に他者に譲ることができるが、それだと最低一画は持ち主に残る。真っ当な、本来提示された手段で奪おうとしてもそれは同じ。それでも「全て」寄越せと宣言するのはそういうことである。
「そうだ、その刻印四画……全部あたしに寄越しやがれ!」
カルナは掌の上に火球を作って構える。
――風さん、少し私に力を貸して。
「おとなしくするなら、ちょっと痛めつけて、その手を焦がす程度で済むかもしれないぜ。さぁ、どうする?」
――廻れ廻れ、私の衣。
「おい、なにぼそぼそ言ってんだ?」
――天を目指し、強かに。
「で、どうすんだ、答えろ!」
カルナは苛々していた。いや、焦燥感? 感情が縺れて自分でもよく分からなくなっていた。とにかく早く、一刻も早く目の前の少女の手を黒焦げに焼いてでも、早く終わらせたかった。
「……ご自由に」
エリンは静かにそう言って、しばらくぶりににこりと小さく笑んだ。そして凛とした、力強くも落ち着いた、一縷の振れのない声で紡いだ。
「――風よ、どうか私をお守りください」
刹那、カルナは強い風圧を感じた。エリンの周囲に薄い土煙が渦巻き、彼女を中心に烈しい旋風が巻き起こっていることが見て取れた。
(いつの間に……?)
それはあっという間に、それこそ瞬き一つする間に猛烈な速さ勢いを持って渦巻く、風の障壁となっていた。だが、風とは結局のところ空気が動いているだけ。なら、そこに炎を流し込まれれば、それは己が身を焼く炎渦と化す。
「自分の風で、燃え尽きな!」
旋風の中の塵という塵を片っ端から直接に、無理やりに発火させる。彼女を守るはずの防壁は燃え上がり、彼女を閉じ込める火炎の牢獄となる。――はずだった。
――だいじょうぶ、苦しくないよ
そんなもの、空に逃してしまいましょう――
炎は彼女を抱擁する前に風の渦の縁を辿り、勢いよく空高くへ向かって吹き上げられ、消えていった。その場には変わらずエリンを護る風の障壁と、少しばかりの熱気だけが残った。
(何がおきている……?)
あんな旋風に直に炎を流し込めば、一気に全体が火の渦となるはずだというのに。それに奴はさっきから何をぶつぶつ言っているんだ……?
「私は一人で居ることが多かったんです」
カルナが次の手を拱いていると、エリンは脈絡なく語りだした。
「それでよくお話していたんです、風と」
――は?
「私は風術使いですが……そんなこと関係なく、小さい頃から何となく風が好きだったんです。だから一人きりのときはよく風とお話してたんです。そうしたら……気づいたらこんな事ができるようになっていたんです」
そう言って彼女は左手を前に突き出した。
――矛は盾、盾は矛
あなたは盾、あなたは矛
私を抱く風さんたち、その渦を矛とし、大きな童を――
「――懲らしめて」
ヒュイイイイィン
エリンを包んでいた風の衣は一振りの風の刃に転じ、カルナに容赦なく斬りつける。
(ぐ、痛ぇ……)
ぎりぎり直撃は避けられたものの、二の腕の表皮が袖ごと斬り裂かれる。
(落ち着け、痛いけど、痛いけど傷は浅い、落ち着け、奴の動きをよく見るんだ……!)
間髪入れず鞭が撓るように襲い来る風刃に対し、カルナは咄嗟に驚異的な瞬発力で炎の防壁を張ったが、それは呆気無く喰い破られた。相殺し切れなかった風がカルナの身体に無数の掠り傷をつける。
――あなたは矛、あなたは盾
お願い、私を包んで、その衣で――
エリンは再び風の衣をその身に纏い一歩一歩、片脚を庇う杖をついたままゆっくりと、カルナに向かって歩きだす。纏った空気の流れに乗った細かな塵が、彼女を護る風がとても速く鋭いことをまざまざと示している。
(……なんだ、なんなんだこいつ)
一人でぶつぶつ呟いて、あたしの炎も全部、軽く吹き飛ばして。ほんと何なんだよこいつ……!
――こわい。怖い。恐い。奴は一体なんなんだ、何をしているんだ。
(――落ち着け)
奴が何をしようともあたしは炎特化。
あたしが一番強い炎使いだ。
あたしの炎は一番強いんだ。
あたしが一番強い炎なんだ!
あたしが負けるはずがない……!
こんな、こんなわけの分からない奴に負けるはずがない……‼
ヒュヒュヒュン
カルナがもう我武者羅に最大火力の火球を作りだそうとした寸前、何かが風を切る音を立てて、トントントンと彼女のすぐ前方の地面に刺さった。
(氷の針……セラか。帰って来いってことなのか? いや、私はまだ負けていな……)
だが、エリンの方に視線を戻し、カルナは愕然とする。
――なんなんだ⁉ あいつのあの優しい、穏やかな微笑みは。あれだけ鋭く、烈しい風を操っているというのに、なんだその優しい眼差しは⁉
カルナは前方に火球を炸裂させ、エリンの風はそれをさっと薙いで払った。炎が散った先にエリンが見たのは、背を向けて走り去っていく赤毛の女の大きな背中だった。
「……よかった」
残されたエリンはひとり、そう呟いた。
「――ありがとう、もう大丈夫だよ」
彼女がそう口にすると、彼女を中心に渦巻いていた風は宙に解けた。
「うん、私が倒すべきはあの人じゃない。――さぁ、そろそろ私も動こう。……ごめんね、
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