「はぁ?」
しばしの沈黙の後、そう声を上げたカルナは「刻印」が描かれた自身の左手の甲を右手で勢いよく擦り始めた。
「おい、取れねえぞ! 何だよこれ‼」
カルナが今にもハルキに掴みかからんとする勢いで声を荒げる。刻印と呼ばれたそれは、いくら擦っても掠れやしない。他の面々も何が起こっているのか、ハルキが何を言っているのかさっぱり理解が及ばず、一様に黙りこくっていた。
「アルトが命を存えるための条件は二つありました。まず一つ、彼がちょうど齢十五になる頃に父であるアル家現当主ハルトが死期を迎える。同時に、アルトに施された呪いの力が発現し、全身が凍てつき、彼の時間は一度停止する」
鬼のような形相で睨みつけているカルナを余所に、ハルキは淡々と話を再開する。並の男より高い背丈と体格を持つカルナに凄まれているというのに、彼女はまったく意にも介さない。カルナは今にも暴発しそうだったが、セラが腕を掴んでなんとか繋ぎ止めていた。
「そしてある条件に当て嵌まる十三の少女たちによってこの『刻印』の争奪戦を行わせ、最初に十四画の刻印を集めた者の力によって、彼を氷の檻から解き放つ。さらにそれを成した者は彼の正妻になること。この一連の流れ――儀式を行うことが、アルトの命を未来へ繋ぐために必要な一つ目の条件です」
ハルキはここまで述べて一息ついた。一息ついたといっても息切れしているわけでもなく疲れた様子もなく、最初からまったく何も変わらずに彼女はただ、整然としいる。
「……おい、ちょっと待てよ」
片腕をがっしりとセラに両腕で掴まれたままカルナが再び吠える。
「なんか小難しいことはよくわかんねーが、あれか? 死にかけだったアルトのぼんぼんを無理に助けた落とし前に、今更になってあたしら十人以上が巻き込まれてるってことじゃねーのか? 争奪戦だか何だか訳分からんことに」
「ちょっと、姐さん落ち着いて……」
「――いや、今回ばかりは彼女の言い分は正しい」
カルナを抑えようとするセラとは逆に、乗ったのはナルザだった。カルナほどではないが体格の良い、少し短めの茶髪の少女。彼女はとにかくカルナと相性が悪い。同時に彼女は正義感が強く、どこまでも真っ直ぐを往く人間である。それ故に、たとえ犬猿のカルナの言うことであっても、それが正しいと思ったならばそれに乗ることも厭わない。
「もう済んでしまった事とは言え、なぜ一人の男児の為に十数人の人間が理不尽に、本人の意も介さずに巻き込まれなくてはならない? いくら男児の存在が貴重で、それが首長の家だったからといっても、勝手が過ぎるのではないか」
ナルザは周囲の面々の様子をぐるりと確認する。何かまだ言いたげにしているカルナはおいておいて、その他は大体が訳が分からないと、ひたすら困惑した顔をしていた。
ナルザは再びハルキに視線を向け、誰にでも分かりやすい一つの疑問を彼女にぶつけた。
「そもそもの話、先程貴女は争奪戦の末の勝者にアルト殿の正妻になってもらうと説明したが……ハルキ殿、貴女が彼の正妻ではないのか?」
彼女――ハルキ・ル・アルは、齢十三のときに、アル家次期当主であるアルトの正妻として公に紹介された。この里ではほとんどの男子が齢十五になると婚姻を行うが、それ以前に婚約や早期婚姻を行うこともしばしばある。アルトとハルキも早期婚姻を行い夫婦となり、両名が十五になり次第、正式に婚礼の儀を執り行うとのことであった。
しかし、このハルキについては謎が多かった。まず生い立ちに関して不可解な点があった。夫が亡くなり家が途絶え、出戻りしてきた当主夫人の妹の子――つまりはアルトの従姉妹――という紹介だったが、誰でも少し調べれば整合性の取れない点がいくつかあることに気づく。そもそもの話、同世代の子供たちが誰も彼女のことを知らなかった。アルトについては皆顔をよく見知っていたのに、ハルキを見知った者はただの一人もいなかった。
「――単刀直入に申し上げますと、私は彼――アルトの実の双子の妹でございます」
まったく予想だにしていなかった答えに、一同は硬直した。カルナは口をあんぐりと開けたままに固まり、ナルザもさすがに驚きの表情を隠せなかった。兄妹での近親婚、しかも双子。――禁忌もいいところだ。
「血」は濃くなればなるほど生物として弱くなっていくものだ。だが、この里はあまりに閉じられ過ぎている。たった八の家族から始まった血族だ。八家の始祖それぞれは直接の血の繋がりはほとんどなかったらしいが、外部から孤立した里であるが故、否応なしに血は濃くなり続ける。それをできうる限り緩和するために、婚姻はなるべく血縁が遠い者同士ですることが多い。
だというのに、だ。首長の跡取りが兄妹婚とは一体どういうことなのか。従兄妹婚ですら滅多なことでは許されないというのに、まさかの双子。その場にいた人間――ハルキ以外の誰もが理解が追いつかなかった。もう理解の追いつかないことだらけだった。
「十五年前、アル当主夫人の腹に宿った命は虚弱な男児アルトだけではなく、私も合わせた双子だったのです」
それぞれの驚愕の様も気に留めない風に、相変わらず淡々とした口調で、ハルキはそのよく通る声で語りを再開する。
「かの呪い師がアル家に要求したもう一つの条件。アルトと共に産まれる双子の妹は、その儀式を執り行う為に、それまでの十五年間を捧げよ、と。……そして私は婚姻が公になるまでその存在をひた隠しにされ、儀式の管理者になるべく秘して育てられました。
先ほどカルナ様にお渡しした刻印も、産まれた直後に私の体にかの呪い師の手で施されたものが成長し、完成したものの枝葉になります」
そう言うとハルキは上着を留めている紐を解いてそれを脱ぎ、皆に背を向け帯を緩め衣をずらして、その右腕を肩から露わにした。そこには無数の黒線で構成された、奇っ怪な紋様が肩から手首までにかけて、連なり描かれていた。
「すみません、冷えるので服を戻しますね」
全員がその紋様――刻印とやらをしっかりと視認するのを待ってから、彼女は崩した衣服を簡単に直した。
「先ほど申しあげました通り、この刻印をカルナ様に施したように、ここにいる全員に受け取っていただきます。そしてそれを賭けた争奪戦を行い、最初に十四画の刻印を集めた者を勝者とし、アルトにかけられた氷の呪縛を解いた上でその正妻となっていただきます」
「だから何であたしらがそんなことしなきゃなんねーんだよ!」
即座にカルナが吠える。そしてそれにナルザが続く。
「――今の話の通りだとすると、貴女はこの妙な絡繰りでアルトの命を繋ぐために、生まれてこの方十五年ものの生を、その為だけに費やしてきたことになる。貴女はそれでいいのか?」
ナルザは冷静を装っているが、その声には僅かな怒気が含まれていた。ナルザの正義感は彼女の置かれた運命の理不尽さを許容できなかった。たとえ双子の兄の為とはいえ、生まれてからの十五年の生の一切をその為だけに費やし、ひとり隠されて育てられたなど……狂っている、と。
「はい、私はこの運命を受け入れております。でなければアルトだけではなく――この里が滅びます」
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