桃源の乙女たち

星乃 流
星乃 流

終章 未来へ

最終話

公開日時: 2021年9月12日(日) 17:01
文字数:6,035

「お待ちしておりました。彼女は既に奥でお待ちです」

 そう出迎えてくれたのはアル家前当主正妻――アルトの実母その人だった。

 案内されてエリンは奥へ奥へと廊下を進み曲がり進み曲がり……。そして最奥の敷居を跨ぎ、隠された裏庭へと再び足を踏み入れる。――今回の一件の初日以来のことだった。

(……あれ、何日経ったのだっけ)

庭の中央では相変わらず彼をまつる凍てついたほこらが白い息を吐き出しており、今日は比較的暖かい日だというのに、此処だけが別世界のように冷え込んでいた。

「よくいらしてくれました」

 ハッと横を振り向くと、庭を臨む縁側の端のほうに彼女は座っていた。

 相変わらず無表情で無機質で、一縷いちるの乱れも感じさせない雰囲気を纏い、漆黒の髪に紫の瞳を持つ少女、カナミ・イェ・ウルは、ただ、そこに座っていた。

「では、わたくしは一度失礼いたします」

 引き戸を閉め、夫人は屋内に下がっていった。

 こちらを視るカナミと視線が交わる。……まったく読めない。彼女が何を考えているのか、何を思い、何を望んでいるのか。

 喪う直前までレミの積年の想いに気づけなかった悔い。同じ後悔を繰り返さない為にも、ありとあらゆる声に耳を傾けることにした。耳に入るだけの周囲の声、視界に入るだけの人の表情、仕草。人に限らず風から、自然からの声にまで耳を傾け、感じる。

 しかし……目の前の彼女からは何も感じとることができない。怒りも悲しみも情愛も、何も。その声からも表情からも仕草からも何も感じとることができなかった。だから……つい身構えてしまった。あれだけお話をしたいとか自分で言っていた癖に。

「まだ構えなくて結構よ。今のところは」

 そう言われ、エリンはハッとして無意識に纏っていた風の衣を解いた。

「ごめんなさい。私は……あなたの考えていることが、思いがまったく分からない、感じられないのです」

 素直に、正直に答えた。相手の本心が分からないなら、まずは正直に自分の心の内を明かす。まだ複雑なコミュニケーションをとることができないエリンには、今はそうすることしかできなかった。

「そう言って真っ直ぐ答えられるところ……私は好きよ」

 カナミは相も変わらず無表情のままそう答える。――これは褒めてくれているのだろうか。彼女の言葉と心の繋がりが分からない。言葉を額面通り受け取っていいのか分からない。

「まずは私の心の内を勝手に想像するのはおやめなさい。私の表情が石のようなのは事実なのだから」

「……はい」

 ――私はまるで分からないのに、こっちのことはお見通しってなんかずるくないですか。

「では、お話とやらを始めましょうか」

 彼女はまず座るように手で促した。エリンは何となく、縁側の四、五人分の距離を開けたところに庭を向いてちょこんと座り、彼の封じられている祠を眺めながら「お話」を始めた。まずは先にカナミのほうから訊ねた。

「まず貴女は……これに勝ったらどうしたいの? 何の為に勝ちたいの?」

「――あの人が、アルトが好きだからです」

 真っ直ぐに、ひたすら真っ直ぐに心の内を晒す。この儀式とやらの最中、短い間に色々なことがあった。大切な人を喪った。たくさんの人が傷ついた、傷つけた。それでも私がここまで辿り着くことができたのは、根底にこの揺るぎない想いがあったから。

「そう。私もそうなのよ」

 ――え?

「あら、意外そうね」

 ここまでやって来た以上、何もおかしなことではない。そう分かっていても、エリンにはどうもしっくりこなかった。

「そうね、石面いしづらとまで言われる私がそんなことを言っても、しっくりこないでしょうね」

 エリンのほうに顔を向け、視線を向けて彼女は話す。やはりその目も表情も、声からも何も感じられない。決して話す声に抑揚がないわけでもない。――なのに、何故かその声色、語調から何も気持ちが伝播してこないのだ。

「ごめんなさい……確かに頭のなかで上手く繋がらないのです」

「では……少し私と彼のことをお話しましょう」

 彼女は彼の居る凍てついた祠の方に視線を戻し、語り始めた。彼女と彼の物語を。

「私は血縁上彼のはとこにあたります。母同士が従姉妹というわけですね。私の家の話になりますが、私の実母は第二夫人です。正妻である第一夫人がなかなか子を授からなかったために早めにめとられた第二夫人である母は、早々に私をはらみました。それが第一夫人には面白くなかったようです。正妻としての立場とプライドからでしょうね。

 おかげで母と私は私が物心ついた頃には既に正妻によってないがしろにされ、地味で浅はかな嫌がらせを受けていました。家内の立場で言えば、正妻が最も強いことはこの里ではよくあること。いくら私の母が長子を産んでいようが、我が家も例外ではありませんでした。

 ですが、第一夫人は遂に子を授かり、しかもそれは跡継ぎとなる男の子。大喜びで私たち母娘のことなどどうでもよくなったようです。そして嫌がらせの類いは無くなりましたが、代わりに居場所も無くなりました。それまでは長子とその母ということで、一応の居場所はありました。それが最早、居ても居ないような扱いにすり替わったのです。

 家の者が総出で跡継ぎを可愛がったので当然の流れでした。父もまったく私たち母娘を見てくれなくなりました。跡継ぎである私の弟は、あれだけ猫可愛がりされながら、よく真っ当に育ってくれたものです。感心します。

 ――話を戻しますが、正妻の嫌がらせから解放されたものの居場所を失った私たち母娘は、外にそれを求めました。母が小さい頃から仲が良かった、母の従姉妹にあたるアルトの母を頼ったのです。ですが、アル家は仮にもこの里の首長。その家に私と母のような微妙な立場の人間が出入りすることはあまり好ましくありませんでした。

 そこでアルの家が持つ、もう使われていなかったこぢんまりとした小屋を勉学の為と称して日中は使わせてもらうことになりました。――そこで彼と出会ったのです。一応以前から挨拶ぐらいは交わしたことはありましたが、それ以上のことは何もありませんでした。私たち母娘は日中はその小屋で過ごすようになり、私はそこで彼と共に勉学に励んだり、空いた時間に一緒に遊んだりする日々が始まりました。――彼と貴女が出逢ったのもその頃ですね」

 ――あぁ、だからアルトはアルの本居から距離のある、あんな人気ひとけのない花畑なんかに度々やって来ていたんだ……。

「今、私は彼と共に遊んだと言いましたが、私は当時から既に今の石のように動かない面持おももち、そして感情を感じられない声音の持ち主でした。そうなった訳は……まぁ、本筋から外れるので、私の特性と育ちのせいとだけ言っておきましょう。ですが彼は、そんな私とも最初から当たり前のように普通に接し、共に遊んでくれたのです。

 勉学に励むだけなら最低限の、簡単な意思疎通だけで事足ります。しかし、彼は私と一緒に遊んでくれた。――くれたなんて言うと卑屈ですね。二人で楽しく遊び過ごしました。あの場所で二人でもできる遊びは一通りやりつくしたように思います。……さて、ここまで話せば、私がどのような想いで今この場所に居るか、お分かりで頂けましたか」

 ……確かに伝わった。彼女の想いとその深さ、純粋さが。しかし、彼の側にこんな相手がいたなんて知らなかった。――その事に少しだけ嫉妬を覚えた。

 彼女からの呼び出しには、最低限八画は刻印を揃えてくるようにと書かれていた。きっと彼女も八画の刻印を携えているのだろう。お互い譲れない想いを持ち、そして敢えて互角の状況を作る。――きっとそういうことなんだろう。

「あなたの気持ちは、十分に伝わりました。その深さと尊さが。――けれど、私はその気持ちに触れても尚、譲るつもりはありません」

 純粋に、想ったそのままの心の声をうつつの音にする。

「ええ、分かっています」

「あなたはわざわざ八画用意するように私に伝えた。きっとあなたも八画持っている。それなら刻印の争奪戦をしても、最後の一画を残して必要な十五画が揃う。――それはつまり……」

 クスッ

 ――あれ? 今、笑った?

 相変わらず微動だにしていないはずの彼女の表情が一瞬、クスリと笑んだ気がした。

「ここのところ『お話』とやらにやたらと拘っていた様子の貴女が、今日は――いえ、この場で私を相手にすると、とても好戦的になるのですね」

 ……確かにそうだ。最初は彼女のことがまったく分からず、つい身構えてしまった。しかし、彼女の想いを知った今は違う。そのはずなのに、あれ? どうしたの、私。

「やはり本物の恋敵が相手ともなれば、落ち着いてはいられませんか」

 ……あぁ、そっか。きっとそうなんだろう、その通りなんだろう。これまでの「敵」や他の皆はそれぞれが違う想いを抱いてそれぞれの目的を持っていて、その対象はアルトの妻の座ではなかった。そうだ、彼女が初めての、本物の恋敵なんだ。そして、絶対に譲るわけにはいかない、負けたくない相手なんだ。彼女が正真正銘、本物だからこそ負けたくない。

「ですが私は実のところ、今、私たちの手で決着をつけるつもりはありません。――おば様、お願いいたします」

 はい、と返事がして、引き戸が開いて夫人が再び姿を見せた。

「この儀式をもたらしたあのまじない師――彼は儀式を執り行うに際して、細かくそのルールなどを記していきました。ほとんどの重要事項は伝えたはずですが、原文をそのまま伝えきれていたわけではありません。その原文を改めて読み解いていったところ……複数人が同時に手を重ねて刻印の力を送ることでも彼を解放できる、と。そう解釈できる記述がありました。――ただし条件として、重ねる全員の心が一致しなければならない」

 ――‼ つまり、つまり彼女は……。

「加えて、改めて確認いたします。彼を解放するための刻印――それは十五画より多くても問題ない。それでよろしいですね?」

「はい、それに関してははっきりと明記されています」

 私と彼女はそれぞれ八画ずつ持っている。あわせて十六画。そういうことなのね。

 ――負けた。

 本当に彼のことを想っていたのはきっと彼女だ。そうだよね、それが一番だよね。

「私が何をしようとしているか、理解しましたか?」

 コクンと頷いて返事をした。……そしてつい、視線を下げてしまった。

「もし貴女が今、自分を恥じいているのなら、それは間違いです。こんな手段があることに偶然気づいたか、気づかなかったか、それだけの違いです」

 ……まるで勝てないよ、こんな人に。人としては「今は」何も敵わない。

「さて、どうします? 刻印を譲る、もしくは奪いあっても、残り一画を残して十五画を揃えることができます。――ただし、私に譲る気はないので、貴女が一人で彼を解放したいのなら力尽くで私から奪う必要があります。一画余裕があるので、血を見るほどのことをやり合う必要はありません。逆に、貴女が無条件で私に七画譲ると言うのならば、私は遠慮なく受け取ります。――そして最後のもう一つの選択肢。私と貴女の手を重ね、二人で彼を解放する。――さぁ、どれを選びますか」

 そんなの決まっている。

「私は……今はあなたにはまるで勝てる気がしません。すべてを見透かされているだけではなく、やはり本当に彼のことを想っているのはあなただと思います」

 ――でも。

 一呼吸間をおいて、力強く自分の意志を言葉に込める。

「私はそれでも彼を諦めません。諦めたくありません。だから――」

 左手を前に差し出して、私は私の答えを告げた。

「私と一緒にお願いします。そして……彼が目覚めたら、彼自身に選んでもらいます」

 なんのことはない。力尽くで奪い合った刻印で彼を解放したとしても、彼は喜ばないだろう。そう思っていた。それもあって、寝込みのリゼから刻印を奪うことはしなかった。カルナとも挑まれたから応えはしたものの、元来その気はなかった。――けれど、彼女はそれより上にいた。

 そもそも彼を解放した者が彼の妻に、正妻になるというその時点で、彼自身に選択権がないのだ。だからこそ、せめてもの選択の余地として、……そして何よりひとりの女として彼自身に選んでもらいたくて。それでこの手段に思い至ったのだろう。

 確かにこんな手があることは聞いていなかったけれど、私にはこんな発想はそもそもできなかった。彼のことを真に想っていたからこそ、この発想に至り、彼女は夫人を尋ねて詳しく確認したのだろう。そして行動に移し――おそらく最後には私が来ると信じて、待っていた。きっと私を恋敵と認識していてくれたんだ。

 カナミはエリンの差し出した左手をとり、ただ短く答えた。「はい」――と。

 その瞬間、気のせいではなく、彼女は――カナミは本当の彼女の顔で微笑んだ。

(……そんな顔で笑うんだ。やっぱりまだまだ勝てないなぁ……ずるいよ……)

「では、私は一度屋敷の中に戻って待っております。どうか重ね重ね……息子をよろしくお願い致します」

「「はい」」

 夫人の言葉に、今度は二人同時に答えた。そして夫人――アルトの母は再び戸を閉め、屋敷の中へと下がっていった。

「さぁ、いきましょうか」

 氷漬けで封じられているだけあって、やはりこの巨大な岩をくり抜いた祠の中は寒かった。そしてその奥に……肘掛ひじかけと背凭せもたれのついた椅子に座った彼――アル家嫡男にして私たちの想い人、アルトは座ったまま目を閉じ、ひとり静かに止まっていた。最後に目にした時とたがわぬままの姿で。その右手の甲には、確かに私たちとは違う紋様の刻印が描かれていた。そういえば昔から彼は手の甲を隠していた。どうしてなのか訊いてみたこともあったけれど、はぐらかされた気がする。

「では、いきますよ」

「――はい」

 刻印は利き手の反対の手に宿る。エリンは右利きなので左手に。カナミは左利きなので右手に。だからエリンは左手を、カナミは右手を差し出して重ねた。

「なんだかこの絵面の為に利き腕が決められたような気がしますね。――すべて運命だったかのように」

 本当になんだか都合のいい話だ。――でも。

「――そんなことは関係ない、ですよね」

「ええ」

 二人は微笑みあった。運命なんて知ったことか。今ここに一人の男を想う二人の女がいる。ただ、それだけ。

「――あぁ、忘れていました」

 あとは彼の手に二人の手を重ねるだけという間際で、カナミが動きを止めた。

「言い忘れていました。私は心が広いので、もし彼が私を選んでも……第二夫人ぐらいの位置なら許しますよ? 私はそんな小さな女じゃありませんので」

 そう言って、彼女は悪戯っ子のようにニヤリと笑んだ。石面と呼ばれた彼女はもうここにはいない。

「わ、私だって、もし私が選ばれても、彼が望めばあなたを第二夫人に迎えることぐらいなんでもないですよ! 私はとても寛大だから」

 エリンも負けじと言い返してニコリと笑み返す。それから二人してフフッと笑いを零した。

「さぁ」

「いきましょう」

 二人は重ねたその手を彼の手の甲の紋様の上に重ね、力を――それぞれの純粋な想いを彼に贈った。

以上でこの物語は完結となります。ご愛読ありがとうございました。


……え、投げっぱなしの伏線? 機会があればまた……。

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