「るぅ……」
エリンは縁側でひとり、微風に撫でられながら、無意識に呟いた。
二人だけが知っているアルトの愛称。彼とあの花畑で偶然出逢ったその日、そして二人きりで遊んだたくさんの記憶が、光景が、声が、想い出が彼女の頭の中をぐるぐると巡っていた。
一昨日、家に帰ってきてからエリンはずっと心ここに在らずといった様子で過ごしていた。普段からぼけっとしていて、何を考えているのか分からない娘ではあったが、輪をかけて酷く、家族や他の家人が声を掛けても常に生返事といった有様だった。
――あの日、氷像と化したアルトを見て、彼女は何も反応できなかった。目の前の光景を現実と認めることができなかった。
だが、それは確かに現実だった。その証として、今、彼女の左手の甲には刻印とやらがはっきりと刻まれている。一見、顔料で黒っぽい線を描いただけのように見えるが、いくら擦っても洗っても掠れることすらない。それは皮膚そのものが変色しているような、文字通り刻まれた印のようだった。
(私は……どうすれば……)
「エリン」
聞き慣れた優しくよく通る声と共に頭をぽんと軽く叩かれ、エリンは現実に返った。レミ姉さんだった。相も変わらず透けるような長い金髪が美しく煌めくこのお姉さんは、昨日も様子を見に来てくれていた。
「大丈夫?」
「……わかんない」
何が大丈夫で何が大丈夫でないかも分からず、そうとしか答えられなかった。
――私はどうしたい? 私は何をしたらいい? ――何もわからない。
「やっぱり一度に色々と有り過ぎて……自分の中で上手く纏まらないのかな?」
こくりと頷いて肯定した。いつものように、当たり前のようにその心の内は彼女に見透かされる。下手をすると本人以上に、彼女はエリンのことを分かってくれる。
「でもさ、一つだけはっきりしていることがあるんじゃない?」
彼女はいっそう優しく、エリンの頭を撫でながら続けた。
「エリンはアルト君のことが好き。この気持ちだけは何があっても変わらない。そうでしょう?」
――うん。私はアルトのことが好き。きっと初めて出逢ったあの日から。
あれは一目惚れって言っていいのかな。何か……今までに出会った誰よりも波長? のようなものがぴったりで、やっと見つけた幸せのような感覚に包まれ、高揚した。それがたぶん恋という感情だということを後に知った。
「――うん、私は彼が好き」
自分自身に確認するように声に出して、言葉にする。
「お嫁さんになりたい?」
「なりたい」
レミの問いに即答した。――そうだ、それだけには迷いはないんだ。
以前、彼の婚姻の話を聞いたときは確かにショックではあった。でも、結婚できるのは別に男一人に女一人だけじゃない。だから、たとえ正妻に選ばれなくとも、側妻だとしても彼のお嫁さんになれてずっと彼と一緒にいられるならそれでいい。そう思ってきた。――そして今もそれは変わらないんだ。
「じゃあ、その為に必要なことは?」
この儀式とやらに自分が勝てば、彼のお嫁さんになれる。正妻に拘る必要がなくとも、そもそも誰かが儀式を終わらせない限り、彼は永遠に氷像のままだ。あの微笑みも、優しい声も、すべて失われたままだ。なら、とにもかくにもまず彼を解放するために、誰かが十四画の刻印とやらを集めなければいけない。――そういうこと? でも、やっぱり他人がそれを成してしまうのは……なんだか嫌だ。
「とりあえず、そこまでの手順とか方法とかはすっとばして、最終的にエリンがどうしたいか、それは分かったかな?」
今度は力強く、迷いなく頷いた。……私は彼を解放したい。できるなら私自身の手で。そして結ばれたい。――その為なら、よくわからない儀式だろうがやってやる。
「じゃあ、今はそれでいいじゃない。……確かに事態が突拍子もなくて現実味もなくて、今すぐどうしたらいいのかは私にも分からない。だけど、君が最終的にどうしたいか、どうなりたいか。それだけは迷わないよう、しっかりと覚えていれば今は十分だよ」
そう言ってレミ姉さんはまた頭をぽんぽんと優しく叩いた。
――本当にありがとう、レミ姉さん。姉さんのことも大好きだよ。
この先、どこに向かって風が吹くのかなんて、まだ何も分からない。
――でも、決して。私は決して彼のことを諦めない
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