●7話より毎話、キャラデザイン担当の絵師さんの挿絵が付きます●
なろう・アルファ先行公開となっております。こちらはゆっくり追加です。
「ユークレース伯爵夫妻が亡くなったらしい。」
この報せを聞いたのは、他愛もない雑談の最中であった。
グラスタリア国の王都サンマルロから馬車で三日ほどかかるこの屋敷には、二週間に一度、赤毛の行商人が街の流行や噂話を依頼した商品と一緒に運んで来る。
その日もいつものように、この屋敷の主人の弟子であるエステルと共に玄関ホールに積荷を広げ、依頼された商品の確認をしていた。
「エステルちゃんはさぁ、元々王都に居たんだろう?それじゃあ、ユークレース家のご子息は見たことある?」
その言葉にミルクティー色の長い髪を持つ少女が、麻袋を数える手をピタリと止めた。
「…知ってはいます。」
じっと見つめるピンク色の珍しい瞳は、まるで嘘はついてはいない、と主張しているようであった。
もっと言うならば、エステルは彼がどんな容姿で、どんな性格で、どんな相手と婚約を結んでいたかまで、詳しく知っている。
髪の色は淡い金髪、瞳の色は空と海を混ぜたような不思議な色をしていて、中性的な顔立ちは美しく、性格は優しく真面目、更には勤勉で博識。
婚約者は三歳年下の子爵令嬢で、それは大層溺愛していたことまで知っている。
けれど、目の前の行商人にそこまで教える義理はエステルには無い。
「…そうかぁ、うちも伯爵家と取引出来たらいいんだけどなぁ…。なかなかお近づきになれなくて。」
行商人はすっかり積荷の確認の手を止め、胡坐をかいて喋り始めた。
(彼は警戒心が強いし、一度結んだ縁はなかなか切らないタイプだから、契約に持込むのは大変でしょうね。)
決して口には出さないが、そんなことを考えながら、エステルは麻袋の数を数え終えると、次の積荷の箱に手を伸ばした。
「不謹慎ではあるけれど、代替わりした時はやっぱりチャンスなんだ。けど、これほどに会え無さそうだとねぇ…。せめて、社交界くらいは顔を出してくれたら、紹介して貰えそうなのになぁ…。困ったなぁ…。」
ユークレース家と取引したい商人は沢山いる。
何せ王都の貴族の中でも、五本の指に入るほど裕福な家なのだ。
けれど美貌の貴公子である彼に会うのは、社交界へと参加したとしても至難の業である。
それは彼が『引き篭もり令息』として腫物扱いされているからだ。
そして此度の件で遂に彼は『引き篭もり令息』から『引き篭もり伯爵』へと不名誉な進化を遂げた。
彼が引き篭もりとなったそもそもの原因は、最愛の婚約者である『エステル・ローズベリル子爵令嬢』と死に別れたからだと噂されている。
元々アルベルトには親が決めた婚約者がいたにもかかわらず、一二歳の祝いの席でその相手とは婚約を解消し、本人たっての希望で子爵令嬢であるエステルが新たな婚約者となった。
初めこそ妹を可愛がるような接し方だったが、やがて年頃になるとアルベルトはエステルを一人の女性として愛し、いつも仲睦まじく寄り添うように過ごしていた。
けれどそんな幸せな日々は、僅か四年であっさりと終わりを告げたのである。
「そういえば、ユークレース伯爵の元婚約者の名前って、エステルちゃんと一緒?」
その瞬間、不自然な沈黙が訪れた。
目の前の男がニコニコと人好きのする表情で、エステルの返事を待っていた。
「…そ、そんな名前だったかもしれません…。」
嘘はついてはいないが、そのまま見つめ合うのには気まずく、直ぐにそのピンク色の瞳を手元へと動かした。
(私の家名は一度も話していないはず…。)
過去にうっかり話していないか、必死に記憶を辿るがそんな記憶はない。
「っていうか、何で亡くなったんだっけ?事故??」
「…さぁ。よく知りません。」
そう話しながらエステルは最後の商品の確認を終えた。
実は件の令嬢は、ある雪の日に襲撃に遭い、魔女の末裔として処刑されたのである。
そしてその殺されたはずの人間が、今この場にいるエステル本人である。
遺体は酷い有様で、アルベルトは遺体の確認のためにその現場に呼ばれたのだが、その結果、心を病み屋敷に塞ぎ込むようになってしまったという。
貴族にとって社交界は人脈を広げる場であり、職場でもあるが、心を病んでしまった以上、伯爵夫妻は彼を無理に外に出すようなことはしなかった。
更に一年前からは、王宮への出仕も寄宿学校に通う弟に任せ、本人は自宅で書類仕事のみという特別待遇を受けている。
ここまでくると社交界からも、王からも見放されるのが普通であろうが、誰も彼を王都から追い出したりしないのは、彼が非常に優秀だからである。
エステルの記憶にいるアルベルトは、伯爵家嫡男として必要な領地経営学や貿易、更には剣術にも日々研鑽を積み、公明正大を地で行く人であった。
けれど、彼は自分に課した厳しさを他の者には求めたりしない寛容な性格でもある。
『人間、得手不得手はあるものだ』と、屋敷でも職場でも優しく人を励ますことが多かった彼は、それはよく慕われた。
幼い頃より人や物事を良く観察し、最適解を見つけ出すその手腕は素晴らしく、次代の当主に誰もが期待していた。
勿論、エステルもそんな彼を心から尊敬していたし、大好きだった。
そして常に抱えきれない程の重圧を『君が居てくれたら、何てことは無い』と笑う彼を、心から支えていきたいとも願っていた。
けれど、今の自分にはそれは叶わない。
(アルト…元気にしてるかな…?)
エステルは思わずジリジリと痛む心臓のあたりをぎゅっと押えた。
「あ。ねぇ、エステルちゃん、これにサイン頂戴?」
その声にハッしたエステルが顔を上げる。
目の前にいた彼が何かを差し出している。
「え!?あ…。」
差し出されたものが最後に確認すべき重要なリストだということに、ほんの少しの時間を要してしまった。
「ん?どうかした?」
小首を傾げる行商人に、何でもないと首を横に振って見せ、リストを受け取る。
「おまけに今、伯爵邸には一人も使用人がいないみたいなんだよ。どうやら高額な退職金か、領地で働くかの二択で選ばせて、最後まで残るって粘った執事も領地へ送ったって。」
サインをしようとポケットから万年筆を取り出したのだが、つい手元が滑り床へと転げ落ちた。
「………。」
コロコロと足元を転がる万年筆をどうしたら良いのかわからず、エステルはただその軌跡を目で追った。
その様子をぱちぱちと瞬きをしながら行商人は見ていた。
「………大丈夫??…何か冷や汗かいてるけど…風邪でもひいた?」
眉間に皺を寄せた行商人が、代わりに万年筆を拾い上げ、エステルの顔を覗き込んだ。
「…えと…申し訳ございません、ありがとうございます。」
礼を告げるエステルの声は掠れていたが、行商人の男はそれ以上何も言わなかった。
約二週間分の食料や日用品が書かれたリストをパラパラと捲る。
最終確認のために目を通しているはずなのだが、どの商品名も目に映るだけで脳内には一文字たりとも入ってこない。
それでも平静を装ってリストの下部にある空欄へ向けて、握り直した万年筆を今度こそしっかりと走らせた。
家名である『ローズベリル』は書かなかった。
行商人はその様子を気易い笑顔を向けながら、黙って見ていた。
エステルはその視線に思わず眉根を寄せ口を開いたが、目の前の男は人のいい笑顔をしていてもこの屋敷の主人が長年取引している商人だ、食え無い奴に違いないと考え直し、スッと口を引き結んだ。
「…はい、次もよろしくお願いしますね。今日は寒くなりそうですし、…帰り道急いだ方がいいですよ。」
使用人としては合格ラインであろう、朗らかな笑顔を作り、すぐに立ち去るように告げる。
エステルの言葉に一瞬クッと笑いを漏らした行商人だったが、いそいそと『君のご主人に宜しく伝えておいてね』と無邪気な笑顔を覗かせ、来た時よりも随分と中身が軽くなった鞄を背負い、屋敷から去っていった。
彼がどういうつもりでその話を持ってきたのかは分からない。
玄関ホールで立ち尽くしたまま、彼が出て行った扉を見つめていた。
(私のこと、ローズベリルの娘だと知っていた?)
けれどそんなことを聞ける訳が無い。だって、今の自分は死んだはずの人間だ。
アルベルトの現状を事細かく聞き出したい気持ちと、今の自分にはその資格さえ無い歯がゆさで、思わず唇を噛みしめた。
(穏やかに過ごしていてくれたら、それでいいって思っていたのに。なのに、一人で過ごしているなんて…寂しくはないのかしら…。)
玄関の扉の隣にある窓から白いものがフラフラと落ちていく様子が見えた。
これから一番厳しい寒さがやってくる。
あと十日もすれば、エステル・ローズベリルという人間の命日だ。
そして自分自身が魔女であると知った日でもある。
あの日も雪が降っていた。
突然『友人の元へ遊びに行こう』と父に誘われて飛び乗った馬車は、王都から出ると新雪の上に真っ直ぐな線を引いていった。
お茶の時間になり、屋敷を出るときにメイドから渡されたバスケットを開く。中にはまだ温かさの残る紅茶が入ったポットと、エステルの好物であるフロランタンとカヌレが入っていた。
菓子を頬張ると口内に広がる甘さと香ばしい匂いに思わず笑みが零れ、父も釣られるように笑う。
いつもと変わらない外出の風景。
いつもと変わっていたのは父が少し寂しそうな顔をしていたことだけだ。
それから間もなくして強烈な眠気に襲われたエステルは、意識が遠のいていく最中、父が何かを告げたのを最後に、無意識の海へと落ちていった。
次に目覚めた時、エステルは既にこの屋敷の一室で横になっていた。
肌触りのよいリネンに包まれたベッドから身体を起こすと、まず目に入ってきたのは艶やかなマホガニー材を使用したインテリア、そして窓から覗く外の景色と同じように白く美しい男だった。
磁器を磨き上げたような滑らかな肌、ダイヤモンドを砕いたような輝きの長い銀髪をうなじのあたりでゆったりと結び、切れ長の目には青みがかった灰色の瞳が嵌め込まれ、髪と同色の睫毛が縁どっていた。
雪の精か、はたまた天の使いか。
男のあまりの美しさに見蕩れていると、色味の薄い唇がゆっくりと開いた。
「今日から君は私の弟子だ。」
自分の置かれている状況が理解できずにいたエステルの耳に届いた言葉は、自己紹介でも無ければ、挨拶でもなかった。
「君の父は死んだ。友人の最後の願いだからな、魔女の末裔である君は、弟子としてこの私が保護しよう。」
(――今、何て?)
その言葉は声にならなかった。頭を強く殴られたような衝撃で身体が硬直していたからだ。
瞬きすら止まっているのに、頬には生暖かいものが流れる感触を覚えた。
それはとどまることを知らず、無意識のうちに力一杯シーツを握りしめていたエステルの手の甲を濡らす。
信じたくない言葉を吐かれた筈なのに、身体が事実だと認識している。
あの時父は私に何と言ったのだろう?
記憶の海の中から必死にその声を探す。
けれど、あの時の優しい声を思い出すことは出来なかった。
エステルはあの日感じた絶望と孤独を忘れてはいない。
何も知らず、何もわからず、何も出来ずにただ今日も生きている。
ーあれから四年。
エステルはこの屋敷から出ることは一度たりともなかった。
「…アルト」
愛しい人の名を呟くと、何処かで彼がエステルの名を呼んでくれる気がした。
屋敷の窓から見える季節は、どれもこれも彼との思い出でいっぱいだった。
(雪が積もったら、また雪うさぎでも作ろうかな…?)
懐かしい記憶を思い出しほんの少し表情を和ませた。けれど、その表情はすぐに寂しさを帯びる。
(彼の元へ行きたい。)
今、ユークレース邸には使用人が誰一人としていない。
それならば、私が一人くらい行ったところで分かりはしないのではないか?
そんな淡い期待が胸に湧き上がるたびに、玄関の扉へそっと手を伸ばす。
けれど、そのドアノブに触れた途端、外の寒さが指先に伝わったようにピタリと止まる。
そして自嘲する。
(ここから出るのを一番怖がっているのは、間違いなくエステル自身だ。)
そして、この日もエステルは屋敷を出なかった。
灰色の空から落ちる雪はやがて量を増し、この国にしては珍しいほどに深く積もったのであった。
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