RINNE -友だち削除-

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amenomikana

第一話 2013年10月7日、月曜日

公開日時: 2020年9月1日(火) 08:00
文字数:17,764

ぼくは携帯電話を部屋の片隅に放置したままいつもどおりのひきこもり生活を続けた。

携帯電話を欲しいと思ったことがなかったわけじゃなかった。

うちの両親は、よその家の親と違って、こどもに携帯電話を与えてくれるような親ではなかった。

死んだ父さんは家族を顧みず研究に没頭しているような人だったから、こどもに携帯電話をなんて考えたこともなかったろう。

母さんは母さんで、携帯電話が欲しかったら自分で汗水流して働いて得たお金で買いなさい、毎月の料金も支払いなさい、という、今時珍しい教育方針の人だった。

姉ちゃんが高校生になってバイトを始めたのは携帯電話がほしかったからだった。

ぼくも携帯電話が欲しければバイトをしなくちゃいけない。

けれど、学校にもろくに行けないようなぼくみたいな人間が働くことなんて到底できそうになかった。

だから携帯電話を持つことをぼくは諦めていたし、第一携帯電話で連絡を取り合う相手が家族以外にはひとりもぼくにはいなかった。

ぼくみたいな人間が携帯電話を持ったら、きっとガチャゲーやFREEなどのソーシャルゲームに夢中になって、月に何万も課金することが目に見えていた。

「ぼくの名義で契約したものだけど、気にせず好きなだけ使っていい」

姉ちゃんの彼氏はそう言っていた。

頭の良さそうなあの男のことだ。

ぼくが携帯電話を持ったらソーシャルゲームにのめり込むだろうことくらいは予想しているはずだ。

だから、好きなだけ使っていいっていうことは、ぼくがあの男名義の携帯電話でソーシャルゲームにいくら課金しても構わないってことだろう。

けれど、ぼくはあの男の世話にだけはなりたくなかった。

だから、携帯電話は部屋の片隅に放置したままだった。

その代わり、ぼくは弟が学校に行っている間、弟の携帯ゲーム機で遊んでいた。

ひきこもりっていうのは暇で、毎日することに困る。

ぼくの部屋にはテレビもパソコンもなく、あるのは読み飽きた漫画くらいだった。

だから弟から、最近買ってもらったばかりのモケモンの最新作のレベル上げを頼まれたとき、ぼくは久しぶりにやることができて嬉しかった。

ゲームのレベル上げなんて、普通兄貴が弟にやらせるものだと思うけれど、うちは違う。

何しろ弟は馬鹿だけれど学校にちゃんと行っていて、ぼくはその学校にさえ行っていないのだ。


あの男がぼくを訪ねてきたのは、携帯電話を渡され、アリスと名乗る奇妙な女の子が現れた三日後のことだった。

姉ちゃんや母さんや弟と楽しく談笑する声がリビングから聞こえていた。

ちょっとトイレへ、と言ってあの男が席を立った。

足音はトイレには向かず、ぼくの部屋に向かってきた。

「アリスとは仲良くなれたかい?」

ドア越しにぼくにそう言って、ぼくがいつもどおり無言のままでいると、

「携帯電話からいきなり女の子が出てきたから慌てて電源を切ったってところかな」

当たらずとも遠からずの言葉を続けた。

この男はそういうものだと知って、ぼくにあの携帯電話を渡したのだ。

「君に渡したのは次世代の携帯電話だ。次世代と言っても何世代の先のものなんだけど。だから携帯会社の名前も、製造元も、機種名もどこにも書かれてなかったろう? ある研究所が極秘に開発を進めているものなんだ。

人間は脳を10%ほどしか使ってないとよく言うけれど、携帯電話の機能にしたって100%使いこなせている人間はいない。特にほとんどパソコンに近い性能を持ったスマートフォンの普及で、人間は携帯電話すら10%ほどしか使いこなせなくなった。ほとんどの人間は、90%ほどの機能の使い方がわからないまま携帯電話を使っている。

そこで生み出されたのが、彼女アリスだよ。

スマートフォンのことをアンドロイド携帯とも言うけれど、実際に使用者にしか見えないホログラムタイプのアンドロイドを搭載しようなんて馬鹿なことを考えた人間がいてね、高度な人工知能を与えられた彼女は、使用者に携帯電話の使い方をレクチャーするコンシェルジュの役割が与えられている」

「あの子は自分のことをメイドだって言ってたぜ」

ぼくは初めて男に言葉を返した。

「へぇ、アリスと話したのか?」

「自分が携帯電話から出てきたことを証明するから、一度携帯電話の電源を切って、自分の姿が消えたのを確認してからもう一度電源を入れ直してくれって言われた」

「そして、それ以来電源を入れてないってわけか」

ふむ、困ったな、と男はさして困ったそぶりを感じさせない口調で言った。

「どうしてこんなものをぼくに? あんたは一体何者なんだ?」

ぼくは問う。

「どうして君にその携帯電話を渡したかという理由はいくつかあるのだけれど、ぼくは君のお姉さんのバイト先で働くフリーターとしての顔の他に、さっき言ったある研究所の人間でもあるんだ。そいつは試作品で、実用化されるのは十年後か二十年後か、とにかくだいぶ先の話なんだけど、それまでにできるだけたくさんのデータを取りたいと研究所は考えている。まっとうに社会に生きる人間にこんなものを渡したら大騒ぎになるだろう? だから不登校でひきこもりの君にモニターになってもらおうと思ったんだ」

男の話を聞いていて、ぼくはいつもながら不快な気持ちになった。

「ぼくが世間から誰にも相手にされていないからそのモニターに選ばれたと言ってるわけ?」

男は少し黙ると、

「それは否定しない。君はまさにモニターにうってつけの存在だった」

と言った。

「けれど、それだけが理由じゃない。君のお姉さんはいつも君のことを気にかけてた。友だちも恋人もいなくて、もう丸三年その部屋に引きこもっている君をね。高校をすぐに不登校になった後、お義母様が君を精神科に連れていったときは、何の異常もないと診断されたそうだけれど、もう何年かひきこもりを続ければ君は確実にうつ病か適応障害と言った精神病にかかるだろう。君はぼくにとって、大切な恋人の弟だ。ぼくも君を心配している。だからぼくは君に家族以外の話し相手を作ってあげたかったんだ。それがアリスだ」

「余計なお世話だ」

ぼくは男の言葉を切り捨てた。

「まぁそう言わず、もう一度携帯電話の電源を入れてくれないか。アリスは君にしか見えないホログラムだけれど、君は彼女に触れることも、どんな欲望も叶えることができるようになっている。それは全部ヴァーチャルな感覚だけどね。脳なんて所詮電気信号で様々なことを知覚しているに過ぎない。リアルかヴァーチャルかは、脳自体には関係がないんだ。君が望むなら、アリスと性交渉をすることも可能だ」

「生憎ぼくは発育が遅れていてね、身長も体重も平均以下だし、声変わりだってまだだし、まだマスターベーションどころか精通もしていない」

「それは残念。まぁとにかくもう一度携帯電話の電源を入れて、アリスを召喚してやってくれ。十年二十年先の携帯電話には今とは比べ物にならないほど様々な機能が搭載されている。君はそれを扱えるんだ。何、最初は使い方がわからなかったとしても、アリスが全部レクチャーしてくれる。全部の機能を使いこなせるようになるまでそう時間はかからないはずだよ」

「嫌だと言ったら?」

「その次世代携帯電話の存在はこの国のトップシークレットだ。君がモニターの資格を返上するというのであれば、その存在を知ってしまった君をぼくは消さなくていけなくなる。さっきも言ったけれど、君はぼくの恋人の大切な弟だ。できればそんな手荒な真似はしたくない」

男の言葉が本気だということはドア越しにもわかった。その気になれば本当にぼくを殺すつもりなんだろう。

「ひとつ聞いてもいいか?」

「なんだい?」

「姉ちゃんのこと、本当に好きなのか?」

「もちろん。家族思いで何事にもまじめで、頭がいい。そして何よりぼくの超どストライクの顔をしてるからね」

「姉ちゃんのこと大切にしてくれるって約束してくれるか?」

「今でも十二分に大切にしているつもりなんだけど」

「今以上にだ」

「わかった。約束しよう。だから君もアリスと仲良くしてやってくれ」

そう言うと、男はぼくの部屋から去った。

男の足跡が聞こえなくなると、ぼくは部屋の片隅に置いたままになっていた赤い箱から、赤い携帯電話を取り出した。

ぼくはその電源ボタンを入れた。


「ひどいじゃないですか! 三日も電源を消したままにするなんて!」

携帯電話から現れた草詰アリスは開口一番にそう言った。

あの男はぼくにしか見えないホログラムのアンドロイドだと言っていたけれど、見た目は完全に人にしか見えない。

ぼくは怒る彼女の体をペタペタと触ってみた。

「ちょっと何するんですか! どこ触って……あぁん」

なんか今喘ぎ声みたいな声が聞こえたけれど、ぼくは胸とかお尻とかは断じて触ったりしていない。

触ってみてわかったのだけれど、温かい。

肌は人の肌とまるで変わらない手触りだし、確かに人のぬくもりがあった。

今度は彼女のほっぺをつねってみることにした。

「痛いです! やめてください!」

どうやら痛覚もあるらしい。

手を放すとぼくにつねられた場所が少し赤くなっていた。

「お前、本当にアンドロイドなの?」

ぼくが訊ねると、

「わたしの体は、水35?、炭素20㎏、アンモニア4?、石灰1.5㎏、リン800g、塩分250g、硝石100g、イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素から出来ています。人間ひとり分の材料です。遺伝子情報も人間と99.89%同じです」

という答えが返ってきた。

「じゃあ、そこまで限りなく人間に近いお前が、携帯電話の電源を入れると現れて、電源を消すと消えるのはなんで?」

「わたしの遺伝子情報も、その材料ひとつひとつの原子にいたるまで、わたしのすべてがデータとして携帯電話の中にあるからです」

彼女の言っている意味はよくわからなかったが、それ以上聞いたところでぼくにはたぶん理解できそうもないからやめた。

ぼくは言う。

「あの男……加藤から、お前っていうかこの携帯電話を使いこなせるようになれって言われたんだけど……」

「ええ、もちろん伺っておりますよ! ご主人様は携帯電話をお持ちになられたことは?」

ぼくは首を横に振った。

「母さんや姉ちゃんが使ってるのを見たことがあるくらいかな」

我が家にはこどもに護身用のキッズケータイを持たせる習慣すらなかった。

「とりあえず、基本的な使い方を教えてくれよ」

ぼくはそう言って、小一時間ほどアリスから操作説明を受けた。

何世代も先の携帯電話と言っても、その使い方は現代の携帯電話とそう変わらないようだった。

ただ操作方法が根本的に違っていた。

ガラケーならテンキー、スマホならタッチパネルで操作する代わりに、この携帯電話はアリスに命令をすればいいらしい。

例えば、ぼくが姉ちゃんに電話をかけたい場合、ガラケーやスマホの場合、アドレス帳や発着信履歴を開いて、姉ちゃんの電話番号を探し、電話をかける。それに対してこの携帯電話はアリスに「姉ちゃんに電話」と言えば電話がかかるらしい。

「試しに誰かに電話をかけてみてはいかがですか?」

アリスにそう言われたけれど、ぼくの携帯電話のアドレス帳にはまだ誰の電話番号も入っていなかった。


ぼくへ部屋を出て、

「姉ちゃん、今ちょっといいかな?」

姉ちゃんの部屋のドアをノックした。もうあの男は帰ったらしい。

「どうしたの? めずらしいね、あんたがわたしの部屋に来るなんて」

ドアを開けてくれた姉ちゃんは、ぼくのそばにいるアリスが見えていないようだった。

姉ちゃんはフリフリのピンクのかわいいパジャマを着ていた。

我が姉ながら姉ちゃんはかわいい。

色白で、華奢で、顔は小さくて目は大きい。まつげが長くて、長い黒髪はとても艶があってきれいで、まるで人形のようだった。

三日しかいかなかった高校でも、そのたった三日の間に、3年生にすごくかわいい先輩がいるって姉ちゃんのことがクラスで噂になっていた。ぼくは自分の姉ちゃんだとは言えず、黙って、でも少し得意げにみんなが噂しているのを聞いていた。

「うん、ちょっとね」

と、ぼくは言った。

食事は母さんがいつも部屋に持ってきてくれるから、ぼくはトイレと風呂以外の用事で部屋から出ることは滅多になかったから、姉ちゃんが驚くのも無理はない。

「あの男……姉ちゃんの彼氏にさ、携帯電話をもらったんだけど」

そう言うと、姉ちゃんはびっくりした顔をした。

「え、あの人から聞いてない?」

「聞いてないわよ。いつもらったの? ちゃんとお礼言った?」

「え、あー、うん、言ったかな、たぶん言った」

本当は言ってない。

「ちょっと上がって」

姉ちゃんはぼくの手を引っ張って、部屋に招き入れた。

ぬいぐるみがたくさんある、女の子らしい部屋だった。

姉ちゃんが好きな「バストトップとアンダー」っていうヴィジュアル系バンドのポスターが壁には貼ってあった。姉ちゃんはそのバンドの天才的ギタリスト・シンゴマンの大ファンだ。アリスは興味深そうにそのポスターを眺めていた。

姉ちゃんはベッドに腰掛け、ぼくはカーペットの上の座布団に座った。

「ご主人様、どうしてこの人たち、こんな奇抜な格好をされてるんですか?」

アリスがポスターを眺めながら言った。

「そういう路線のバンドなの。いいから黙って座ってろよ」

お前の格好も相当変だぞ、とはぼくは言わなかった。

「はーい」

アリスは、ぼくの隣にちょこんと座る。

「あんた誰と話してるの? ちょっとこわいんだけど」

姉ちゃんがぼくに言う。本当に姉ちゃんにはアリスが見えていないし、アリスの声も聞こえていないのだ。

アリスのことは話さない方がいいな、とぼくは思った。

「あ、いや、なんでもない。うん、なんでもないよ」

ぼくはなんとかやりすごした。また精神科に連れていかれるのはごめんだ。

「で、学さんから携帯電話をもらったってどういうこと?」

姉ちゃんは腕を組み、少し怒っているようだった。

何度も忘れそうになるけれど、学さんっていうのが姉ちゃんの彼氏のあの男の名前だ。加藤学。

「どういうことって言われても、ぼくにもよくわかんないんだ。三日前にも姉ちゃんの彼氏、うちに来たろ。そのときにあの人ぼくの部屋を訪ねてきて、携帯電話を置いていったんだ。あの人名義のものだけど、ぼくが好きに使っていいって。その代わり、自分とRINNEをしてほしいって言ってたっけ」

「RINNE?」

「姉ちゃんも多分やってるだろ。スマホの無料通話アプリ? ってやつ」

「うん、一応ね。最近はみんなメールよりRINNEで連絡とりあうから。もしかしたら学さん、あんたの話し相手になってくれようとしたのかな」

姉ちゃんはそう言って、「あとでお礼のメールしておかなくちゃ」と言った。

「で、あんたちゃんとRINNEで学さんと話してる?」

ぼくは首を横に振った。

「呆れた」

姉ちゃんはため息をついたけれど、そんなことを言われてもぼくにはどうしようもない。

携帯電話をもらったものの、三日間電源は切りっぱなしだったし、よくよく考えてみれば、ぼくはそのRINNEというやつのことがまだよくわかっていないのだ。

「で、ぼくが姉ちゃんの部屋を訪ねてきた理由なんだけどさ」

「うん」

「RINNEの使い方を教えてもらおうと思って」

姉ちゃんはまたため息をついた。

「別にいいけど。学さんに変なこと言わないようにね」

姉ちゃんはそう言って、ぼくにRINNEの使い方を教えてくれた。

本当は姉ちゃんに聞かなくても、アリスに聞けばなんでも教えてくれただろうけれど。


RINNEというのは、スマートフォン向けのインターネット電話やチャットなどのリアルタイムのコミュニケーションを行うためのインスタントメッセンジャーであるらしい。

複数人で会話をするグループチャットというものもあるらしいけれど、基本的にコミュケーションを行う相手はひとりずつで「友だち」に限られる。

友だちを作るには相手の携帯電話番号かRINNE IDが必要らしい。

携帯電話のアドレス帳に登録されている相手は自動的に友だちになるようになっていて、ぼくは姉ちゃんから聞いた携帯番号をアリスに耳打ちしてアドレス帳に登録させた。すると、RINNEの友だちに姉ちゃんが表示された。

相手の携帯番号を知らなくても、RINNEユーザーはそれぞれIDを持っているので、IDを教えてもらい検索し友だちに追加することで友だちになれる。

ぼくは姉ちゃんからあの男のIDを教えてもらった。またアリスに耳打ちして言われた通り検索してみると簡単に友だちに追加できた。

ついでに母さんの電話番号も教えてもらった。

「ありがと、姉ちゃん」

ぼくはそう言って立ち上がり、肝心なことを忘れていたことに気づいた。

アリスが先ほど試しに誰かに電話をかけてみましょうと言っていたのを思い出したのだ。

そういえば、そのために姉ちゃんの電話番号を聞きにきたんだっけ。

「部屋に帰ったら一度姉ちゃんに電話してもいいかな」

なんだか照れくさかったけれど、本来の目的を果たすためにぼくは姉ちゃんに言う。

「は? なんで? 話があるならここでしていけばいいじゃない」

「いや、なんていうか、生まれてはじめて携帯電話を持ったもんだから、少しでいいから電話してみたいなぁって」

「あんた友達いないもんねぇ。しょうがないな、携帯代、学さんが払うんだから五分だけだよ」

姉ちゃんはそれから、携帯電話ショップに行けば名義変更もできるから、早くバイトでも探して自分名義に契約しなさい、と言った。

姉ちゃんはけっしてぼくに学校に行けとは言わない。

「あ、それからあんたからも学さんにRINNEでお礼ちゃんと言っておきなさいよ」

その代わり、そんな釘を指されてしまったけれど。


部屋に戻ったぼくは早速アリスに姉ちゃんに電話をかけるように言った。

「素敵なお姉さまですね」

アリスが言った。

「すごく美人だし、おっぱい見ましたか? パジャマの上からでもわかる、もう、ぷるんぷるん! あれは絶対ノーブラですよ!」

「見るか馬鹿。姉ちゃんだぞ。早く電話かけてくれよ」

「ちなみにアリスもブラつけてません。パンツも履いてないです」

「聞いてねーよ」

確かに姉ちゃんは美人でおまけに頭がいい。

ぼくは出来損ないのくせに弟のことを小馬鹿にしてるけど、姉ちゃんはぼくみたいな出来損ないを馬鹿にしない。

出来が良すぎる兄貴や姉ちゃんがいると、弟や妹は立場がなくて結構つらいって聞くけれど、ぼくはそんな風に思ったことがない。

弟として姉ちゃんのことを誇りに思っていた。尊敬していたし、姉ちゃんみたいになりたいとも思っていた。思っているだけで実行に移せないのがぼくなのだけれど。

何よりぼくは姉ちゃんのことが大好きだった。初恋もまだのぼくには恋というものがよくわからないのだけれど、姉ちゃんのことは好きだった。世界で唯一ぼくが好きなのが姉ちゃんだ。

ぼくは案外恵まれているのかもしれない。

プルルルルルという呼び出し音が鳴って、すぐに姉ちゃんが電話に出た。

驚いた。

ぼくの目の前に姉ちゃんが現れたからだ。


ぼくの前に現れた姉ちゃんはさっきまで部屋で見てたパジャマ姿で、爪切りで足の爪を切っていた。

等身大サイズで、ベッドに腰掛けているのだろうけれど、ベッドはなくまるで空気椅子でもしているようだった。

ぼくはアリスを見る。アリスはいつものようにニコニコと笑っていた。

「どういうことだ? これ」

ぼくが問うと、

「テレビ電話のようなものです」

と、アリスは言った。

「テレビ電話って、携帯の画面に相手の顔が映るやつだろ? これじゃまるで……」

「目の前に本当にお姉さまがいるみたい、ですか?」

部屋にいるはずの姉ちゃんが、ぼくの部屋にいる。

ぼくはごくりと生唾を飲み込んで、姉ちゃんに手を伸ばした。

けれどアリスと違って、目の前の姉ちゃんには触ることができなかった。

「触れませんよ、そのお姉さまはホログラムですから」

アリスが言った。

「お前もホログラムじゃなかったっけ?」

「アリスは特別製なんです。それにアリスに触われるのはご主人様だけです。この携帯電話は、特殊な技術で空気中の成分──かつて光を伝達するものだと言われていたエーテルと呼ばれるもの──を使って、ご主人様の目の前に電話相手の現在の状況をリアルタイムでホログラム投影することができるんです。詳しく説明すると朝までかかってしまいますが……」

「いや、いい」

「もしもーし、お姉ちゃんですよー」

姉ちゃんがぼくの名前を呼んで、ぼくは我に返る。

目の前で起きていることが到底信じられなくて、電話をかけていたことをすっかり忘れていた。

「あ、ごめん。聞こえてる」

「どう? はじめての携帯電話は」

姉ちゃんに尋ねられ、

「なんていうか、すごいね」

ぼくは言った。そうとしか言い様がなかった。

「お母さんが若い頃はまだ携帯電話とかあんまり普及してなかったんだって。一応あるにはあったんだけど、なんかショルダーバックみたいなのに受話器がついてるようなすごく大きいやつだったらしくて、値段も相当だったらしいよ。科学の進歩っていうのはすごいよねー」

たぶん、姉ちゃんが言う「すごい」と、ぼくが言った「すごい」は意味が違う。

目の前に姉ちゃんがいる。その姉ちゃんはぼくに今見られていることを知らない。

「姉ちゃんさ、その今、もしかして爪切ってる?」

アリスが言うことを疑うわけじゃないけれど、ぼくは念のため確認してみることにした。

「あ、音うるさい?」

「ううん、そうじゃなくて。もしかして爪切ってるかなぁなんて」

「変な子」

ぼくは段々、覗きや盗撮をしているような後ろめたい気持ちになっていた。

「ありがとう、切るね」

「あ、うん、おやすみー」

電話が切れた。

ぼくはため息しか出なかった。




ぼくはベッドに寝転がった。

アリスはちょこちょことぼくのそばにやってきて、顔を覗き込んできた。

「お前、すごいよな」

ぼくはアリスに言った。

アリスはきょとんとした顔をする。

「お前っていうか、この携帯電話」

姉ちゃんが持っていた携帯電話と見た目はほとんど変わらないのに、本当に十年も二十年も先の技術がこいつにはある。

「あんなのアリスの機能のほんのほーんの一部分ですよ?」

アリスは笑っていう。

「お姉さまが持っていた携帯電話、ターンエーユーの一昨年の春モデルですけど、あれだって今でこそ当たり前ですけど十年前からしたらとんでもない技術がいっぱい詰め込まれているんですよ?」

「たとえば?」

「携帯電話をかざすだけで自動販売機やコンビニやスーパーで買い物ができたり、電車やバスに乗れたり……」

「え、今の携帯ってそんなことできるの!?」

ぼくはびっくりして飛び起きた。

「常識だと思いますけど……」

アリスが苦笑して言う。

ぼくはもう三年もこの部屋にひきこもってて、テレビや新聞もあんまり見ないから、世間から取り残されてるんだろうなぁとは思ってたんだけど、まさかそこまで取り残されてるとは思いもよらなかった。

ぼくは護身用のキッズケータイすら持たせてもらえなかったから、携帯電話っていうもののことも実はよくわかってないんだよな。

ゲームは好きだから、最新のゲーム機のことにも詳しいし、携帯電話でできるソーシャルゲームっていうののこともある程度知識はあるんだけれど。特に最近流行ってるっていうパズル&クエストにはすごく興味があった。

「先ほどご主人様はお姉さまに電話をされましたよね?」

ぼくは、ああ、とうなづく。

「1分程度の通話でしたから、通話料は十数円ってところでしょうか。もっともアリスはまだどこの携帯会社の商品でもありませんし、一番近い基地局をハッキングして電話をかけてるので、通話料なんてものは発生しないんですけど」

「お前、何かさりげなくすごいこと言ってない?」

「大したことありませんよ。一応アリスを開発した研究所は国立の機関なので、各携帯会社の重役には話が通ってるはずですから、違法じゃありませんのでご安心ください」

全然大したことあるじゃないかと思ったけれど、ぼくは言うのをやめた。

「で、さっきの電話がどうかしたの?」

アリスを開発した研究所っていうのに少し興味があったけれど、話が長くなりそうなので聞かないでおくことにした。

「はい、携帯電話というくらいですから、電話をかけるのがアリスたちの主な役割なんですけれど、普通に電話をかけたら通話料が発生しますよね」

「ま、そりゃそうだろ。電話なんだから」

ぼくの返答に、アリスはうっしっしと笑う。

「普通に電話をかけたら通話料が発生しますが、加藤学様やお姉さまとのお話しにでてきたRINNEというアプリを使えば、無料で通話ができるんですよ。通話料を気にせず通話がし放題になるんです」

それはまたすごい話だ。

携帯電話会社っていうのは通話料でもうけてるんじゃないんだろうか?

携帯電話でするインターネットも、確かホームページや動画なんかを見たりするとパケット通信料というものがかかると聞いたことがある。でもそれも、パケットし放題みたいなサービスがあって、本当は十万二十万と使ったパケット通信料を月々5千円くらいで済ませられるんだとか。

通話料でもパケット通信料でももうけられないんだったら、携帯会社は一体どうやって儲けをだしているんだろう。

まぁぼくには関係のない話だけれど。

「ご主人様もRINNEをやってみませんか?」

アリスが言った。


「別にいいけど、今ぼくがRINNEで友だちになってるのって、姉ちゃんと姉ちゃんの彼氏だけだろ」

「それからお母様ですね」

ぼくは少し驚いた。RINNEはてっきり若者が使っているものだとばかり思っていたから。そういえば父さんが持っていたのはガラケーだったけれど、母さんが持っているのはスマホだった。姉ちゃんが携帯電話を買いに行ったときに、確か母さんも付き添って行って、そのときスマホだけれどテンキーがついている変わった機種に機種変更していた。

「ご主人様には小学生の弟さんもいらっしゃることですし、ママ友同士でRINNEをしてらっしゃるんじゃないでしょうか」

なるほど。

「では、試しにひとり友だちを作ってみましょう。お友達の携帯電話番号をアドレス帳に登録してみてください」

アリスが言ったけれど、

「いないよそんなの」

ぼくは自嘲気味に言う。

「またまたーご主人様ったら。ひとりくらいいるでしょ?」

ぼくが黙っていると、

「もしかして、本当にいないんですか……?」

アリスは大きな瞳に涙をためた。

「泣くなよお前が。泣きたいのはぼくの方なんだから」

「だってお友だちがいない人生なんて悲しすぎます!」

「そんなこと言われてもなぁ」

そのとき携帯電話がブブブと震えた。

「電話か?」

「いえ、加藤学様からのRINNEチャットメッセージのようです」

アリスに言われて、ぼくは携帯電話に手を伸ばし画面を見た。

初めて見るRINNEの画面。相手の顔のアイコンがあり、漫画の吹き出しの台詞のようにメッセージが表示されている。

そこにはこう書かれていた。


──じゃあ試しにぼくの友だちを友だちにしてみるかい?


「なんでこいつ、さりげにぼくたちの会話に参加してきてるわけ?」

ぼくは驚くというよりも、半ば呆れつつアリスに問う。

「加藤学様もアリスと同じ携帯電話を持っていますから」

それは初耳だった。

「夏目メイ」

とアリスは何者かの名前を口にした。

「ご主人様の携帯電話がアリスであるように、それが加藤学様の携帯電話の名前です」

そう続けた。


──前にも言ったけれど、その携帯電話は試作品で、君はそのモニターだ。

──研究所の人間であり、君をモニターに選んだぼくはモニターの君の携帯電話の使用履歴、簡単に言えば君とアリスとの会話を常にモニタリングする権限を持っている。


とんだプライバシーの侵害があったものだ。

「そういうことって最初に説明しておかなくちゃいけないんじゃないか?」

ぼくは言った。

成長が人より遅れているぼくは、まだマスターベーションをしたことがない。けれどぼくが世間一般の男子と同じように人並みの成長をしていたら、携帯電話でエロ動画や画像を見てそういうことをする可能性だってあるわけで、あの男はそういうぼくの人には見せられないような恥ずかしい行為も見ることができるということなのだ。

もっともこの携帯電話には常にアリスがいるので、人並みの成長をしていたところで、ぼくはそんなことをしないだろうけれど。世の中にはそういう行為を、アンドロイドとはいえ女の子に見られたいという変態もいるだろうけれど。

ぼくはアリスを見て思う。

結構かわいいしな、こいつ。姉ちゃんには負けるけど。


──最初から全部説明したところで理解はしてもらえなかっただろう?

──世の中の多くの人間がろくに読まずに簡単に契約書にサインするようにね。

──こういうことは順を追って説明していった方が理解してもらいやすいんだ。


なんだかどうでもよくなってきた。とにかく、アリスとの会話はこの男には全部筒抜けだというわけだ。気をつけなくちゃいけない。

ぼくは話を元に戻すことにした。

「ぼくとあんたの共通の知り合いなんて、ぼくの家族だけだろ。つまりあんたが紹介してくれる友だちはぼくの知らない奴じゃないか。そんな奴と簡単に友だちになれるかよ」


──それはやってみればわかるよ。


あの男はそう言って、


──友だちは男がいいかな? それとも女の子?


と尋ねてきた。どうやら、あの男から友だちを紹介されることはもう決定事項のようだ。

ぼくはもう諦めて、それから少し迷いながら、

「女の子……かな」

と言った。口にすると思っていた以上に恥ずかしかった。きっとぼくの顔は赤くなっているに違いなかった。

「ご主人様ひどーい、アリスがいるじゃないですかー」

そんなぼくにアリスが抗議する。お前はメイドで、アンドロイドで、おまけに携帯電話だろ、とぼくは思う。


──ぼくの友だちだから、君より少し年上になるけどいいかな?


「……うん」


──わかった。じゃあアリス、ID検索してくれ。IDは"frawbow"だ。


「はーい。検索完了しました」

あの男からのチャットメッセージが届いた次の瞬間には、もうアリスはそう答えていた。

「フラウ・ボウさんを友だちに追加しますね」

アリスはぼくに向かって、確認するように、というより、やはり決定事項のように言った。

「フラウ・ボウ?」

ぼくはアリスが口にした名前を反復した。確か有名なロボットアニメの主人公の幼馴染の名前だったような気がする。


──ハンドルネームだよ。


携帯電話の画面にはそんなメッセージが届いていた。

「フラウ・ボウさんをお友だちに追加しましたー」

アリスがそう言った瞬間、ぼくの部屋には新たな闖入者が現れた。

立て続けにおかしなことが起こりすぎて、ぼくの感覚はもう驚くことには飽きてしまったようだ。一応、RINNEで友だちを追加しただけで、なぜ目の前にその相手が現れるのかと困惑はしていたけれど。

フラウ・ボウは20代半ばくらいのきれいな女の人だった。背が高くて、華奢で、まるでモデルみたいだ。

「フラウ・ボウさん……?」

その人はぼくの顔を見るなりにっこり笑って、

「こんばんは」

と言った。

そして、困惑するぼくをなぜか抱きしめた。

ぼくはその人の大きな胸に顔を埋める形になった。

「ちょ、ちょっとこれどういうこと?」

「アリスが今言ったろ、その子をお友だちに追加したって」

携帯電話からあの男の声がした。

ぼくが今まさにRINNEを確認できない状況にあることを知って、たぶんチャットから通話に切り替えたのだろう。

「全然意味わかんないんだけど」

ぼくは今度こそ本当に困惑して言う。

「RINNEで友だちになるってことは、君とその子は最初から友だちだったってことなんだ。どういう友だち関係になるかは、君が望んでいる通りになる。君の性癖は年上のお姉さんにかわいがられたいってとこかな。君はお姉さんによく懐いてるみたいだし、シスコンの気があるようだね」

あの男が電話の向こうで、楽しそうにそう言った。

言い当てられて、ぼくは恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。

ぼくの名前を呼びながら、その人は頭を撫でてくれた。

いい匂いがした。温かい。

それはたぶん、妄想なんかじゃなく、これが現実である証拠だった。

「年上のお姉さんの胸に顔を埋めるのはそれくらいにして、話の続きをしようか」

見てるこっちが恥ずかしくなる、とあの男は言った。ぼくとアリスの会話を聞いているだけでなく、見ているのだ。

「彼女は一応ぼくの友だちでもあるから本当はこんなことしたくないんだけど、RINNEの使い方を知ってもらうためには仕方ない。今からざっと使い方を説明するから、RINNEにはこんな機能があることを覚えてくれ」


「1.友だちをブロックすると、その友だちは使用者に触れることができなくなる」


あの男がそう言うと、

「はい、ご主人様、フラウ・ボウさんをブロックしますね」

アリスが言った。

「ブロック?」

その瞬間、フラウ・ボウさんの体はぼくから弾き飛ばされるように飛んだ。

ぼくは何もしていないのに。

フラウ・ボウさんは壁にしたたかに体をぶつけ、その衝撃で意識を失ってしまったようだった。

「友だちと絶交したいときっていうのがあるだろう? これはそういうときに使う機能だ」

あの男は何の感情も込められていない様子でそう言うと、次の機能をぼくに告げる。


「2.友だちを非表示にすると、使用者の視覚・聴覚、あらゆる感覚からその友だちが消える」


「フラウ・ボウさんを非表示にします」

ぼくの視界からフラウ・ボウさんが消えた。

けれど、フラウ・ボウさんのものらしき影はある。

「ブロックすることによって、彼女は君に触ることはできなくなった。けれど、君が彼女の顔も見たくない場合、非表示にすることによって、君の視界から彼女を消すことができる。そして」

あの男はさらなる機能を告げた。


「3.友だちを削除すると、その友だちはその存在自体がなかったことになる」


「フラウ・ボウさんを友だち削除します」

その瞬間、フラウ・ボウさんのものらしき影すらも消えた。

フラウ・ボウさんがつい先ほどまでこの部屋にいたという痕跡がすべて消えていた。

「どういうことだよ? 何が起こってるんだよ?」

戸惑うぼくに、あの男が言う。

「それがアリスの能力だよ。RINNEに限らず様々な携帯電話のアプリケーションの機能をアリスは拡張・増幅させ、携帯電話だけでなく世界そのものに干渉する」

「フラウ・ボウさんはどこに行ったんだ?」

「言ったろう。存在自体がなかったことになった、と」

「殺したのか?」

「違うな。存在自体がなかったことになる、ということは、生まれてこなかった、という意味だ。彼女の存在は世界の歴史から抹消された。もう誰も彼女のことを記憶している者はいない。ぼくや君、つまりアリスのような次世代の携帯電話を手にする者以外はね」

「どうしてたかが携帯電話にそんなことができる?」

ぼくは問う。

電話の相手を目の前にホログラム投影する、それくらいのことは未来には実現可能な技術なのかもしれない。

しかし、携帯電話のアプリの「友だち削除」くらいでその相手の存在がなかったことになるなんて、そんなことが出来るとはとても思えなかった。

「こいつは次世代の携帯電話の試作品だ。実用化されるのは十年後か二十年後か、それくらい先の話だけどね。

携帯電話は擬人化した姿を持つようになり、メイドや執事のようにご主人様お嬢様に寄り添い歩くようになる。

RINNEをはじめとした無料通話アプリケーションが友人関係を構築する基盤になり、使用者の使い方次第では幸福な友人や恋人を作ることができるようになる。

けれどさっき君が体験したように、使用者はその友人関係を簡単に破壊することができる。触れられたくない相手をブロックし、顔も見たくもない相手を非表示にできる。友だち削除で、その存在すら消すことができる。

どうしてそんなことができるかと言えば、この世界のすべてが実に高度で複雑ではあるけれど、所詮プログラムされたものにすぎないからだよ。

人の思考は電気信号によるものだし、脳なんてデータにすればたかが1.8GB程度のものでしかないらしい。君が持っている携帯ゲーム機のディスクの容量と同じだよ。

人の体もDNAという途方もないプログラムによって作られているけれど、容量はわずか2テラバイトにも満たない。一万円程度で買えるパソコンの外付けハードディスクにまるっと収まってしまう。

この世界はすべてプログラムされたものなんだ。

人の体、魂、そして運命、縁、ありとあらゆるものが地球という巨大なハードディスクの中のプログラムで動いている。

この携帯電話はそれに干渉して、プログラムを書き換えてるだけだ」

それは到底信じられない話だった。

「そんなもの、実用化されたら世界はめちゃくちゃになるだろ」

「だろうね。だから現段階では市場に流通していない。機が熟するのを待っているというわけ。気が熟したとしても、その機能はかなり制限されたものになるだろう。試作品というのは、すべからく研究者が持ちうるできる限りの機能が搭載され、量産される際には機能のほとんどが削られる。ガンダムとジムの関係だよ」

信じられない話だが、現実にぼくの目の前で人がひとり、その存在を削除された。信じるしかない。

「わかりやすいたとえをありがとうよ」

ぼくはそう言ったけれど、一体どうして、なんでこんなものがぼくのもとにやってきてしまったのだろうと、内心頭を抱えていた。

今すぐにもこの携帯電話を捨ててしまいたかった。しかし、あの男は以前ぼくに忠告した。ぼくがモニターであることを拒否するなら、ぼくを始末すると。

あの男はぼくを殺す必要すらないのだ。ただ、自分が持っている携帯電話のRINNEでぼくを友だち削除するだけで、ぼくはこの世界に存在しなかったことになる。そしてそれは殺人でも何でもない。何の罪にも問われない。

ぼくはこの携帯電話、アリスの使い方をしっかりと考えなければいけない。

「まさか君にそんなたいそれたことができるとは思えないが、念のため釘を刺しておくけれど、言っておくが、君がぼくを友だち削除することは不可能だよ」

なぜなら、君の携帯電話アリスより、ぼくの携帯電話(夏目メイ)の方が上位の立場にあるからだ、とあの男は言った。言うなれば、ぼくの持っているものが親機で、君のものはその子機にすぎない、子は親の存在を消去できない、タイムパラドックスが起きてしまうからね、そう言った。

その言葉を補足するようにアリスが言う。

「加藤学様に限らず、アリスがご主人様のご両親やご兄弟、ご親戚を友だち削除すると、ご主人様の存在までなくなってしまうから気をつけてくださいね」

「あんた一体、何者なんだ? 確か、国立の研究所の人間だと言っていたな。一体何の研究をしてる?」

「ぼくは、まだ見ぬ神の使いのひとりだよ。

ぼくたちの目的は神の創造だ。ぼくたちの意のままに動いてくれる、都合のいい神のね。

神話の通り神が世界を作ったのなら、ぼくたちはその神を創造し、世界をもう一度作り変える。

ぼくたち選ばれし者だけが生き残り、それ以外の人間は淘汰され、人類の新しい歴史が始まる」

「昔、ぼくが生まれる前に、東京の地下鉄にサリンを撒いたカルト教団があったらしいけど、あんたもその手の人間ってこと?」

今でもその教団は名前を変えたり、宗派が分かれたりして今でも存続しているようだけれど。

「あんなテロ集団といっしょにされては困るな。ぼくたちが行おうとしているのはテロなんて陳腐なものじゃない」

ぼくたち。

ぼくにはその言葉が引っかかった。

あの男が「研究所」の人間なら、「ぼくたち」というのはその研究所の人間たちのことを言っているのだろう。

そして、その研究所が国立である以上、つまりこの国の偉い人たちが一般国民にはあずかり知らぬところで、世界をもう一度作り変えようとしているということだ。その偉い人たちは1年や2年やそこらでころころ代替わりする首相だとは思えない。

この国にはたぶん、政府や内閣といったものより上の存在があるのだ。

「ちなみに、その選ばれし人間に、ぼくは含まれているのか? 姉ちゃんは?」

ぼくのその問いにあの男は答えなかった。

「説明はこんなところかな。使い方は君次第だ。どういう風に使ってもいい。君がアリスをどう使いこなしてくれるか楽しみにしているよ」

あの男は最後にそう言って、通話が切れた。

「ふふ……ふふふふ」

ぼくは笑うしかなかった。いや、笑いがこみ上げてきた、と言うのが本当かもしれない。

政府や内閣よりも上の、この国がトップの人間たちが世界を作り変える理由とはなんだろう。

この国は敗戦後、自衛のため以外には戦争をしないようになった。憲法第九条にそう定義されている。しかしそれはアメリカから押し付けられたものだ。しかし、この国の自衛隊という名の軍隊は世界で17位の軍事力を誇っている。 非核三原則というもので、この国は核を持たないとしているが、この国には原子力発電所がある。3.11の震災以来、脱原発の声をたからかに上げる人々の姿が目立つようになったけれど、この国のお偉いさんは脱原発ではなく再稼働のことしか頭にない。

ぼくは以前何かで読んだことがあった。原発があれば、核はいつでも作れると。

隣国の独裁国家は、何十年も前からこの国の人間を拉致し続け、その拉致問題はいまだ解決していない。

戦時中に行ったとされる虐殺や従軍慰安婦問題で、この国はアジアの一国家でありながら、アジアにある様々な国家から反日感情を抱かれたままだ。

この国は一見平和に見えるが、もう60年余りいつ隣国に攻め入られてもおかしくない四面楚歌の状況にあるのだ。

世界を作り変える理由はひとつしかない。この国がアメリカに代わり世界のトップに立つ。たぶんそれが、あの男の言う「ぼくたち」の目的なのだろう。

ぼくはアリスのモニターに選ばれた。

そんな馬鹿馬鹿しい「ぼくたち」の目的達成のための片棒を担がされてしまったわけだ。

おもしろい。やってやろうじゃないか。ぼくは思った。

ぼくが最初にするべきこと、それが何であるか、ぼくにはもうわかっていた。

ぼくはアリスに言った。

「とりあえず、母さんを非表示とブロックにしておいてくれ」

きっと顔色ひとつ変えずに。


ふああああと、ぼくは大きなあくびをする。

「そういえば、スマホって電池の減りが早いって姉ちゃんから聞いたことあるけど、お前も充電した方がいいの? 確か箱の中に充電器が入ってたよな?」

ぼくはふと思い出してアリスに訊いた。

「アリスの電池は半永久なんで、充電は必要ありませんよ。あれは緊急用の充電器です」

「そっか、じゃ、ぼくそろそろ寝るけど、お前、ぼくが寝たあとどうするの?」

「お気になさらず。アリスは研究所に送る報告書を作成しなければいけませんから」

アリスがそう言うので、ぼくは枕元にあるリモコンで、部屋の電気を消した。

ふとんに潜り込んで目をつぶる。

今日はなんだか信じられないようなことがたくさん起きて疲れた。

段々意識が朦朧としてくるのを感じながら、ぼくはゆっくり睡魔に身を預けて……

「ってお前、なんでぼくのふとんの中に入ってきてるんだよ!」

ぼくはいつの間にかふとんの中にもぐりこんできていたアリスにそう言ったけれど、アリスはすでにまるで充電が切れたように静かに眠っていた。

「まったく、報告書を書くんじゃなかったのかよ」

ぼくがそう言うと、アリスは寝言のように、けれどはっきりした口調で、

「あれはご主人様を油断させる方便です」

と言った。

ぼくは笑うしかなかった。

ふとんから出て、アリスにちゃんとふとんをかぶせてやると、ぼくは暗い部屋の隅に座って携帯電話を見つめた。

「次世代の携帯電話か……」

ぼくがアリスと出会ったことには何か意味はあるのだろうか?

ぼくに何か変化みたいなものが訪れるだろうか? ぼくは変われるだろうか?

変わりたい。

それはこの三年間ずっと思っていたことだった。

この部屋から抜け出して、普通の高校生になりたい。

けれど一体どうしたら、ぼくは普通になれるんだろう?

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