化け物が見えるようになったのは今からちょうど二年ほど前だった。
中学三年の春の終わり頃、俺は交通事故に遭っていた。中学校の帰り道、大通りを歩いていたらトラックが凄いスピードで近付いてきた。気がついたときにはもう遅く、逃げる間も無く、それはもう随分遠くへ吹っ飛ばされたのだ。
それでもなんとか自分は奇跡的に助かったものの、運転手、歩行者を合わせて計八人が死んだ。
トラックの運転手は居眠りをしていたらしい。
未だに何度も、事故にあった瞬間の夢を見る。
このまま死ぬと確信したときの絶望、誰かの切り裂くような悲鳴、車が焼ける匂い。
全て鮮明に思い出せた。
死にたくない。
自分の身体からごっそり血が流れていくのを感じながら、心の底からそう思っていた。
死にたくない。死ぬのは、怖い。
こんな感情、俺以外の八人が思っていたに違いないのに。
その願いを叶えられたのは俺一人だけだった。目も当てられないような悲惨な事故のなかで唯一助かったのは、奇跡以外に何物でもなかった。
あの日以来、俺の日常は崩れ去ったように感じる。
事故を経験した翌日から、俺は化け物が見えるようになっていた。
化け物。
明確な名前は知らないが、確かにそう呼ぶのに相応しい存在だった。
ヒトとは呼べない存在。
見た目は様々だ。人間のような形をしながらも、黒い靄のようなものを纏っていたり、狐や山羊などの動物のような見た目をしながらも、ツノが生えていたり目が一つしかなかったり、とにかくそれらは色々な姿形をしていた。
誰にも見えなかった。俺以外。
入院先の病室で両親に訴えても、事故のショックでおかしくなっているなどと言って全く聞き入れて貰えなかった。
その瞬間に、理解した。
そんなものは見えないと、首を振った両親を見て。
俺は、普通の人間とは違う世界に踏み込んでしまったということを。
いや。自分は死んだわけでは無いので、異世界に行ったとか、そういう意味ではないが────自分が当たり前に生きていた世界には、「化け物」が普通にいることを知ったのだ。
当たり前に、化け物はいた。
俺が知らなかっただけで。
見えなかっただけで。
認識していなかっただけで。
だから、両親みたいな一般人は一生見えないままなのだろう。死にかけたりしなければ、きっと。
きっとそのほうが良い。
結局のところ、見えても見えなくても、変わらないのだ。
化け物というのは、特にこちらに干渉してきたりはしないらしい。
話しかけてきたりだとか、ちょっかいをかけてきたりだとか、そういう関わりはこの二年間において一切なかった。
そこに存在しているだけだった。
地面や空や星のように。
ただ当たり前に、そこにあるだけだった。
だから慣れるのはすぐだった。
いつしか異様な存在も背景の一部のようになっていたと思う。
当たり前ではないことが、いつしか当たり前になっていた。
そうして二年間が経っていた。
これからもずっと、変わらないのだろう。
化け物がいる日常を、俺はこの先も過ごしていく。
***
信号が赤へと変わる。
俺は乗っていた自転車を止め、溜息を零した。
今日は疲れた。
本当なら放課後のチャイムと共に教室を出ようとしていたのに、数学の小テストで赤点を取ったという理由で先生に呼び止められ、補習を受けさせられていた。そして学校を出た頃にはとうに太陽が沈みきっていた。
信号が青に変わるのを待ちながら、天を見上げる。濃紺色の空に、散りばめられた星たちが瞬いていた。
今日は綺麗に晴れている。雲一つ無い空だ。
昔の俺が見たらきっとこんな夜は大いに喜んでいたに違いない。
天体観測が好きな子供だった。具体的に言えば、中学三年生まで天体観測が趣味だった。
しかし事故にあってから、その趣味は無くなった。
何故なら。
事故にあったあの日、通学路を歩きながら、俺は星を眺めながら歩いていた。
雲ひとつ無い、綺麗な空だったから。
西の空に煌々と輝く、金星を見ていた。
見ていた?
違う。見蕩れていた。
我ながら不注意だったと、今でも思う。
美しい金星に目を奪われながら、歩いていたから────だから近付いてくるトラックにも気付けなかったのだ。
本当に迂闊だった。
あの時、星を見ていなければ。
少なくとも俺は、事故に巻き込まれなくて済んだかもしれない。
すんでのところで、避けられたかもしれない。
事故にあってからそう思わずにはいられなくなって、だから俺はその日以来、天体観測が出来なくなっていた。
だが天体観測は出来なくなっても、星空そのものは今でも好きだ。
勝手にトラウマにしているのは自分であり、観測することを拒絶してしまったのも、全て子供のながらの理由であることも分かっていた。
別に今星を見ながら歩いたって、居眠りをしている車に轢かれる訳では無い。そうそう起こらない確率を、あの瞬間に引いただけなのだ。
だが余所見しながらの歩行は普通に危ないことなので(しかも今は自転車だ)、もうしないけれど。
中学を卒業して、自分はもう大人になった。今ならきっと、普通に望遠鏡を覗くことは出来る。だが今更あの趣味を取り返そうとは思わなかった。
もう、あの時のように楽しむことは出来ないのだから。
趣味は、楽しく感じなければ趣味とは呼べない。
楽しさを見い出せなくなったら────それはもう、ただの作業だ。
だから今は、こうしてたまに見上げるくらいでちょうど良い。
綺麗だと、思うくらいで良いのだ。
詳しく知ろうとは思わない。
懐かしい思いに駆られながら星を眺めていると、いつしか信号は青に変わっていた。慌ててペダルを踏み込んで、通学路を走っていく。立ち並ぶ街灯の光には無数の蛾がわらわらと寄っていた。
商店街を抜け、大きな坂道を登ると、額には汗が滲む。
夜だというのに湿った暑さは引かなかった。
今年は早めに梅雨が来て、その上あっという間に終わりを迎えた。梅雨が開けた途端に一気に気温は上昇し、すっかり夏へと季節は変わった。今は六月中旬、今日の最高気温は夏日に到達していた。
「あっつ・・・・・・喉乾いた・・・・・・」
思わず独り言を零し、帰り道の途中にある公園に立ち寄った。自動販売機の前に自転車を止め、小銭を投入する。ボタンを押して取り口に落ちたスポーツドリンクに口をつける。
乾いた喉が一気に潤う感覚がした。
じめった暑さが気持ち悪くて、俺はワイシャツの袖を思いっきり捲った。それでも上がりきった体温は下がる様子もなく、ペットボトルを首元に当てた。ひやりと冷たくて気持ちが良い。
「ん」
そして突然、奴は現れた。
「なんだよ、お前にはやらないからな」
自分の影をじっと見つめる。
事故にあってから変わったこと。
化け物が見えるようになったこと。
そしてもう一つ。
自分の影に、化け物が潜むようになったこと────
「お前、本当いつも急に湧いてくるよな」
返事はない。今までこうして話しかけても一度も返事が来たことは無いし、鳴き声すらも聞いたことが無い。
そもそもこの化け物に発声器官があるのかどうかすら分からないが。
俺の影に潜む化け物は、正しく影の化け物だった。
ヒトの形を取っていながらも、黒い靄のようなものを纏い、姿が曖昧な見た目をしている。
手足や頭はきちんとあるが、顔というものは見えなかった。
ただ人間の形をしただけの靄が、俺の影に潜んでいる。
当然誰にも見えるわけもなく、こうして急に姿を現してはじっと佇むだけ。
何もしない。
影のように、そこにいるだけで。
そして時間がある程度経てば、いつの間にか勝手に消えている。
何考えているか分からない生き物だ。
いや、化け物全てに言えることだが。
干渉したこともされたことも無いのだから、化け物はそういう生き物だと思っていた。
否、思い込んでいた。
化け物とは全て、ただそこにいるだけの、敵意の無い生き物だと、俺はこの日まで勘違いしていたのだ。
干渉し、された経験が無いというだけで、彼らという生き物を、俺は勝手に理解した気になっていた。
だが、現実はそこまで甘くはなかった。
「・・・・・・あれ・・・・・・」
顔を上げ、視線を向けた先には女子が立っていた。それも俺と同じ、私立陽浪ヶ丘高校の制服。
遊具の傍で、女子は一人でじっと突っ立ているだけであった。
何しているのだろう、こんな時間に。
この公園はもう誰の姿もなく、女子高生一人でいるにはあまりにも危険だ。
それとも、誰かを待っているのだろうか?
不思議に思い、目を凝らしてみる。木の影になってよく見えなかったから、二メートルほど横に移動して再び彼女を見た。
そしてこのときようやく、彼女の前に、獣のような化け物がいることを知った。
「・・・・・・は・・・・・・?」
大型犬によく似た化け物だった。見ただけで、脅威の高い化け物だと理解した。
深い闇のような漆黒の体毛。口元から覗く牙。手足には太く鋭い爪が生えている。
明らかに敵意と殺意を持って、獣は、女子高生を睨んでいた。
化け物と女子生徒が、いがみ合っている。
「これ・・・・・・やばいんじゃないのか!?」
自転車を思い切り投げ捨て、女子の元へと全速力で走った。
こんな光景、初めてだった。
今まで自分が見てきた化け物は、敵意も殺意も何も感じなかったから。
それはただ、俺が運の良い男なだけだったのだ。
ただいるだけの存在だ、なんて、勘違いも甚だしい。
獣が彼女に飛びかかる。
長い爪を振り下ろす────前に、彼女の前に到達した。
「っきみ!!」
細い腕を掴む。
彼女は驚いた表情で俺を見た。
「逃げ────」
そう口を開いた瞬間、獣の爪が俺の腹を割いていた。
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