【前回のあらすじ】
アウラを連れたヴェロニカが『連合』の大使館へとやってきた。待ち受けているディスポの姿を目にするや、自分の行動は果たして正解なのかと疑問が湧き上がった。
街に夜が近づくと、安っぽいネオンの灯りが燈される。
人生に疲れた鳥たちが一時羽根を休ませるために、今日も浮世を忘れて飲んだくれる。
人間誰しも、へべれけになってしまいたい気分の時がある。そんな気分のとき、誰隔てなく受け入れてくれるのが歓楽街だ。
かりそめの笑顔と刹那の快楽。
訪れた客たちの胸の乾きを癒してくれる。
ヴェロニカもまた、そんな傷ついた翼を畳みに来た客のひとりだった。
明滅を繰り返すネオン管が誘う、路地裏の小さなショットバーで。
ここはつい最近、タクヤがぼったくられた店からもほど近い、地元の住民でもなかなか足を踏み入れない無法地帯である。歓楽街の中でもさらに闇の瘴気が濃いという魔都だ。
そんな場所で女ひとりがグラスを傾けていれば、それは目立つなというほうが無理な注文だ。
ましてやそれがとびきりの美人であればなおさらである。
ヴェロニカがカウンター席に座り、七色のカクテルにほどよく酔いしれている。とろんとした瞳で見つめるのは、地球儀のアクセサリーが付いた安っぽいボールペンだ。
「よおッ。ねーさんひとりかい?」
いかにもという感じの強面が隣に擦り寄ってきた。
男は鋲つきの革ジャンなんかを着込んだライダー風。金のネックレスがぶらさがる胸元からは、浮世絵にでも描かれていそうな極彩色の龍のタトゥーがのぞいていた。
男はカウンターのなかでシェイカーを振っている機械式アンドロイドに、いまヴェロニカが飲んでいるのと同じカクテルを追加するよう頼んだ。
そして自らには大ジョッキのビールを注文する。
「へへへ……奢らせてくれよ。ねーさんみたいな美人と知り合えた祝いの酒だ。今日は朝までいこう、仲良くしようぜ?」
そう言いながら金無垢の時計を嵌めた左腕を、ヴェロニカの肩に回す。強引に抱き寄せるゴツイ手は汗ばみ、吐く息は生ゴミのような腐臭がした。
酒が振舞われる。ヴェロニカは静かにカクテルグラスを舐めた。
ぷっくりとした肉厚の下唇が透明なグラスに密着すると、無垢な白糸のようなのどがコクンと鳴る。
男はそれを満足げな表情を浮かべては目で穢し、舌なめずりをした。そして、まるで水でも飲むかのよう、豪快にジョッキを呷る。
しばらくしてヴェロニカの肩を抱いていた男の手が、スルリと胸の方に忍び寄る。
趣味の悪いリングをはめた毛むくじゃらの指先が、豊満なふたつの球体の谷間へと滑り込んだ。「ぐへへ……」と男が低く、いやらしく笑う。
ヴェロニカの目は冷めたままに虚空を見つめ、表情ひとつ変えない。
さらには――。
「ぶッ! このアマ! 何しやがるッ!」
男は顔面にカクテルを浴びて、カウンター席から飛び退った。
ヴェロニカの手には空のグラスが握られている。
唇には甘いチェリー。
「アタシの身体は、アンタみたいなゴミに触らせるために磨いてきたんじゃないわ……」
「だとぉッ!」
「ねえ……アンタ海賊と戦える? 一発の弾丸も撃たずに全滅させられる?」
「なにぃ~?」
「聞き分けのないガキをお説教したり、そのくせ面倒見がよかったり……ハタ迷惑なだけの大きな捨て猫みたいなヤツらと笑って暮らせる?」
「何が言いてぇ……?」
「辛くても、自分の信念曲げてもッ! ひとりで泣いてる女の子を守るためなら、国相手に喧嘩売れる? そんなことがアンタに出来るかって訊いてんのよ! だったらこの身体くれてやってもいいって言ってんの!」
「わけの分かんねーことガタガタぬかし……うッ!」
男は絶句した。なぜならその時、ヴェロニカの手にはとんでもないものが握られていたから。丸くて小さくて黒光りして。天辺にレバーと安全ピンのついた手の平サイズの鉄の塊。
「しゅ、手榴弾ッ」
「それ以上近づいたらピン抜くからね。それともアンタ、死ぬ気でアタシのこと抱けんの?」
ヴェロニカの目は据わっている。本気だと訴えていた。
男も、この場にいた他の客も。
その迫力に気圧されて我先にと店外へ逃げ出して行った。
店に残されたのは、ヴェロニカとアンドロイドのボーイのみだ。
「フンッ」
「困りますよレディ……これでは商売上がったりです」
「うるさいわね。金ならあるのよ金なら! いくらでも払ってあげるわよ。賠償金でも慰謝料でもなんでも」
ドンっとカウンターの天板に手榴弾を叩き付ける。
それを見たボーイは恐々とした。
「イミテーションよ。爆発しないわ。それよりもう一杯同じヤツ!」
それは中華街の古物商にあったものだ。手癖の悪い彼女はいつの間にかそれをコートのポケットに忍ばせていた。しかしたとえ本物だったとしても、いまの彼女の心理状態なら最悪ピンを抜いていたかも知れない。
「レディ……失礼ですが、今夜はもう相当お召し上がりに。そろそろお止めになったほうが……」
「うっさいわね! 金ならあるって言ったでしょおッ! ベロベロになるまで飲ませなさいってのよ! ったくどいつもこいつも……」
ブツクサと文句をタレながらカクテルをあおる。
それから二、三杯立て続けに飲んでカウンターに突っ伏した。心地よいまどろみが彼女を夢の中へと手招きする。とろんとした視線の先には青い地球があった。
「……アラヒらってね~、おんにゃのこなんれすからね~。もっと気を使えって話なんれすよ! それをソファーで足組むならとか、リビングでメイクすゆなとか。こまけーっつーんれすよ! っとに、けつのあなのちーせーことれすこと! あんなヤツ……あんな……」
据わった目つきで地球儀のペンを見つめる。
思い浮かぶのはあの滅多に笑わない少女の笑顔だ。
「知らないわよアンタのことなんか……アンタさえいなければもっとあそこにいられたのに……愛想のないメイドとアラヒの乳ばっかり見てたエロガキと、それから……」
ヴェロニカはあの日打たれた頬を撫でる。もうすっかり治っていて痛くも痒くもないが、触れられた手の温もりだけはしっかり残っていて。
「もう戻れないのかなぁ…………かえりた……」
頬を流れる一筋の雫。
ヴェロニカはそのまま酔い潰れた。
しばしのまどろみの中で、彼女は深い深い悲しみをさまよう。
その肩をアンドロイドのボーイが揺すった。
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