【前回のあらすじ】
あと30分の猶予しかないという事実のなか、エイプリル考案の月面降下作戦が決行されようとている。絶体絶命のピンチのもと、ブリーフィングが始まった。
フール号は月面には降下しません――。
エイプリルはもう一度ハッキリとそう言った。
「それについてはこの図を」と、ホログラム・ディスプレイを指示棒で指しながら、再び息づきなしで説明を始める。
「月軌道に最接近する際、すでにフール号は引力圏の内側にいます。地球の約六分の一という微弱重力に引っ張られているわけですが、本船の推力はそんな貧弱な重力は屁でもありませんので、そのまま突っ切ります。ですからリフト・モービルだけを引力に引っ張らせて月に『置いていく』のです」
「置いて行く?」
「はい。格納庫のハッチを開けた状態でリフト・モービルをスタンバイさせます。そしてリフト・モービルが船内で月の引力に捕まったのを待って――フール号をリフト・モービルから引き抜くのです」
「な、なるほど……」
「フール号はそのまま月軌道を離脱。リフト・モービルは月面へと降下します。運が良ければ警察のご厄介になる前にあなた方を回収できますが。最悪でもアウラちゃん目当てに『連合』が向かえを寄越すでしょう。その際、ご主人様は殺される心配がありますが大丈夫です。ふたりの宇宙服がエアダクトで繋がっている限り、あなた方の仲を引き裂くことなど出来ません。どちらかが負傷すればどちらかにも危険が及びますので」
「まさに命綱ってわけか?」
たとえば銃殺を狙うとする。片方の宇宙服の気密が失われれば、エアダクトで繋がったもう片方の気密もまた当然失われる。『連合』がアウラを生きたまま取り返したいのであれば、迂闊な真似はしないはずである。
少なくとも宇宙空間では。
「ただひとつこの作戦には懸念材料があります」
「懸念?」
ピクンとレイノンの片眉が上がる。すでにホログラム・ディスプレイも片付けたエイプリルが澄ました顔で言う。
いつの間にか眼鏡っ子もやめていた。
「月の引力圏まで含めたこの軌道計算には途轍もない演算能力が不可欠となります。とてもではありませんが、操船の片手間に出来るものではありません。しかし、ご主人様はアウラちゃんと月面へ。そうなるともう舵を握る者がおりません」
「は? お前に限ってそんなわけな」
「ああ。どこかにいい操舵助手はいないものかしらー」
試されている。
タクヤの心臓が高なった。
エイプリルのあの口調。あれは演技だ。アンドロイドが自主的に主人を謀るというのは聞いたことがないが、タクヤには確信があった。
彼女と初めて会ったとき、まだ囚われの身であった自分のまえで見せたあの大根役者振りは、いまでも鮮明に目に焼きついている。
恥も外聞も捨てて、必死でレイノンに食らい付いた自分を彼女は見てくれている。
アンドロイドが人間の不利益になることが出来ないのならば、いままさにタクヤは自分が望まざる道へ進もうとしているのではないか。
エイプリルはいま一度自分にチャンスを与えてくれているのではないか。
かつてエイプリルは言ってくれた。
フール号は新しいタクヤの家だと。
自分はまた、家族を裏切って目先の安心に逃げるのか――。
「やるよ」
いまこそ決別するときだ。
誰ひとり救えない弱い自分と。
革命だの真実だのと自分を偽る屁理屈はもういらない。
ただ彼女の願いを叶えるために。
「僕がやる。アウラちゃんの笑顔は僕が守る!」
矮小でも恰好悪くっても構わない。ただガムシャラに願った。
アウラの笑顔がもう一度見たいと――。
そしていま。
煌々とまたたくオレンジの照明に一台のリフト・モービルが浮かぶ。
レイノンはすでに、月面降下のためアウラと船内格納庫でスタンバイしていた。
この二週間まともに会うことも出来なかったアウラの容態は気掛かりだったが、医務室を出たときの、彼女の顔はとても穏やかだった。
アウラはもう口から食事を摂ることさえ出来なくなってしまっている。ましてや大好きだった甘いお菓子など――。
タクヤは決意していた。
彼女の笑顔を取り戻すため、たとえそれがどんな結末になろうとも。
「タクヤさま。準備はよろしいですか?」
ちょこんと通信席に座ったエイプリルが澄ました顔でそう言った。
舵を握るタクヤの手にも自然と力が入る。
「はい。いつでもどうぞ!」
メインディスプレイにはすでに、全容を捉えきれないほどの大きさで月表面が映し出されていた。
クレーターのひとつひとつがはっきりと見て取れる。
俗に「海」と呼ばれる黒色の地形が少ないことが、タクヤにここが月の裏側であることを再認識させた。
レーダーには絶えず後方に張り付く巡視艇が、その存在を主張している。
フール号はすでに月の引力圏付近まで来ている。
相手も大事故を恐れて執拗な艦砲射撃はしてこなくなった。しかし、もはやこちらとの相対距離もないに等しい。
「ご主人様」
『なんだ?』
エイプリルは通信機越しに主人との最後の通話。これがもし今生の別れとなるのなら、聞き耳を立てるのはなんだか憚られる気がした。
どこまでも生真面目なタクヤ少年であった。
「そろそろリリースポイントに接近します。ご準備は?」
『上々だよ。遠足前夜ってな気分だ』
「それはようございました。アウラちゃんの具合は?」
『起きてるよ。ホレ、なんか言っとくか?』
『……い……てきま……』
アウラの声だった。すでに効果が薄れて久しい鎮静剤を投与され、やっとのことで意識を保っている彼女のか細い声。艦橋内に響き渡るそれは、まるで天使の囁きのようで。
「はい。いってらっしゃいませ」
エイプリルもまた微笑んで送り出す。
無表情の国にも、やっぱり笑顔はあったらしい。
『しかしアレだな。フール号から出た瞬間、いきなりズドン! ……なんてことにはならねえだろうな?』
「ご安心下さい。このスピードで航行する宇宙船からこぼれ落ちるリフト・モービルなどという小さな標的を瞬時に捕捉出来るレーダーなど存在しません。もし反応したとしてもデブリと認識されるのが関の山です。なにもない宇宙のど真ん中で宇宙船に轢かれた経験のある私が言うのですから間違いありません」
『ごもっとも』
「さ。そろそろお時間です――ご主人様」
『ん?』
「お帰りをお待ちしております」
ああ、またあとでな――タクヤが耳にした最後のセリフだ。それを合図に艦橋内はいよいよ緊張に包まれた。
操舵輪に設置されたディスプレイには海図が映し出されている。フール号の航路と月面上空のある点が交差し、赤いマーカーで識別されていた。
あと十秒。
フール号がまもなくその点を通過する。
月の引力圏に引っ張られる、そのギリギリの境界に。
「いまです」
短く、エイプリルが言った。
タクヤは返事もせず無心で舵を切る。フール号は船首を右舷に傾け、そのまま速度を落とさずに月軌道を大きく離脱して行った。
見る見る内に遠ざかる月。艦橋の小窓から見えるそれは真ん丸で小さく。いつか母親と見た満月を思い出す。
突然の針路変更に意表を突かれたのか、三隻の巡視艇は月の前を素通りしていった。
これでまた。少し時間が稼げるだろう。
緊張の一瞬をくぐり抜けて、タクヤはまた少しだけ大人になった。
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