【 1 】
メタルの冷たさが接した床から尻へと伝わる。
そこに拘束されているという心細さも加わり、デニム越しだと言うのに骨身に染みた。
極度の緊張から全身の皮膚がピリピリと痛い。
まるで地獄よりの使者が背中から這い上がってくるかのような感覚だ。
疲労と焦燥が少年を支配する。そして僅かばかりに残った憤りだけが、なかば挫けてしまった彼の胸のなかで必死に暴れていた。
部屋の照明を鈍く跳ね返す足枷がすねへと食い込む。後ろ手に回された戒めも、もがけばもがくほどに彼の細腕を傷つけた。
まだ幼さを残す整った顔立ち。その眉根を寄せて睨みつけるのは、悪意をもって彼を――タクヤを取り囲む数名の男たちの姿だった。
「へへッ。まあそう睨むなよ、お坊ちゃん。あと少しの我慢だ……」
一際、偉そうな態度をしているひとりの男がそう口にした。
がさつで品のない笑みをこぼすと傍らに立つ、いかにもおつむの弱そうな手下に向かって「どうなっている?」とドスの効いたセリフを吐き捨てた。
「あ、へ、へい、オカシラッ。あの、さっきからやってるんですが、どうもあっしはこういう頭使う仕事は苦手で……」
「ああ? ちょっと見せてみろ」
男たちはタクヤを無視して一枚の紙に群がり始めた。
どいつもこいつもチンピラ風情で、教養の欠片もないような粗暴な風体がまた、憤慨するタクヤの神経をより逆撫でした。
こんなヤツらにいいようにされて、身動きひとつ出来ない――。
悔しさのあまりに目元がグッと熱くなる。
「バカヤロウ! バースデイ・カードを書いてんじゃねえんだ。もっとこう淡々とした文章でいいんだよ脅迫状なんかは!」
オカシラと呼ばれた男が、口角に泡をためて怒鳴っている。
子分たちは一斉に身をすくめた。
彼はハッキリと言った、脅迫状と――。
そう、有体に言えばタクヤはいま拉致監禁されているのである。
「大体あれだぞ、おめえら!」
オカシラは脅迫状を片手にさらに吠える。
「こういうのは印刷済みの文字を切り貼りして作るってのが、大昔から決まり事なんだ。その歴史と伝統にわざわざ俺たちが背く必要もねえ!」
新聞はどこだ、新聞は――と。
どこの田舎者かは知らないが、この完全ペーパーレスの時代にご苦労なことである。そんなやり取りを眺めるうち、またぞろおのれの不甲斐なさに涙をためるタクヤであった。
やれ新聞を探せ、チラシを探せと子分たちが散ってゆく。
狭い室内にはタクヤとオカシラだけが残された。
隙を突いて逃げる――そんな思いが一瞬頭をもたげたが、すぐに消える。
詮無いことだ。
いまいる部屋を出たところで一体どこへ逃げればいいと言うのか。
狭い室内の小窓から覗くその風景。
そこには、無限の闇が広がっているばかりである。
ここは宇宙のど真ん中。
火星のラグランジュポイントからも外れた辺境宙域である。
窓から見えるスペースコロニー群の明かりも、豆粒のようだ。
ちょっとずつだが景色が流れているのは、彼らを乗せた宇宙船が微速前進をしている証拠である。
そのせいかオカシラはたったひとりでも余裕の笑みだ。
まあここが地上だったとしても、もやしっ子の典型のようなタクヤには万にひとつの勝ち目もないのだが。
「おい……僕をさらっても無駄だぞ。親父が身代金など出すわけがない」
悔しまぎれにタクヤが本音の漏らす。
するとオカシラは彼のセリフを鼻で笑い、コキコキと首を骨を鳴らした。
「家出して反体制運動なんかに参加しちゃうドラ息子には、払う金はねえってか?」
「ぐ……」
「んなことたぁ。関係ねえんだよ……」
「な、なんだとっ」
「いいか小僧……他人の親子喧嘩になんざ興味はねえがよ。あんまり親父の足引っ張るもんじゃないぜ?」
オカシラは床にかがみ込みと、手足を縛られ身動きのとれないタクヤの髪を鷲掴みにして、無理やり顔を上げさせる。
反抗的な瞳を濡らすわずかな涙を悟られまいと、タクヤは必死に顔を背けようとした。
だがオカシラがそれを許さなかった。
片手で髪を掴み、残った片手であごを捕らえた。
「綺麗にそろった歯をしやがってよう、このボンボンが」
「よ、よせっ」
「ただでさえお前の親父は売国奴だの、非国民だのと世間じゃ評判が悪いんだ。そのうえ、おつむの足りない息子が誘拐されたと知れたら、さぞマスコミが大喜びするだろう」
さっきまではまだ人間味のあったオカシラの表情が、突然、血も涙もない犯罪者のそれになる。
あごを掴まれたタクヤは強引に正面を向かせられると、冷徹な眼差しを浴びせかけられた。
尻から伝わる床の冷たさなど、忘れてしまうくらいに。
「払うさ。身代金くらい。お前の命はともかくとして『火消し』に金は惜しまねえ。俺たちと同じ人種さ――お前の親父はな」
オカシラは掴んでいた髪を振り回して、タクヤを壁へと投げ飛ばした。
ただでさえ華奢な身体が、低重力の室内を跳ね回る。
引きちぎられた濃いブラウンの頭髪が辺りに漂うのを眺めながら、タクヤは痛みと敗北感とで胸を焦がした。
ただでさえヘタれている彼に向かって、追い打ちを掛けるようにしてオカシラは言うのだ。
黄ばんだ白目を大きく見開き、濁った光を宿した双眸で。
このアマちゃんがと。
「そんなこったから仲間にも捨てられるんだぜ、坊や。反体制ったって正義じゃねえんだ」
「お、お前らに何が分かるっ。こ、この宇宙のゴミどもめっ」
精一杯の強がりだった。
だがそれすらも一笑に付され、タクヤは宙を舞うミノムシのまま、ふわりと床へ着地した。
「聖人君子にゃ革命は起こせねえって話さ。ヒーローごっこがやりたきゃポリ公にでもなりな」
「う、うるさい! 悪事に手を染め、まともなフリして手にした平和がいつまで続くというんだ! 太陽戦争後の『連合』の外交圧力は目に余るっ。僕が政治の腐敗をただすんだっ」
「何事にも本音と建前ってもんがあるだろう。その暑苦しい正義感が、いまお前さんを苦しめているんだぜ? おとなしくあのまま組織の神輿として祭り上げられときゃ良かったものを」
「な、なにっ?」
「知らなかったのか。お前さん、仲間に売られたんだよ。権力者の息子が組織にいりゃ便利だと思ったんだろうが――人の道だの道徳だのとやかましいお前をついに見限ったんだよ」
タクヤは絶句している。
ただでさえ大きな瞳をさらに丸くして。
売られた――。
一体何のことだと、熱く夢を語った仲間たちの笑顔を思い出す。
「う、うそだ……」
「ハァ~。これだ。ま、こっちも仕入れ値としちゃ大枚はたいたがな。せいぜい高く買い取ってもらうぜ、お前の親父によ」
「う……う……うああああああっ」
ずっと堪えてきたものが、雪崩を打って壊れていく。
ぐうの音も出ないとはこのことか。
タクヤは祖国に背を向けてまで利益を追求する父親が嫌いだった。母親が早死にしたのもきっとその心労が祟ったからに違いないとさえ信じている。
だから十六歳の夏に家出同然で父親の元を離れた。
戦争に負けたアジア連邦はどこもかしこも大不況で、おまけに大半のスペースコロニーは設備も旧式のものばかりが割り振られていた。浮浪者のはびこるダウンタウンに辿り着いたタクヤは、そこで人生の転機を迎える。
市民の力で政治を変えていこうとする団体。反政府組織との出会いであった。国を憂う若者たちの集う前衛の場だと思った。
革命――それこそタクヤの求める真実の道だと直感したのだ。反逆の徒となることで父に覚悟を示したかったという想いもあった。
しかし彼がそこでしたことと言えば、野党からの援助金を引き出すためのパフォーマンスだけだった。『連合』側に擦り寄る父親の会社を、実の息子が糾弾する。結果としてそれが彼に連なる与党の国策を貶めることに繋がるからだ。
反政府グループの仲間たちはタクヤ本人ではなく、あくまでホーキンス・カンパニーの御曹司という駒が欲しかったに過ぎない。それに気付かなかったタクヤは、よく彼らと口論になった。
神輿は大人しく担がれている間が華である。やがてタクヤを煙たがった組織の幹部たちは、彼を二束三文の軍資金と引き換えに職業誘拐犯に売り渡したのであった――。
とめどなく溢れる涙を、タクヤはどうすることもできない。
しまいには気の毒に思ったのか、当の職業誘拐犯であるオカシラから優しく肩をポンと叩かれる始末。
「ま、若ぇころには自分の器を勘違いするもんさ、よくあることだぜ」
まるで人生の先輩面して、オカシラが嫌味ったらしい講釈を垂れようとした、まさにそのときである。
突如して激しい振動が彼らを襲う。
部屋ごと大きく揺れているのが体感できた。
地震?
そんなわけがない。ここは陸上ではないのだから。だとすれば彼らの搭乗している宇宙船が揺れているのである。
「どうした! 何があった?」
緩やかに揺れも収まっていくなか、すぐさまオカシラは船内通信を手にとり、子分たちを問いただした。
すると返って反応は、何やら奇妙なものだった。
「お、おか、オカシラッ! や、やっちまった!」
タクヤにも聞き覚えのある声だった。
それは例の脅迫状作りでどやされていたチンピラのひとりである。
激しく動揺しているのが、通信機越しでも分かるほどだ。
「落ち着け。なにがあった?」
「だ、だから、やっちまったんだって!」
「やっちまったじゃ分かんねえから聞いてんだろうが! もっと分かるように話しやがれバカヤロウ!」
声による鉄拳制裁である。
革命組織のなかで日常的に内ゲバを見ていたタクヤにとって、いまでは何だか懐かしいくらいであった。
喝を入れられ、チンピラもようやく平素の自分を取り戻すと、しかしつっかえながらではあるが、ことの詳細を語り始めた。
「す、すいやせん! あ、あのですね。実は……ひいちゃったんですよ……」
「は? 聞こえねえよ、もっと声張れって」
「……人、轢いちゃいました」
「は?」
「だから! 人を轢いちゃったんですよ、俺たち!」
無精ひげをショリショリと撫で回しながら、オカシラは天井を仰いだ。
そこにはまだタクヤの髪が漂っている。
首を何度もひねりながら、やっと絞り出した言葉は、タクヤからしてもまったく同感だった。
「ここ、宇宙だぞ?」
「はい」
「で、人はねたの?」
「はい」
通信機越しに聞こえる子分の声は、真剣そのものだった。
ただひたすらに「はい」と答える。
だが、厳しいなかにも男気を感じさせる誘拐犯グループのオカシラも、さすがに我慢の限界だった。
「そんな馬鹿なことがあってたまるかッ!」
怒鳴るオカシラの常識とはうらはらに。
その数分後、騒動の舞台は艦橋へと移される。運びこまれた被害者をまえにして誘拐犯たちは騒然とすることになった。
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