ミッドナイト・フール

宇宙をまたにかけたドタバタ劇
真野てん
真野てん

第35話 あの日の笑顔

公開日時: 2020年11月29日(日) 20:37
文字数:4,243

【前回のあらすじ】

 月の引力に捕まったリフト・モービルからフール号を引き抜く。驚きの降下方法にタクヤは息を呑む。ここまでだ、とレイノンに一度は諭されたタクヤだったが、アウラの笑顔のため、フール号の舵を握った。


 太陽戦争の末期。レアメタルを始めとする資源採掘の利権を巡り、月面では激しい戦闘が繰り広げられていた。


 奇しくもそれが最終決戦となり、アジア連邦軍はただひとりの生存者を残して敗北する。皮肉にも、その生存者が参加していたアルキメデス・クレーターだけは『連合』側の手に落ちなかったというのに――。


 灰色の荒野を一台のリフト・モービルが疾走する。

 錆び色の機体に二体の宇宙服を乗せて。

 機体の半分以上を占める巨大なエンジンから、金属イオンを吹き出し宙に浮いている。

 砂塵を巻き上げ、ジェット機並みのスピードで地平線を目指していた。


 レイノンとアウラは無事、月面へと降り立つことができた。

 フール号の船内格納庫のなかで、月の引力に捕まりしばらくホバリングしていたが、やがてプリンの容器でも引き抜くようにしてフール号の船体はリフト・モービルだけを月に残して飛び去って行った。


 発進時、危うく船底にぶつかりそうになったことを除けば、概ね成功と言えた。あとは巡視艇に見つかることもないまま、のんびりと月の重力に引かれるだけであった。


 そしていま。

 血生臭い記憶をたどりながら、レイノンはただひたすらアクセルを開け続けている――。


 月面は死の世界とはよく言ったものだ。

 荒涼としたその大地は、在りし日の姿を永遠に真空で閉じ込める。

 いまもまたレイノンの目の前を一体の宇宙服が通り過ぎて行った。割れたバイザーから覗く顔は水分が蒸発してミイラ状態。しかし、それが腐敗して朽ちることなどはない。


 死への恐怖に歪んだ形相は、未来永劫そこに刻み付けられていく。

 同胞たちのなかで、たったひとり生き残ったレイノンを戦死者たちは見つめている。終わらない苦痛に身を委ね、虚空を漂い続けたまま。


 走り去るリフト・モービルの周りには夥しい数の宇宙服が舞っている。そのどれもが激しく損傷していた。それはレイノンが向かう巨大な丘陵に近づくほど凄惨さを増していく。


「酷いもんだ……」


 猛スピードを感じさせない気だるさでレイノンが独り言ちた。この死が支配する殺伐とした世界の中で、背中に唯一の命を感じながら。


「……のん」


「ん? どうした? 苦しくなってきたのか?」


「ううん……ここぉ……つきぃ?」


 小さな声だった。だがふたりの繋ぐエアダクトのおかげで、耳元で囁かれているように聞こえる。

 見上げれば無限の星空だ。

 宇宙服のなかは、それでひとつの世界だった。

 ただふたりのためだけにある世界。


「ああ、そうだ。ここが月だ。待ってろ。もう少しで地球が見えてくる」


「……にばんめの……あうらぁがいってた……ちきゅうが……みたいぃ」


「そうか」


「で……も……いちばんめのあうらもぉ……にばんめのあうらもぉ……もうしんじゃっ……あうらぁがかわりにみてあげ……ろくばんめのあうらはどうしてるぅ……の」


 七番目のアウラ――初めて出会ったあの日。

 トランクのなかから現れた彼女は、最初からそう言っていた。

 それはそのままの意味だったのだ。


 実験体としてこの世に生を受けた彼女に本来名前などない。ただ番号で呼ばれていただけ。寿命の限界を考え大量に複製されていたのだろう。

 彼女はその七番目。


 死はもう目の前まで来ている。

 足音を立てて確実に。


「お前も残されちまったか。へへ……つくづく似てるんだな。俺とお前は」


 何気ない。

 本当に何気ないひと言だった。


「……れいのんは……あうらぁの……おとーさ……ん」


 きっと泣いていたんだと思う。

 経験のないことだった。

 嬉しいのに悲しくて。

 いつかは手放さなきゃいけないと最初から分かっているのに諦め切れなくて。花嫁の父ってのは、きっとこんな心境なんだろう。


 そんなことを感じながら、レイノンは滲む視界にそびえ立つ山脈を見た。

 クレーターの外縁部である。

 月の裏側からひたすら走り抜け、ついに到達した雨の海。

 アペニン山脈を左に望む直径八十三キロにも及ぶ巨大クレーター。その名は偉大なる数学者に由来する。


「アウラ。ちっとばかし揺れるぜ?」


 そう言うとレイノンは少し速度を落とし、切り立った山脈の斜面を駆け上がった。

 ただでさえ起伏の激しい月面の地形にあって、隕石の衝突で出来たクレーターの岩肌を登っていくなどリフト・モービル以外のなにが可能にするのであろう。

 しかも正気の沙汰とは思えない猛スピードで小石を撒き散らしながら。


 山頂付近。

 レイノンはまだアクセルを開け続ける。

 切り立った斜面をジャンプ台にして、クレーター内部に飛び込んだ。

 落差千メートル級の断崖をまるで羽根のように優雅に舞う。そのまま数千メートルもの距離を落下せずに浮遊した。


 速いが止まらないことで知られるリフト・モービル脅威の推進力を、レイノンは落差からの位置エネルギーで相殺することで止めた。

 着地する。

 吹き上がる金属イオンの風は、周囲に激しく砂埃を舞い上げた。


「っしょ」


 リフト・モービルを降りたレイノンは、アウラを背負い歩き始める。


 冷えた溶岩が固まって出来たと言われるクレーターの底は、綺麗な平らであった。

 広大に広がる銀の平原を、レイノンは一歩ずつ確かめるように歩く。


 この地でも、やはり戦死者は浮遊している。

 生前最後の姿を留めたままだ。

 手足のない者や、胴にポッカリと穴が開いている者。

 千切れた手足は腐ることなく延々と宙を彷徨っている。

 骨と皮だけになって、ヘタな作り物みたいに。


 壮絶な状況を記憶する大地に、ただひとつだけ小高く盛り上がった場所がある。周囲には金属片が飛び交っており近寄るには注意を要した。


 低い丘陵の正体は、戦時中に投下された爆雷の跡だった。

 爆心地は抉れて岩盤が突出している。言ってみれば人為的に生み出されたクレーター山だ。


 盛り上がった大地に片足を失った宇宙服が横たわっていた。

 丘を背にしてうつむき、糸の切れたマリオネットにも似ている。

 割れたバイザーから干からびた故人の顔が覗く。胴を貫いた巨大なトマホークもそのままに――。


「ジェイク……」


 そばまで駆け寄ったレイノンが呼ぶ。

 在りし日の友の名前を。


「すまない……会いに来るのに随分と時間が掛かってしまったな。戦争が終わってから色々と考えちまってさ……。俺だけ生き残って皆、恨んでるだろうなぁって」


 レイノンは彼の骸をまえにして跪いた。

 神の許しを請うように。

 罪人が処刑台に首を捧げるように。


「そうだミランダに会ったぜ。アンタが自慢してたのがよく分かったよ。どエライ美人だ。クッキーも最高だった。それからさ……この子にアンタが大切にしてた地球儀のペンをくれたんだけど、貰ってもよかったのかな?」


 無心で語り掛けるレイノンは、背中に負うアウラを戦友に見せた。

 ジェイクの顔は多くの骸と同じく骨と皮だけになっていた。

 筋肉のすじ一本一本に皮が張り付いて、皺だらけだ。眼球は縮み、本来あるべき場所に小さく落ち込んでいた。

 薄くなった唇からは歯が剥き出しとなっている。


 だが――。


 そんな惨状にも拘らずレイノンはいま至福のときを迎えようとしていた。力尽き、物言わぬ友が彼を祝福する。

 永い永い時を越えて。

 彼を苦しめていた呪縛はいま解き放たれたのだ。


「そうかい……笑ってくれるのかジェイク。ありがとうよ……」


 月は死者の最後を永遠に閉じ込める。

 どれだけ永い年月が経とうともずっと。

 この深い暗闇のなかでジェイクは、おのれを手に掛けたレイノンに向かって絶えず微笑みかけてくれていたのだ。

 口の端を持ち上げた穏やかな涅槃の笑顔をずっと。


 ふと辺りを見渡した。そこには流れゆく戦友たちの亡骸がある。

 彼らの死に顔は皆、ジェイクと同じように笑顔で満たされていた――。


「みんな……ただいま」


 閉じた瞳の奥で思い出が蘇る。

 仲間たちのはしゃぐ声が聞こえた。


 生き残ってしまった自分をずっとどこかで責めていた。

 死ねない身体と自嘲して、悟りきったような諦観で毎日を過ごした。

 生きているという実感を得たくて、自ら危険を冒すこともあった。

 いつ死んでもいい。

 ここで死ねたらそれで結構だと。

 だが、今日ほど命があることに感謝した日はない。


 生きてて良かった――と。


 戦友たちとの邂逅を終えたレイノンは深い哀悼を胸に、爆撃で出来た丘を登り始める。

 アウラを背中に背負い、尖った足場を踏みしめながら。


 足元でカラカラと小石が滑落していく。

 地球の六分の一とはいえ、それでもコロニーの人工重力などとは比較にならない。久しぶりに感じる身体の重さは驚くほど骨身に沁みる。

 アウラは大丈夫だろうか。

 レイノンは自由の利かないヘルメット越しに、後ろを振り返る。

 

「アウラ。もうすぐだからなー」


「……うん」


 アウラの呼吸が聞こえる。小さく弱く。でも確実にひとつひとつ。

 間に合った。いまはそれだけで充分だった。


「ホラ! 来たぞアウラ! 見えてるか?」


 登りきった小丘の頂上から望む、いびつな波形をした稜線。クレーターを形成するその外縁山脈の向こう側から、それはやって来た。


「ち……きゅう」


 最初は光の塊だった。

 太陽の光を反射して一点から放射する光のシャワー。その眩しさに思わず瞼を閉じる。


 数分と経たぬうちに巨大な円弧がせり上がってきた。

 白い輪郭を持つ正確無比な曲線が、濃いブルーと淡い緑を内包して燦然と輝いている。


 刻々と形を変える雲海が星の脈動を伝え、まるでレイノンたちに向かって手を振っているようだった。


 アウラの感嘆の様子が手に取るように分かる。姿は見えなくともその表情を想像するのは容易だ。きっと笑っているはずだから。


「きれい……」


 月の地平線から青い宝石が顔を出した。

 全ての命の母にして故郷。この世にただひとつしかない宝物。

 だが今日だけは、アウラだけの物だ。

 レイノンからの最高の贈り物。


「れいのん」


「ん?」


「ちきゅう……げんきないの?」


「そうだな。いまじゃ、あそこに住んでる人間はほとんどいない。そうさせちまったのは人間のほうなのにな」


「れいのん……ちきゅうすき? あうら……ちきゅうなおせるよ……」


「なに?」


「あうら……れんごーにいって……ちきゅう……なおす」


「……それでいいのか。お前は?」


「こんどはあうらぁが……れいのんに……ちきゅうみせてあげるねぇ?」


 レイノンの首にしがみ付いたアウラの手がキュッと絞まる。

 別れを惜しむかのように、残された力をありったけ振り絞って。

 ふたりにはもうそれ以上の言葉は必要なかった。

 なにも言わないのが、また会おうのしるし。これはサヨナラじゃない。


 深い深い闇のなか。

 大いなる夜に浮かぶ巨大な石ころ。

 目に沁みる、清らかなブルー。


 レイノンはアウラとの約束を守った。


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