僕は、バスク風チーズケーキをムシャムシャと貪りながら思った。これで建田さんの要求もちゃんと満たせる。彼は描写を丁寧にしろといっただけで、ギャグをやるなとは言っていない。それに、ギャグはギャグでも、僕の書くギャグはマジギャグだ。
コメディの中に適当に真実をちりばめて、読者の中のアケミ像をどんどん膨らませよう。いくら僕が外伝を書き進めようと、本編のクオリティには何の影響も与えない。師匠の教えと建田さんの要求を同時に満たすには、この方法しかないはずだ。
ふと外に目をやると、目の前の道路にはパトカーが三台止まっていた。黒い服の人々が店を取り囲み、いぶかしげ眼差しで僕の事を眺めている。広尾は治安の良い高級住宅街だと聞いていたが、凶悪犯でも逃げ込んできたのだろうか?
警察官が一人、店の中に入り、僕の方に向かって来た。公僕に協力するのは、まごうことなき堅気である僕の責務だ。
「私は広尾署のものです。実はこの辺に異常者が現れたという通報があってね。君にちょっと話を聞きたいんだが……」
「そうですか。あいにく僕は見てませんが、お力になれることがあれば、何でもご協力いたしますよ」
僕はニッコリと笑ってそう答えた。警察官はちょっと、ホッとしたような顔をして僕に言った。
「じゃあ署の方まで任意同行してくれるね? 大丈夫、何か特別な事情があるなら、ちゃんと話は聞くから……」
「なんでやねん」
「なんでやねんって、君たった今、何でも協力するって言ったじゃないか!」
「異常者の捜索をするためなら協力いたしますが、僕は異常者じゃないので同行は出来ません。僕はただ、創作の神がリアルタイムで降りて来てる新進気鋭の作家です。サインをもらうなら今のうちですよ」
「わかったわかった。ちゃんとね、君の言い分も調書に残してあげるから。店の迷惑になるからね。とりあえず、ここから離れようね」
「なんでやねん」
「いいから!」
こうして僕は、四人の警官に羽交い絞めにされ、パトカーの中に引きずり込まれた。これはきっと、国家権力の横暴だ。いつから日本は、こんなディストピアな社会になってしまったのだろう?
「畜生! これはきっと僕の再起を阻もうとする、ラスプーチンの陰謀だ! 折角、堅気に戻れるところだったのに、何がどうあっても僕に前科を付けようというのか! あの事件は土佐波が勝手にやっただけで、僕は無関係だって言ってるだろぉおお‼」
僕がパトカーの中でそう叫んだ時、車窓の外に立つ建田さんの姿を僕は認めた。その口角は少し吊り上がっていた。
そうか、僕を嵌めたのはラスプーチンじゃなかったんだ。あの人は最初から、僕の才能を潰すつもりで難癖をつけてたんだ。畜生! 一体いつから、僕の事を裏切っていた? 貴方の事だけは信じていたのに……。
建田さんの姿が次第に遠ざかっていく。僕は少しずつ冷静になっていく頭の中で、「これって民事で済むのかな……」と考えていた。そして、二日後。
「今回は店側の意向もあり釈放しますが、もう二度とこんな騒ぎは起こさないように」
広尾署の警察官が僕に言った。弁護士の稲見先生がすぐに動いてくれて、店側と示談をまとめてくれたのだ。三日分の売り上げの支払いと、壊した器物の弁償、そして、『店には二度と立ち入りません』という一筆を差し入れることで、被害届を取り下げて貰えたらしい。
「今後は身の程をわきまえます。本当に申し訳ありませんでした」
僕はそう答え、警察署から出た。四十八時間ぶりの娑婆だった。金融犯罪ならいくらだって言い逃れできるが、今回は本当に危ない所だった。門の前には身元引受人であるえつ子さんが立っていた。彼女は師匠の婚外子で、師匠が亡くなった後は、彼の義兄弟である赤瀬川さんの養女となっている。血のつながりこそないものの、僕にとっては従姉のような女性だ。
「こんなには前があるんじゃけえ。あんまり無理はせんのよ」
「すみません、姉さん……」
そんな会話を交わしながら、雨の中を二人で歩く。別にえつ子さんは広島出身じゃないし、僕にも前科はない。これは僕が警察署に留置されたり、小菅のワンルームにショートステイする際に交わすお決まりの会話だ。二人とも『仁義なき戦い』が大好きなのである。
「先生がおらんかったら、こんなはもう何べんも刑務所にゃあ行っとるよ」
「間尺に合わん戦したのう……。こがいな事件で、先生をまた儲けさせてしもうた」
「そがいなバカなこと言わんで、ちゃんとお礼をするんよ」
「わかったよ、姉さん……」
もういい加減、仁義ごっこは飽きたから、普通の口調に戻そうと僕は思った。
「せっかく傑作が出来たのに、あのどさくさでデータが全部飛んじゃったんですよ。大損だったなあ!」
「そがいなことしるかい! 今日はまだ飲んどらんのじゃけぇ、はよう飲ませぇ!」
「わかりました、姉さん……」
えつ子さんの方は、まだ仁義弁が抜けてないらしい。僕らはその場でタクシーを拾い、赤瀬川さんの経営する店に向かった。
後部座席に乗り込み、隣に座るえつ子さんの横顔を眺める。三十歳を超えた今でも、えつ子さんは黙っていれば相応な美人だ。黒髪ロングの清楚風な人妻で、とても酒瓶でヤクザを殴る人間には見えない。
彼女は父親譲りの好戦的な性格と、赤瀬川さん譲りのクンロクの話術と、自身のアルコール依存症のせいで、いつも黒々としたオーラをまとっていた。話すのが遅れたが、彼女もまた『DJ全力』の中の人の一人である。
DJ全力とは、僕がまだ『伊集院アケミ』を名乗る前、僕がえつ子さんやDJ君と共に管理していたツイッターのアカウント名だ。毎日のように相場情報を発信し、ピーク時には一万五千人以上のフォロワーが居た。
「えつ子さん。この二日で、何か変わった事はありましたか?」
「特に何も。多分、DJ君が上手くやってくれてると思うよ。私は、フォーナイン飲んで寝てたからよく分からない」
「赤瀬川さんは?」
「オヤジは、猫の全力さんと遊んでたよ。いつもどーり」
二十四時間体制でツイートやリプを行うために、DJ垢は三人で管理していて、えつ子さんは中の人の一人だった。全力さんとは赤瀬川さんの飼っている猫の名前で、僕やDJ君はそのお世話係だった。
仕事中にあれほどナチュラルに酒を飲みだす女性を、僕は彼女以外に知らない。昼間は大体、酒を飲みながらツイッターをしてるか、飲み過ぎてそのまま寝ていた。夜中に時々、飲んだくれた様子で電話してくるから、家でもずっと飲んでいるのだろう。
「もうすぐ、師匠の十三回忌ですね」
「そうだね」
「何かやるんですか?」
「オヤジが張り切ってるよ。筋者も一杯くるんじゃないかな?」
「生きてる時は命まで狙ってきたのに、変われば変わるものですね」
「死んだらみんな良い人でしょ、この国は。ヤクザにあれだけ大損させた堅気も、そうはいないと思うけどね」
そういって、えつ子さんは、ほんの少しだけ笑った。えつ子さんは赤瀬川さんに勝るとも劣らないくらい暴力的な女性だが、父親の話をしている時だけは比較的穏やかなのである。
「面白かったんだと思いますよ。なんだかんだ言って、剣乃さんの相場は……」
「そうだね」
師匠がえつ子さんの母と籍を入れなかったのは、「相場師は家族を持ってはならない」というポリシーからだった。守るものを持つことは、相場の世界ではマイナスにしかならない。実際、法的には最後まで独身のまま、師匠はこの世を去った。
だけど師匠は、二人の事をちゃんと愛していたと思う。養育費は十分に渡していたし、時々こっそり二人に会いに行っていた。師匠の運転手をやっていた僕は、その事をよく知っている。
えつ子さんが師匠の実の娘であることを知っているのは、僕と赤瀬川さんの二人だけだ。相棒であるDJ君にすら、その事実は話していない。そういう複雑な環境に育ったせいか、彼女は父親の事を愛しているにもかかわらず、家庭的なものの全てを憎んでいた。
彼女が結婚したのは、師匠の血筋を絶やさないためだという。
「体外受精で作ったから、セックスとかしたことないし」
というのが、えつ子さんの口癖だった。多分それは嘘だと思うけど、彼女が家庭にほとんど関心がないことだけは確かだ。旦那は一流の商社マンで、お金には全然困ってないから、家の事は全て家政婦に任せきりらしい。
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