就職浪人が続いた。僕は大学院の臨床心理学過程を修了し、心理士の資格を取った。そこまでは順調だったのだが、一切就職先が決まらなかった。
どうしても精神科医療に携わりたいというこだわりがそうさせたのかもしれない。幸い家は裕福ではなかったが貧しくはなかったので、働いていない僕を許容してくれた。
大学院時代の友人は全員、在学中に就職先が決まっていた。ただ、僕は就職活動こそしていたものの、このあたりの精神科病院には空きがなく、それよりも多忙な大学院生活に気を取られて大学院を修了するまで就職先を決めることがままならなかった。
新卒採用にもれた僕は、大学院の修了式に胃が痛い思いで参加した。苦しい大学院生活から解放される喜びは、そこにはなかった。
大学院を去る直前まで、就職課に通い続けたものの、「今、この近辺で精神科病院の求人はない」と一蹴されるだけだった。
家計のこともあり、遠くへは引っ越せない。親は精神科病院にこだわらずにほかの求人を探すようにしつこく言ってきたが、僕はどうしても精神科病院にこだわっていた。それは精神科医療に魅了されていたからだろう。どうしてそんなことを考えているのかわからない。在学中、指導教官による教育分析のテーマにあげてもよかったが、それには抵抗があった。カウンセリングやセラピーを行いたいと思っているのに、自分がそれを受けることに対する抵抗があったからだ。自分の本質、それが変わってしまうことに恐れを感じていた。
この頑なな自分の理想が、まるで自分自身であるかのように感じていた。だからそれが変わるのは、とても恐ろしかった。
毎日のようにハローワークに通い続け、ある日、とある精神科病院が心理士の求人を出しているのを見つけた。
僕は飛び上がりそうなほど喜んだが、よく考えれば職にあぶれている心理士などごまんといる。しかもこれは中途採用であり、新卒の切符を無駄にしてしまった僕には難しいものであるとすぐに理解した。
それでもと、僕はその求人に応募した。カラ求人かもしれない。経験のある人しか採用しないのかもしれない。そんな疑いもありながら、だがその求人に縋るようにして、僕は応募した。
面接では資格の有無を問われ、それだけは自信をもって答えられた。あとは、論文の話ぐらいしかできない。
しかし、面接官は、それ以上何も尋ねなかった。そして即採用となった。
僕は現実が呑み込めないまま、その重永病院に勤務することになった。
社会人のマナーなど知らない僕は、まだ学生気分が尾を引いたまま、その重永病院に勤め始めた。もっとも、大学院はかなり厳しかったから、久々に気が引き締まった。
だが、右も左もわからない。案内してくれたのはあの時の面接官でもあった、医師の大河内先生だった。初老の男性医師は、多忙な勤務時間を割いて僕を案内してくれているのだと思うと、いたたまれない思いだった。
「柳原さん、ここを使って下さい」
あてがわれたのは物置のような小さな一室。段ボールに資料が大量に置かれ、あるのは机と椅子のみ。僕は目を疑った。
「ほかの心理士さんとかは……」
「きみには入院患者のカウンセリングを担当してもらう。他の心理士は外来担当だから、リハビリテーション科にいる。わからないことがあったらそこまで行ってきくように」
大河内先生は去ろうとしたが、立ち止まっていった。
「私は医局にいる。だがきみが来たら面倒だから、専用のPHSを渡しておく」
どうしてか、大河内先生との専用PHSが渡される。病院実習を思い出しながら、鈍感な僕でも何かがおかしいと感じ始めていた。
「今度、検査をしてもらいたい患者がいる。検査は慣れないだろうから、基本的な検査はすべてほかの心理士に任せる。今考えているのはWAISとMASとCARS、YG、IES-R。ただ、人格査定の投影法の検査だけ、きみのできるものを選んでやってくれ。所見はカルテに挟んでおけばいい」
いきなり投影法か、と思いながらできそうなものなんて何があるだろうと考えた。ロールシャッハは自信がないし、SCTも経験不足。バウムかな、などと考えていた。
「じゃあ、よろしく」
「すみません」
「何か?」
「その患者さんのカルテは見せてもらえないのですか?」
「検査の時渡すから、その時に見ればいい」
そのまま大河内先生は去っていった。
CARSということは発達障害の疑いなのかな? IES-Rって、PTSDの検査じゃなかったっけ。大学院時時代の知識が思い起こされ、患者像を想像するが、それ以上のことは考えると先入観になりそうだからやめておくことにした。
バウムの準備をして、検査当日になった。見せてもらったカルテには、患者の名前、性別、生年月日が書かれていた。
「樋宮契か……、今23歳。大学生か、社会人一年目ってところかな。僕と大して状況に差はないかもしれない」
それ以上考えると自己認知のスキーマで彼女を捉えてしまいそうになると思い、考えないことにした。
ページをめくる。しかし、驚くことに主訴、来談経緯、生活歴、家族歴、既往歴……、何も書かれていなかった。そして古びた紙に大河内先生の挙げていた検査の結果が書かれていた。おそらくずいぶん前に検査をしたものだろう。検査の日付を見ると、5年前のものだった。
カルテの検査のページの一ページ前には入院時診察をした医師の名前が書かれていた。大河内先生と戸川先生。医療保護入院らしい。理由は“不穏”の一言。
「23歳なのに5年も入院してるのか?」
社会的入院と考えるのもおかしい。奇妙なことばかりだった。
「なんだこれ……」
病院実習で見たカルテと明らかに違う、異質なカルテであることは僕にでもすぐに分かった。
とりあえず、心理検査の所見に目を通した。
WAISはどの項目も知能が高かった。片側2.5%に入るほど、つまりIQ114以上。MASはとても点数が高かったが、そもそもMASという検査は点数が高くなりがちだ。不安の程度が極端に大きいとは断言できないだろう。CARSからは発達障害の可能性は否定されていた。YGはE型の不安定内向型で、それを加味すればMASの点数が高いのは検査自体のバイアスではなく本当に不安が強いのかもしれない。IES-Rの点数はカットオフ値をはるかに超えた値で、PTSDに該当していた。もっともIES-Rはスクリーニング検査なので確定診断はできないが。
だが、いずれの検査の所見にも違和感を覚えた。心理士の観察法による所見の部分だ。
「尊大で、横柄な態度。注意力はあるが、会話の際は非言語コミュニケーションを多用し、会話をするときは会話に夢中になり会話しかできない。あるいは検査を受けているときは黙々と検査を受け続ける。継次的な処理をしているのではないかとも考えたが、WAISのワーキングメモリの値は高く、また、検査の受検中は心理士との会話を無視しているのではないかと思われる。あるいは、ラポールの形成ができていたと感じていたが、それは検査者の主観で、被検者は検査者を信用していなかったのではないか」
少しばかり答えが見えた気がした。ラポールの形成が難しい患者がいる、心理士をだますような患者がいるので、その相手を僕にさせようということか。要は面倒な患者を押し付けられたのだ。
そうでもなくちゃ僕なんか採用しないよな、などと考えながら、だが、やはりどうして僕だったのだろうと疑問を感じながら面接室へ向かった――。
一章 未熟な助産師
「初めまして。検査を受け持つ柳原といいます」
目の前には患者である樋宮契はそっけない雰囲気で、退屈そうに足を組んでいた。僕の存在などどこ吹く風で、首を傾けたり、伸びをしたり、自由気ままだった。横柄な態度とはこういうことか、と思った。
すると彼女は僕に話しかけた。
「久しぶりの検査ね。ずっと病棟にいると退屈だから、退屈しのぎにはなるわ」
そういってわずかにほほ笑んだ。
「まず、お名前を確認させていただいていいですか? 樋宮契さんで間違いありませんか?」
「私は樋宮ミツキよ。美しいと書いて月。美月。契なんて変な名前じゃない」
「でもカルテには――」
「あんまり信用しないほうがいいわ」
僕はそれをメモに残し、とりあえず検査を始めることにした。
「では、検査を始めましょうか? 体調不良とかそういったことはないですか?」
彼女は何も答えない。
仕方なしにカバンから専用のA4サイズの用紙と、鉛筆、消しゴムを取り出した。
「ここに、一本の実のなる木を書いてください」
彼女はその検査具をしばらく見つめてから言った。
「嫌よ」
「えっ、どうして?」
どんな検査でも被検者は協力的だと思い込んでいた僕は臨床経験の不足を思い知らされた。
「ふふっ、そんな顔しないでよ。面白い人ね」
僕は内心冷や汗が出ていた。口の中が乾いていたかもしれない。だが何とかして検査を受けさせなければならないとラポール形成に努めた。
「これは……、あなたの治療に役立てるためのものです。ご協力お願いします」
うまい言葉が見つからなかった僕は、真正直にそういった。
「心理士って狸ばかりだと思ってたけど、あなたのような間抜けもいるのね。いいわ、本当に治療に役立てられるものなら、検査を受けてあげる」
言葉に引っかかりを感じる。絶対にこのバウムテストが治療の方針の決定因子になるとは限らない。だが、なんとかドクターのリファーに応えなければならない。ドクターの方が、心理士よりずっと偉いのだから。
「そうですね……、役立つと思います」
彼女は笑った。
「きっと役立たないわ」
そういってさらさらと紙にバウムを描いた。
そのバウムは年の割に幼い、という印象を受けた。幹先端処理が全くできておらず、ただ一本の横線で閉ざされている。丸い樹冠は手を抜いたというような感じだが、筆圧は高い。地平線はしっかり描かれている。根は描かれていない。幹から枝分かれた線は、途中で折れ、幹には黒い縦線で木の筋が表現され、同時に洞のようなものに小鳥が巣をつくっている。そして実は描かれていなかった。
奇妙なところに力を入れ、そして奇妙に力を抜いているのだなと、いびつな印象を受けるバウムに、僕は戸惑ってしまった。
「こんなものが役立つの?」
「え、ええ……。実は描かなかったのですか?」
「ええ。実のなってる姿なんて好きじゃないわ。この小鳥は洞に動物が隠したこの木の実の上に住んでるの。だから小鳥と隠した動物、そうね、リスかな。きっと木の実はどんぐりで、よくバトルになるの。小鳥がいない間にリスが来て木の実を隠したり、もっていったりしていく。小鳥が戻ってきたらバトルになるの。ふふっ、面白いでしょう?」
僕は何を答えればいいかわからなかった。実習でバウムテストはしたことがあったが、こんなわけわからないのは初めてだ。
ふと、別の心理士の検査所見を思い出した。「信じていないのかもしれない」ということ。樋宮さんはまだ、僕で遊んでいるのかもしれない。そういう考えが頭をよぎった。
僕は、急遽二枚法で実施することにした。
「では、こちらに一本の実のなる木を描いてください」
もう一枚の紙を差し出し、またバウムを描かせた。本来なら一気に二枚描かせて二枚目を採用するという二枚法というものがあるのだが、変則的にはなるものの、そもそもこの心理検査自体、テストバッテリーの間で何年も間の空いている奇妙なものだから、少々どうでもいいと思いながら――そんなことを思ってはいけないのだが――半ばやけっぱちで二枚目を差し出した。
樋宮さんは明らかにめんどくさそうな表情をした。ため息をついて僕に言った。
「絵を描くのも意外と疲れるのよ。まあ、心理士さんならやったことあると思うけど」
僕は再び教示を繰り返した。
「一本の実のなる木を描いてください」
大きなため息を吐いた後、彼女は鉛筆の替えを求めた。それに応じて鉛筆を渡すと、彼女はものすごい集中力で絵を描き始めた。
その時間はあまりに長かった。観察している僕も疲れてくるが、それ以上に目の前の光景に目を疑った。
バウムテストの研究をする際、美大生の木の絵と比較することがある。そんな研究を目にしたときの美大生の絵そのものを、樋宮さんは描いてしまった。つまり、非常に写実的で、完成された非の打ちどころのないリアルなバウム。分析のしようがない。これは彼女なりの仕返しだったのだろうか。
僕は「これは何の木ですか?」などとありきたりな質問をして、そしてバウムテストを終えた。
検査が終わり、樋宮さんと部屋から出ながら所見をどうするか考えると、冬であるにもかかわらず、冷や汗が出るのを覚えた。
「樋宮さんは10病棟ですね。看護師さんを呼んで迎えに来させます」
PHSで10病棟のナースステーションに電話をかける。その時の声は震えていただろう――。
僕は自室に戻ると、PHSでリハビリテーション科にかけた。先輩の心理士の指導を仰ぐためだ。
「リハビリテーション科の山尾です」
「すみません、柳原です。心理士の先生の指導を仰ぎたくて……」
この重永病院の心理士の所属するリハビリテーション科へは挨拶にはいったが、奇妙な空気を感じただけだった。だからできる限り電話はかけたくなかった。
「心理士のまとめ役は井口さんなので、そちらへ回します」
しばらくのコール音ののち、井口さんにつながった。
「井口です」
「すみません、柳原です」
「ああ……、それで、何?」
「今お時間大丈夫ですか?」
「時間は大丈夫だけど……。用件は?」
「樋宮さんの検査結果の解釈に困っていまして、ご教授願えないかと思いまして……」
井口心理士は「あっ」とだけ言うと言葉に詰まった。
「井口さん?」
「ごめんなさい。あなたも災難ね。別に、いじめてるわけじゃないからね。それじゃ――」
ぷつりとPHSは切れてしまった。
「なんなんだ一体……」
僕はとりあえずの所見を書くことにした。やけっぱちで書いてしまって、そしてそれを大河内先生に渡す。あの樋宮って患者は何か普通じゃないことがある。
病院の図書室に行って、バウムテストの資料と論文を片っ端から借りてきた。
読むスピードだけは大学院での先行研究の精読で鍛えられたから、自信はあった。とりあえず、資料提出に特に期限はない。だが、あの光景、情景を覚えているうちに書かなければリアルな所見は書けない。
ふと、これが心理士としての初めての仕事であることを思い出し、少しばかり気持ちが高ぶりながら描かれた絵の所見を書いていった――。
全体として幼い印象を持った。二枚法を採用したが、二枚目は手の込んだ仕返しだった。知能は高いのかもしれないが、人格的には幼い。一枚目を解釈すると、樹冠が丸い、幹先端処理を横棒一本にしてしまっている。洞に奇妙なこだわりを持ち、夢見がちな空想を描いている。りすと小鳥がバトルするなら雛はどうなのだろうとか、少々考えが及んでいない側面もある。樹冠より、自我は強固で、内的エネルギーが外部に漏れている様子はない。幹先端処理の横一本の線は、エネルギーを抑圧している可能性がある。また、考えが柔軟でなく、外界に対して自己を閉ざしている可能性がある。幹の縦の線が多く、抑うつ的な思考をしている可能性がある。
洞の位置を計り、生活年齢を割った場合、17歳相当に位置する。心的外傷の可能性が示唆され、それは17歳程度ではないかと推測される。
枝の先が折れていることから、何らかの挫折等があったのかもしれない。枝の折れている位置が、ちょうど洞の位置と水平なのは興味深い……。
「ああもう! これでいいや!」
僕はカルテに所見とバウムをはさむと、大河内先生にPHSで電話を掛けた。今は診察中ではないだろう。
「大河内先生、柳原です。所見が書けて――」
「いちいち報告しなくていい。カルテは事務所に戻しておきなさい」
思い切りため息をついて、事務所へカルテをもっていった。
僕は、この病院に来ても、ほとんど誰とも話をしていない。あのたった一回の樋宮さんの検査くらいしか、人間的な交流をもっていない――。
自室でぼーっとしていると、PHSが鳴った。大河内先生直通の方だ。
「はい、柳原です」
「あの検査結果でいい。他の検査結果を含めた見立ては?」
「見立て? 人格的に幼いだけで、知能も高く、不安やトラウマ、若干の抑うつがあるようですが……そもそも主訴がわからないのでなんの病気なのか見当も……」
「そうか。彼女は病識のない解離性障害として接してくれ。カウンセリングを頼む。記録はカルテに書いていけばいい。報告は不要だ。看護師にセッティングを依頼しておく。週1回でいいだろう。ただ、治す必要はない」
「え、でも情報が何も――」
「そのくらい自分で聴き出しなさい」
PHSが切れた。
僕はしばらくしてようやく現実が呑み込めた。
「あの人のカウンセリング、マジでするの……?」
「柳原先生、気分が沈んでいますか?」
僕がカウンセリングを担当するという前に、席に着いた樋宮さんはそう言った。
「いえ。そんなことありませんよ」
「私の担当だから?」
「いえ、まさか」
「そっか……」
僕が沈んでいるのはばれている。「個人的なことがちょっとあった」とでも言っておいた方が良かったかもしれない。彼女は自分の担当になったことが憂鬱なのだと見透かしている。
「私の担当はいつも疲れちゃうの。私も気を遣うんだけどね。でもそれも疲れちゃってカウンセリングなんてどうでもよくなって」
「大丈夫ですよ」
僕はそう言ったが、何が大丈夫なのかさっぱりわからない。
「今日は初回なのでいろいろとお話を伺えればと思います。えっと、お名前は?」
「二回目でしょ。樋宮美月。年齢は23。女性。主訴はなし。来談経緯は不明。生活歴はわからない。既往歴もわからない。家族歴もわからない。なんにもわからない“はず”」
僕がカルテに持っていた疑問をそのまま「わからない」と言っただけだった。
ただ、最後に「はず」とつけたことが気になった。
「わからない“はず”というのは?」
「柳原先生にはわからない“はず”。そしてこれからもわかることはない。なぜなら私もわからないから」
「過去の記憶がないのですか?」
大河内先生から解離性障害として接してくれと言われていたことを思い出す。カルテには樋宮“契”と書いてあったのに、“美月”を名乗るあたり、もしかすると交代人格とか存在するのかもしれない。
解離性同一性障害のことを考えていると樋宮さんは言った。
「私、解離性障害でも解離性同一性障害でもないから。ほとんどの記憶はないけどね」
「ほとんどというと、何か記憶に残っていることがあるのですか?」
「“彼”」
「彼?」
「その彼の記憶だけははっきりと覚えている」
「それは誰ですか?」
そこで樋宮さんは嫌そうに首を傾げた。
「柳原先生、かなり若そうだけど、臨床経験どのくらいなの?」
そういわれて、大学院だけなんて言えなかった。
「答えられないのね。まあいいわ。どうせカウンセリングになんて何も期待してないし。話し相手をあてがわれたのでしょう。まあ、病棟にいると暇だから、暇つぶしにはなるかな」
「何か、こうなりたいとか、これを解決したいというものはありますか? ここは病院ですから病気のことでも構いません」
心理士としてのプライドを傷つけられた気がしたので、腹が立つのを抑えながら努めて冷静に、仮初の主訴を聴きだそうとした。まずは動機づけからだ。
「そうね……、特にないかな」
誘導になると思いながらも僕は言った。
「この病院から退院したいとか、そういうのはないのですか? いつまでも入院しているのは息苦しいでしょう?」
「そうでもないかな。三食出るし、結構おいしい。寝るところも困らないし、別に服装だってなんだっていい。困ることなんてないかな」
「それなら、やってみたいこととかないのですか? 欲求というか、叶えたい夢とか」
「ねえ、柳原先生、何をムキになってるの? 必死に私に面接に動機づけようとさせてるのがバレバレだよ。他の心理士はもっと見えないように話してたけどな。もっとも、真綿で首を締められるようで気持ち悪かったけど」
万事休す、という気持ちだった。院でのカウンセリングのクライエントがいかに教授によって厳選されていた人だったのか、思い知らされた。難しい人は教授がカウンセリングを行っていたのだ。
「でもさ、柳原先生みたいな人は、仲良くできそうな気がする。だって素直だもん」
仲良くするのがカウンセリングではないと思いながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。
「それは、ありがとうございます」
「友達なら、少しは話してあげてもいいかな。“彼”のこと」
思わぬ申し出に、僕は息をのんだ。引っかかった釣り針から絶対に逃さないよう、慎重に気配をコントロールした。
「恋バナみたいだけど、ちょっと悲しい話なんだ」
「どんな話ですか?」
「彼はね、もうこの世にいないの。柳原先生は殺してしまいたいほど人を好きになったことはある?」
ふと自分を振返り、勉強ばかりしていたつまらない学生生活を思い出す。だがそんなことはどうでもよくて、これは樋宮さんのカウンセリングなんだ。恋バナをしている場合ではない。
「その人のことが殺してしまいたいほど好きだったんですね」
「まあ、そういうことだけど、柳原先生にはそういう経験なさそうだね。対人関係すごく不器用そうだし」
「殺してしまいたいほど好きだった人が亡くなったら、それは悲しいのですか? うれしいとは違うと思いますけど」
樋宮さんはため息を吐いた。
「よく心理士になれたね。殺してしまいたい“ほど”でしょ? 本当に殺しはしないわ。まさか別人格の時に“彼”を殺して医療観察法で措置入院になってるなんて妄想膨らませてないでしょうね」
「そんなこと考えてませんよ。ただ、殺したいほど好きというのがわからなくて。どんな感じなのですか?」
「そうね、死んじゃったからそう思うのかな。あんな死に方をするなら、私が殺したかった。彼は私の理想だったの」
青年期の恋愛は相手に理想を見出しやすいと分析系の本に書いてあったのを思い出す。そういう意味では、23にしては若干幼いのかもしれないが、バウムに見る程極端に――例えば児童期ぐらい――人格が未発達というわけでもなさそうだった。
「理想ですか」
「そう、理想なの。別にアイドル追っかけるような理想じゃないわ。ただ、それは理想そのものだった」
転移を考えれば彼が“理想そのもの”にまで持ち上げられることも想像に難くない。恋は盲目ということだ。今までの話をまとめると、その理想的な彼が亡くなったことがトラウマで、解離性障害を発症した、というのが素直な経過の説明になると思うが、それには何か直感的な違和感があった。
違和感があったので、その仮説、解釈は口にしなかった。ただ、“彼”と喪の仕事ができていない可能性があると思い、“彼”について尋ねていくことにした。
仮初の主訴、つまり、一般的に「これこれに困っています」といって来談する主訴は聴きだせなかったが、本質的な主訴、無意識的にクライエントが抱えている本当に困っていることについては聴きだせたと思う。それは“彼”の死を受け入れられないということだという仮説――言葉にできない違和感は残っていたが。
「“彼”というのはどんな人だったのですか? 名前を教えてもらうことはできますか?」
「名前……、わからないわ。でも、ずっとそばにいてくれた」
「名前がわからないのにそばにいた?」
「そう。でも……、そんなに不思議なことじゃない。そういうこともあるのだと、丸暗記しておいて」
「わかりました。ずっとそばにいてくれたら、どんな気持ちでしたか?」
「そばにいてくれるといっても、遠いの。でも包まれているような温かさがあった。死んでしまって、すべて消えてしまったけど。それならば殺してしまいたかった」
婉曲的で抽象的な表現に、僕は頭がついていかない。彼に対する感情を聴きたかったので、もう少し具体的に尋ねることにした。
「彼といるとどんな感じでしたか? あったかいとか、心地よいとか、あるいは不安とか」
「それが彼だったの。そのことに気づけなくて、気づいたら彼は死んでいた。それなら私が殺しておくべきだった」
「ごめんなさい、想像ができない。彼がどんな存在なのか、想像ができません。もっと具体的に言ってほしいです」
「そうね。彼はね……、ごめんなさい。この話はもうやめましょう。ちょっと疲れてきた。今日のカウンセリングは終わりたい」
確かに、もう1時間経っていた。初回面接だから全体像を聴きだせればよかったのだが、何もわからないということから樋宮さんの話したいことを話してもらった。もっとも、主訴の仮説は立てられた。そして治療的介入のヒントも――。
「じゃあ、10病棟の看護師さんに迎えに来てもらいますね」
「はい」
僕はPHSで電話を掛けながら思い出した。
大河内先生は「治療はしてはいけない」と言っていたことを――。
ほぼ倉庫の自室に戻り、僕はカルテに記入していた。普通の患者のカルテなら素直に成果や観察した内容とか、書いていけばいいはずだ。でも治療をするなと言われていたところに、治療的介入をしてしまった。
僕は、まだ介入をしていないと自分に言い聞かせながら主訴の把握までを書いた。だが、主訴の把握もある程度の治療的な性質を持つことから、結局怖くなってカルテを閉じた。事務室へ持っていき、定時になったことに気づくと、何も考えずに寝ようと帰路に就いた。
途中、アルコールでも買おうかと思ったが、アルコール依存症とウェルニッケ・コルサコフ症候群の恐ろしさを思い出し、変なことばかり習ってしまったと、代わりにタバコを買って家に帰った。
翌週、僕は二回目の樋宮さんのカウンセリングを行う日になった。
それまでの間、一切ほかの患者さんと会話する機会すら設けてもらえず、あまりにも暇なのでひたすら倉庫整理をしていた。これってハラスメントなのではないかなどと考えながら。
樋宮さんのカルテを取りに行く。事務室で受け取り中を開いてみると何かが書き加えられていた。
――落ち着かない様子で、医師の言葉への応答性は低い。意識は明瞭であり、何か別のことを考えているよう。心理士には患者の主訴、あるいは懸念事項の把握を求める。なお、“彼”についてはあいまいな表現を何度も繰り返しており、明瞭に語ることはない。別の角度からのアプローチを心理士に求める――
最後に大河内先生のシャチハタが押されていた。
診察の様子はあまり細かくは書かれていなかったが、少なくとも投薬がないことは分かった。治療の第一選択は薬物療法だと習ったが、それでも入院患者にカウンセリングの指示を出すのは何か理由があるのだろうか。
いぶかしみながら僕は面談室へ向かった。
面談室で待っていると、樋宮さんが入ってきた。
「こんにちは」
彼女はそう挨拶をした。もうお昼過ぎだから、確かにそういう挨拶の時間だ。
「こんにちは」
僕はそれで黙った。彼女が話しやすいように、雰囲気を醸し出すように努めた。カウンセリングは主訴を聴きだすにはクライエントから話を引き出すべきで、僕が余計なことを言う必要はない。
しばらく黙っていると、樋宮さんは僕の表情を伺いながら戸惑ったように、言葉を紡ぎ始めた。
「“彼”の話だけど……」
「“彼”についてですか?」
やはり、主訴は“彼”についてなのだろうか。
「彼は死んでしまった。私は彼を殺すべきだった……」
「殺したら殺人になりますよ」
「そうはならない」
「どういうことですか?」
「そのままの意味よ。彼を殺しても罰は受けない。罪かもしれないけれど」
心理検査では具体的な思考、表現ができないというようなことはわからなかった。押しなべて知能は高く、具体的に物事を考えることはできるはずだ。CARSでは発達障害にも該当していなかった。発達障害では抽象的に考えることが苦手であると聞くが、彼女はそれに当てはまらない。
この婉曲的な表現には、何か意味があるのだろうか。“わかってほしい”というのは神経症的な欲求であり、彼女も神経症的な傾向があることから、わかってほしいと思うはずなのだが、それが垣間見られない。精神病なども疑った方がいいのだろうか。でも医師の診断としては解離性障害ということになっている。神経症だ。ただ、大河内先生の言い方に引っかかりを覚えた。「病識のない解離性障害“として”接して」という表現。統合失調症でなくても、精神疾患は病識がないことはよくある話であり、それにはあまり違和感は覚えなかったのだが、“として”という表現に理解が及ばなかった。それは精神疾患の、「病気か、病気ではないか」という問題の話だろうと最初は思っていた。本当は病気ではないが、病気として治療することで寛解する、あるいはすっかり精神の悩みなんてどうでもよくなってしまうパターンかと思った。だが、それにしては彼女は何かを隠すというか、偽り続けているように思えた。その婉曲的な表現は、意図的に「隠している」と形容するのが最も適切だった。そうなると病気ですらないし、病気“として”治療しなければならない悩みですらない。人格の偏りか、何なのかわからない。そもそもどうしてこの病院に入院しているのか。この程度なら外来で対応可能ではないのか……。
「――先生?」
「え?」
「柳原先生」
「あ、何ですか?」
「考え込んでたから。心理士の先生が考え込むなんてなかなか見る機会なんてないから、なかなか面白かったけど」
そういって樋宮さんは笑った。
「そう?」
僕は追従笑いをした。
「彼はどうして亡くなったのですか?」
つい、そんな疑問が口からこぼれた。それはほぼ無意識的なものだった。何の根拠も持たない問いかけはよくないとはわかっているはずなのに。
「それは……、私を治してくれればいいの。それだけ」
「解離性障害を治したい?」
「え? かいり? そんな病気じゃないはずよ」
治すなと言われていたことを思い出しながら、そして解離性障害とは彼女に伝えていない担当医がよくわからなくなってきていた。
「先生から病気についてはどんな説明を受けていますか?」
「私は……、誰にも話すなって……」
「誰にも話すな!?」
「えっと、ええ、まあ……。先生、ちょと怖いです」
僕は驚きと戸惑いに絶句していた。病気のことを説明して、それを誰にも話すなと説明するなんて聞いたことがない。むしろ病気については患者に抵抗がなければ開示して、周囲の人間に合理的配慮を求めていくという話をするくらいだ。第一、父権的な医療モデルは過去のもので、さらに言えば、その父権的な医療モデルでさえ、病気について、診察室の中の出来事について口外するなとは言わないはずだ。
だが、そこでふと考えついた。CARSを信用しすぎているのかもしれないと。他のテストも押しなべて発達障害を否定するようなものばかりだったが、もしかしたら、発達障害的で少しおしゃべりなのかもしれない。ゆえに、口外しすぎないよう、ドクターは病気についてはくぎを刺しているのかもしれない。病気が治ったとき、療養中の出来事や考えが社会的にマイナスにならないよう配慮するのはよくあることだ。
考えることが多すぎる。カウンセリングってこんなに大変だったっけ。大学院時代の感覚をほぼ忘れてしまっている中で、さらに病院という大学の心理相談室とは違う環境でカウンセリングを指導なしにさせられて、息が詰まりそうだった。
「大丈夫ですか、柳原先生? 顔色悪いですよ」
「え、いや、なんでもないです。それで、その話すなと言われた内容は、私には話していただけないものですか?」
「……大河内先生との間の約束だから」
やはり主治医は大河内先生だったのだと、今さらながらに知った。
「わかりました。ところで病気をなおしたいと思われるのですね」
「……病気を治したいわけじゃないかな。ただ、“私を”治したい」
「樋宮さんを治す?」
「うーん……、ちょっと違うかな。“私”を治したい」
「その“私”というのは、具体的にはどんなものですか?」
「そうね……、切断?」
「切断?」
「断絶、かな」
「もうちょっと詳しく教えてもらってもいいですか?」
「これ以上は言えない。でも、私の中には断絶がある。それだけ」
気づくと面接時間も終わろうとしていた。僕はなんてまとめればいいのかわからず、ただぼんやりとしていた。
机の端においてある時計の長針が12を指した時、やり残した仕事に徒労を覚えた。
「時間になったので、今日は終わりにしましょう」
「はい」
いつものように看護師を呼び、樋宮さんは病棟へ帰っていく。
ふと、樋宮さんは立ち止まり、振り返って言った。
「あなたがあなたでなくなったとき、そこから先、生きていける?」
樋宮さんは静かに笑って、そしてそれは悲しそうだった。
自室という名の倉庫に戻る。カルテを開いて何を書こうか迷っていた。
「結局なんだったんだ……」
今回の面接時間を全くの無駄にしてしまったのではないかと焦燥感にペンが震えた。
とりあえずその場しのぎのようなことを書き、適当に埋めて事務室へ持っていった。まるで学校の先生に採点される、勉強していない科目のテスト用紙を提出する気分だった。
だが、それはまだ学生気分が抜けていない証だった。
深淵は、まだ少しばかり覗いたに過ぎなかった――。
二章 完成された不条理
第三回のカウンセリング。その日、いつもの自室という名の倉庫で僕は恐る恐るカルテを開いた。大河内先生の印の押された文言が書かれていた。
見たくないと思いながらも仕方なく読んでいく。
「症状に変化なし。言動にも変化なし。いつものように黙りつづけて、時折冷たいまなざしを向けてくる」
“彼”の話はしないのだろうか。僕にはしてくれたが、ずっと黙りつづけているというのはおかしい。僕に話せば大河内先生にも伝わるということは知能がそう高くなくとも容易に推測が付くはずだ。
少々疑問を感じながら、面談室へ向かう。
彼女が座っている。目を反らしながら黙っている。
いつまでも黙っていて、待つのもアリかとも思ったが、もう20分も黙りつづけているので、こちらから話しかけてみた。
「先週、帰り際に言った言葉、覚えておられますか?」
彼女は微妙な笑みを浮かべた。
「考えてくださいましたか?」
「もう一度、教えてもらってもいいですか?」
「二度は言わないわ」
「どうして?」
樋宮さんはすっと呼吸を整えると、まったく違うことを話し出した。
「柳原先生は自由意志についてどうお考えですか?」
「それが、治療と関係があるのですか?」
たまに哲学論議を吹っ掛けてくる患者、もといクライエントはいる。だがそれに真正面から付き合うのは心理士の仕事ではない。
「治療と関係ねぇ……。そうね、あるわ」
「それは今まで話していただいた内容とはずいぶん異なるように思うのですが、まったく別の悩みとかですか?」
「いいえ、すべて一貫しているわ。私は特定の目的をもってカウンセリングを受ける。今までのカウンセリングでも同じだった。でも誰もそれを察してくれない。私からは言えないということがわからないのかしら」
「……自由意志がどうかしたのですか?」
「私はね、心理学的には自由意志は存在しないと思うの。それは柳原先生の勉強してきた臨床心理学においてではなく、基礎心理学的な意味において。そっちの方が科学的でしょう?」
「臨床心理学は非科学的で、より科学的な基礎心理学では自由意志は存在しないとお考えなのですね。臨床心理学もある程度科学的なんですけどね」
「私は最も科学的と思っている認知行動療法は嫌いよ。分析的なものの方が好き。だって認知行動療法なんてただの統計データでしょう?」
「統計データよりも非科学的だとしても分析的なものの方がお好きなのですね」
いったい何の話をしようとしているんだ? “彼”の話からずいぶん飛躍している。一貫しているというからには何かつながりがあるのかもしれないが、もはやセッションは成立していない。完全に彼女のペースに呑まれてしまっている。
「自由意志っていうのはね、人間が選択をする際に、ゲーム理論的な適応的な確率論に従うことを基本とし、ニューロン発達を参照したランダムであるというのが、神経経済学的な主張」
そんな理論聞いたことがない。神経経済学は名称こそ聞いたことがあるが、学部で行動経済学を多少かじった程度でそれ以上のことは院では習わないし、就職浪人をしてもう何年も前のことだから、忘れてしまっている。
「そうですか。それで、あなたの悩みというのはどこにあるのですか?」
「悩み? 私はカウンセリングを受けたいけど悩んではいないわ」
「動機がないのにカウンセリングを受けてもなにも変わりませんよ」
彼女は少し寂しそうな顔をしていった。
「……帰り際に言ったこと、本当に覚えてないの?」
「もう一度あなたの口から聞きたい」
「はぁ、本当に意地悪ね」
そういって樋宮さんはため息をついた。
「どうしても聴きたかったら私の話をすべて聴くことね」
「わかりました。ここは話をする場です。いくらでも話してください」
彼女の感情が引き出せるかわからないが、かなり譲歩することにした。どうせ閑職に就かされているんだ。彼女のカウンセリングが終結したらクビになってしまうかもしれない。それならカウンセリングを長引かせた方がいい。そんな邪な気持ちがわいてきた。
「柳原先生はどうして心理士になろうと思ったのですか?」
「えっ……」
言葉に詰まった。偏差値で選んだ大学に進み、気づいたら心理学科にいて、就職活動が嫌で院に進むことにして、それで……。
「その動機はすべて適応的なものです。ただ、そこに脳のニューロン発達に基づいたランダムが生じている。そのランダムこそがあなたらしさ、だとしたら?」
「自由意志はあります。あなたはただのランダムで話しているのですか?」
どうしてか、ムキになって自由意志の存在を肯定してしまった。カウンセリングで自己主張をするカウンセラーなんて心理士失格だ。
「そうね、ランダムで話しているわけではない。ただ、“いわゆる”自由意志は存在しない」
「“いわゆる”とは?」
「“脳”が現実に対して決定し、それをもとに判断して選択をするような自由意志」
少しばかり哲学をかじったことがある。カント的な認識論だ。
「そういう自由意志はないと考えられているのですね。その代わりに何を思い浮かべておられるのですか?」
現象学的な認識論が限界だろう。あるいはアフォーダンス理論とか持ち出すのだろうか。
いずれにせよカウンセリングが破綻している。なんとかして軌道修正しなければ。
「次の話をするわ。この世界は決定論に従っていると思う?」
「そんなことは……」
決定論についてはよく知らなかった。だが何もかもが決められているとは思えない。すべてが計算し尽くされていて、誰も彼もの意志がすべて決められている、あるいは環境さえもすべて計算できてしまうなんて直感的には信じられない。
「神はサイコロを振らない」
「誰でしたっけ」
「アインシュタインよ。かつての決定論とは違うけれど、結局のところある程度決まっている。私もどちらかというと文系だから、理系の理論にはあまり詳しくはないけれど、ゆらぎがどうとか、量子がどうとか、少しばかり読んだことはあるわ。それでもあなたは自由を信じる?」
僕は彼女の話を聴いていなかった。彼女のコトバには感情がない。概念的な議論でしかない。カウンセリングは感情を拾わなければならないのに。
「この世界の不条理はすべて偶発的なもの? そうではないわ。理由、因果関係のあるものだと私は信じている」
「それで、僕に何を求めているのですか? 自由を信じてほしいのですか? それとも自由を信じてほしくないのですか?」
彼女はまだ喋ろうかと口を開いたが、そのまま止まり、一度呼吸を整えてから言った。
「――自由を信じてほしい」
当たり前のことが信じられなくなっているのか。自明性の喪失、あるいは強迫的な思考によって自らの自由な意思に違和感があるのかもしれない。
「当たり前のことが信じられなくなっているのですね」
「違う!」
彼女は声を荒げた。
「……というと?」
僕は恐る恐る質問した。
彼女は呼吸をしながらどう表現しようか困っている。
よく見るとその呼吸の粗さは最初から続いていたもので、そもそも面接に来た時から彼女は呼吸が荒かった。緊張のせいかと思っていたが、こうして何度も面接を重ねているにもかかわらず、彼女の呼吸は落ち着く気配を見せない。
そのことに触れようかと思い、タイミングをうかがっていると彼女の方から話し始めた。
「私は、――私と彼は、自由の犠牲になったの」
「いったいどういう――」
「私たちは……殺された――」
「殺されたって……生きてるんじゃ――」
「殺されたのは事実。そして生きているのも事実」
彼女の言葉は重く、それは真に思い詰めているものそのものだった。了解不能と精神病を疑えば話は早いが、その言葉に偽りはないように感じた。決して“殺された”というのは比喩ではないと感じた。彼女は本当に殺されたのだ。それに共感できてしまう自分が怖かった。
僕は未熟にもそれに気おされて何も言えなくなった。彼女の切迫した“悩み”なんて生易しい言葉では語れないそれに、胸が締め付けられるとともに、もっと真実を知りたいという興味と、それに安易に引き寄せられていく恐ろしさ、そして何より彼女は僕には重すぎるということに気づかされた。
彼女はようやく本当の主訴を語ってくれた。僕がずっと求めていたものであるにもかかわらず、それを聴いてしまったがために後へ引き戻れなくなってしまったこと、主訴を聴いて、受容したり共感したり、そういうカウンセリングを行って場合によっては心理療法を導入するという一応の教科書的な型なんて頭の中から吹き飛んでしまった。
学校でも心理カウンセリングの実習はあった。そこでも目の前のクライエントの主訴の重さは身につまされるものがあった。ただ、それは身につまされる程度で、恐怖は感じなかった。学校が守ってくれていたからだろうか。今は病院に籍を置きながらも誰も守ってくれないからだろうか。
そうではない。僕は彼女が怖いのだ。教育分析の時の言葉をいくら思い出しても、どうして彼女のことを恐れなければならない理由が思い当たらない。
――私たちは殺された
その、一見よくわからない、だけどどうしてか、その言葉は僕には共感できるものとして恐ろしく感じた。ただ、それが彼女がカウンセリングを受ける本質なのだ。そして、何かそういう違和感が存在することに気づいているから、大河内先生は僕にカウンセリングをさせた。もっと言えば今までの心理士にもずっとカウンセリングをさせている。
彼女に圧倒され、僕は何も声が出ない。樋宮さんを落ち着かせるつもりが、自分の方が呼吸が荒くなっている。
ふと目をそらすと時計はちょど一時間たったところ、つまりカウンセリングの終了を示していた。
「樋宮さん……、カウンセリングの終わりの時間です」
彼女はすぐに顔色を変え先ほどまでの切迫感も消えた。
「あら、もうそんな時間? じゃあ、また来週ね」
樋宮さんはにこりと笑った。
僕は彼女から逃げたのだった。
倉庫に戻り、カルテを記入する。主訴を示唆する「私たちは殺された」という一言。これをここに書いていいのだろうか。もしこのことについてより傾聴するよう大河内先生から言われたらどうしようと思った。だが、それはカルテの改ざんにあたるかもしれない。行った記録はすべて正直に書かなければならない。医療倫理を教えてくれる人はいない。他の職員はみんな僕を避けていく。いっそのこと嘘っぱちを書いてしまうこともできたが、僕の良心がそれを許さなかった。
「踏み込んだのなら、責任を持たなければならない」
そう自らに言い聞かせ、カルテにあるがままを書いた――。
翌週、カルテを開く。何度も事務室を行き来するのは気が引けただけでなく、大河内先生が記入する診察記録を見るのが怖かったのだ。僕の記録も見ているはずで、それをもとに診察を行っているはずだ。“生きているのに殺されている”という発言についても検討されているかもしれないからだ。
僕はカウンセリングの一時間前になって、ようやくカルテを開いた。本来なら倉庫掃除なんてしてないで、さっさとカルテを開くべきなのだが、もう出来損ないの心理士なんてこんなものだと僕は開き直ろうと努めていた。
カルテを開くとそこには一言、指示があった。
「了解可能な形でこころに納めさせるように」
診察の記録には前回と同じく“異常なし”“変わらず”といった、何も変わっていないという言葉が並んでいるだけだった。違うのは“彼”の記述が消えただけ。
僕は面談室で待っていた。看護師に連れられて樋宮さんが入ってくる。
樋宮さんはソファに座り、視線を合わせようとしない。時折ちらちらと僕を見てくるが、何も言おうとしない。
「こんにちは」
僕は耐えかねてそういった。
「こんにちは」
しばらく待った。髪をつついたり、首を鳴らしたりしながら、どこかリラックスした様子で、黙っている。ただ、呼吸だけは荒かった。彼女の所作は意図的なもので、動揺を隠しているのではないかと思えるものだった。
あれほど“殺された”と息が詰まるように吐露して、そして今のこの態度には理解が及ばなかった。わざとリラックスしているように見せて、何を隠しているのだろう。
「緊張していますか?」
僕はあえてそう尋ねた。
「いいえ」
「もう結構面接の回数重ねてますからね。少しはリラックスしてくださったのですかね」
「……私は、どうしてあなたに話せないのだろう」
「え?」
「最初は口止めされていたから話せなかったんです。でも、今は違う。どうしてか、私はあなたに話せない」
思わぬ氷解に僕は彼女の顔を二度見した。彼女は口を動かすが言葉が出て来ないようだった。
「急ぎはしませんよ。ゆっくり話してくださればいいです」
「……そうなんですよね。急ぐ必要なんて何もない。医療費も父がすべて際限なく出してくれるし、私はここの生活に不満がない。あなたが転勤しない限り、急ぐ必要なんてない……」
「転勤?」
思わず職を失う恐怖がわいてきて、反射的にそう尋ねてしまった。心理士失格だとすぐに後悔した。
「はい。今までの担当心理士は一定期間たった後、みんな転勤していったんです。この病院にはそういう制度があるのか、あるいは父のせいなのか……」
「お父様はどんな方なのですか?」
「それは口止めされています」
「そうですか……」
気持ちの悪い沈黙が流れた。どちらともなくこの沈黙を打破したかったが、樋宮さんの自発性に期待するだけではなく、僕がカウンセリングの技術で話を開いていくべきだとわかっていた。
「以前は口止めされていたから話せなかった。でも今は別の理由で私に話せない。話したいということですか?」
「あなたは……、知りたいですか?」
嫌な予感がしたが、僕は答えた。
「知りたい……です」
樋宮さんは笑った。それは安堵の笑顔のようだった。だがその安堵を与えてもよかったのか。僕は焦りを感じ始めていた。
「柳原先生、ねぇ」
「なんでしょう?」
「彼は殺された。私も殺された。その代わりに異物が現れた。でもあなたが異物を取り払ってくれるの?」
「具体的に、教えて――」
「その表現好きですね。具体的には言えないの。でも、自由を信じていて、そして“生命”を信じているなら、私はすべてを教えてあげられる。私がすべてを教えるということは、“私”が治るということ。今までの心理士の中であなたが一番才能があるわ」
彼女はうっとりと僕を見つめている。僕は茫然と彼女を見つめていた。
ふと、「治療してはいけない」という大河内先生の言葉を思い出す。
僕はすぐに転移性恋愛の可能性を自覚した。今日の彼女の雰囲気は何かが違う。何も心理学的に転移を引き出せるような高尚な技術を用いた記憶はないし、セッションの回数も少ないのだが、彼女は僕に転移感情を向けている。転移とは親子関係を治療者、もしくは患者に見出すことだが、異性であるがゆえに、僕は恋愛対象として見つめられているのかもしれない。今までの心理士が男性だったらそれは転勤させられるだろう。失職の危機を感じながら僕の呼吸が浅くなっていくのを感じた。スーパービジョンも受けられない環境に、こんなことになってしまったセッションに行き詰まりを感じていた。
転移性恋愛を言葉として説明して理性で理解してもらうか、あるいはセッションから下りるか。治療をしてはいけないのだから……。
口が乾くのを感じながら、だが、もう後には引けないという漠然とした焦りに論理性が破綻し、ただセッションを進めていくように言葉ばかりが吐き出される。
「生命というのは何ですか?」
「それも含めて、すべて教えてあげる。そうすれば治る。知りたいんでしょう?」
知りたい。だけどそれを言って本当に治ったらダメだ。
そうだ、了解可能な記憶に納めろというようなことを大河内先生は指示していた。
「その記憶は妄想ではないですか?」
「えっ……」
急に彼女の表情は曇った。
「ありもしない記憶が存在している。空想するのは自由ですが、それを事実と混同してしまうのは病気の可能性があります」
「それは違う」
「どうして?」
「先生は病気だとは言わない」
「大河内先生は病気とは言わないのですか? でも病気でなかったとしても強いストレスにさらされると、一時的に病的な症状が出てくることはあります」
そうだ、彼女は解離性障害として接しろと言われている。きっと過去と現在の間に断絶が起こるようなストレスのある事象があって、そのストレスが“彼”の死で、彼女は……殺された?
自由?
生命?
わけがわからない。この人は何が言いたいんだ。それを引き出したら、一人で転移性恋愛の沼から抜け出せるだろうか。そして彼女は治るかもしれないが医師の指示に反することになる。
彼女を治さないということ、疑問を尋ねないということが、最善策であることは間違いがなく、だが、どうしてか、僕の強い欲求はその“答え”を渇望している。
危機であり、恐怖だった。僕は社会的抹殺と、実存欲求のはざまで戦っていた。そう、彼女のライフストーリー、あるいは同一性かなにかの断絶が理解できた時点で、僕は実存欲求として彼女の答えを共有したがっていたのだ。
「柳原先生」
「なんですか?」
「私、柳原先生と同じ種類の人間だと思うんです」
言うな。
「もっとも、そうなった過程は異なりますし、私は異質です。でも、柳原先生は、自然体としてそうなっている。だから、柳原先生と話ができれば、すべて私は治ると思うんです」
やめてくれ。
「だから――私を、受け入れて」
彼女はじっと僕を見つめている。僕は震える声で言った。
「――今日のカウンセリングは中断しましょう」
「中断?」
「ちょっと体調が悪いようですね。また落ち着いたらカウンセリングをしましょう。一応来週も予定に入れておきます」
「でも――」
僕は彼女を無視してPHSに番号を入力する。10病棟の看護師に慇懃に迎えを要求し、それ以上彼女とは話さなかった。
「そんなに怖い?」
彼女はいう。
「カウンセリング時間外です」
「きっと、とても幸せだと思うよ」
無視をした。
しばらくして看護師がやってきて、樋宮さんを連れて帰っていった。
倉庫に戻り、カルテを開いた。そろそろこの患者が面倒な人であることに気づき始めていた。境界例とか、そういうのではない。ただ、特別扱いを受けながら、本当のところを話そうとしない。かなり厄介な患者だった。
転移性恋愛のことは伏せた。面倒ごとをわざわざ自白してしまう必要はないと考えたからだ。失職してしまっては元も子もない。ただ、転移が生じていることは書いた。転移自体は治療に使えるものであり、決して珍しいものではない。
ふと、このカルテは心理検査の記録、入院時診療の記録を除いて、僕が書き始めたころから書き始められていることに思い至る。心理士が“転勤”していくごとに心理士ごとにカルテが作られているのだろう。5年間の保存義務はどうなっているのか。そんなことを考えながら、とんでもないところに就職してしまったと今さらながらに後悔した。
カルテを開いてみると“異常なし”の文言が並ぶ。そして僕の書いた所見の最後に“とにかくカウンセリングを続けるように”と付箋が貼られていた。
“とにかく”ということは転移性恋愛のことはばれているのかもしれない。だが、それでもカウンセリングを続けていいということは、こちらが手を出さない限り失職は免れたということだろう。
少しばかり胸をなでおろし、面談室へ向かった。
面談室に樋宮さんが入ってきた。
「……こんにちは」
樋宮さんは僕の顔色をうかがいながら恐る恐るそういった。
「こんにちは」
「……怒ってますか?」
「怒る?」
「いえ……、なんでもありません」
「大河内先生は何か言われていましたか?」
とりあえず診察の内容に話を変えた。このカウンセリングを進めていてもいいことはない。基本に立ち戻ろう。
「大河内先生は……、診察の話は口外するなと」
「私にも守秘義務はありますよ」
「それでもダメだと……」
大河内先生は何を彼女に言ってるんだ? 疑問と不信感が今さらながらにわいてきた。
「ちょっとリラックスしましょうか。いつも緊張しているように見えます」
「リラックス?」
「体と心は連動しています。体を動かすことで緊張がほぐれることもあります」
適当にマインドフルネスを行った。間を持たせるためだ。とにかく早く面談が終わってほしかった。今さら訂正などきかない。一番いいのはセッションの中断だが、それはするなとドクターから指示が出ている。こちらから上申するのもアリかもしれないが、大河内先生にそれを言ったところで意に介されないだろう。僕のあの医師に対しての不信感はずっと大きなものになってしまっている。こんなハラスメントに近い、ひたすら倉庫整理をさせられる環境で、カウンセリングを実施するにも別の心理士によるスーパービジョンを受ける機会も与えられず、当然教育分析を受けることもできない。自費でどこか私設心理相談室に行こうかとも思ったが、就職なんて初めてなので医療倫理や重永病院での倫理規定などまったくわからない。そもそもほかの心理士との関係も遮断されている。僕には不満とストレスしかなかった。
適当にストレッチをして、樋宮さんは目を丸くしてずっと僕を見ている。何をさせられているのか理解できていないのだろう。僕もただ時間をつぶすことしか考えていない。
「じゃあ次に、自律訓練法というのがありまして――」
「柳原先生」
「えっと、何でしょう?」
「私の話、聴いてくれないのですか?」
少し困ったが、とりあえずのことを言っておいた。
「いいえ、聴きますがちょっと今日は小休憩ですね」
「そうですか……。わかりました」
「自律訓練法というのは公式を――」
マインドフルネスと自律訓練法で時間をつぶした。それしか知らなかったからだ。もっとプロになれば他のリラクゼーション法も使えるようになるのかもしれないが心理士のコミュニティから遮断されている僕には何もできない。
冷や汗をかきながらひたすら呪文のように公式を唱えたりして、適当なところでセッションを終えた。
倉庫に戻るとやけっぱちのセッションについてやけっぱちに「マインドフルネスと自律訓練法を実施」とだけ書いた。
その日はアルコールを買って帰った。
うんざりする倉庫整理。誰も倉庫整理をしろと言ったわけではないのだが、そんなことでもしていないと気が狂いそうだった。
棚に乗った段ボール箱には大量の書類、古いカルテなどが積まれている。すべて「処分」と書かれていて処分予定のもの。時折事務員が段ボール箱をもって出ていくし、時折持ち込まれる。僕はそれをレセプト関係のものと精神科患者への医療費補助関連の書類、そしてカルテとに分類して箱に入れ直していた。本当に無駄な作業だとわかりながら、処分されるカルテを覗いて少しばかり勉強した気になっていた。
ため息をつきながら今日も分類していく。
それは突然だった。ふと、大河内美月という名前のカルテを見つけた。
鈍い僕でも大河内先生と樋宮“美月”が親子であるのではないかという疑いを持った。
カルテを開くとそれは5年前のカルテだった。そして薄いカルテには医師の独特の読みにくい文字と比べてもわかる、焦りに満ちた文字でページ一面にびっしりと書かれていた。そして、その上からボールペンでぐじゃぐじゃに線で取り消されていた。
それは普通のカルテとは少し違った。普通は来談経緯とか、主訴とか、家族歴とか、基本事項が書いてあるはずだ。だがそのカルテはいきなり次の言葉から始まっている。
「X製薬会社のSDAと称した内服薬による薬害事例。X製薬会社より引き受けた治験の際、副作用として以下の症状を呈した。なお、薬剤名に関しては×××――
・自我同一性の混乱
・幻視
×××――」
何度もボールペンでぐちゃぐちゃに消した跡がある。薬剤名や症状について。
「このような症例はほかの何とも類推が付かないものであり、本来は大学病院で研究されるべき対象である。だが、様々な事情で××がそれを望み、当院で治療することとなった。
ベンゾジアゼピン系製剤は効果なし。SSRIをはじめ、抗うつ剤はすべて効果なし。非定型抗精神病薬、定型抗精神病薬効果なし。抗てんかん薬、気分安定薬効果なし。その他向精神薬は一様に効果なし。その他身体疾患で用いる低リスク製剤を様々に試してみたが当然のように効果なし……」
おそらくこのカルテもどきを書く前に薬は試したのだろう。手あたり次第片っ端から、というわけにはいかないだろうから、わからないにしてもわからないなりに体系立てて投薬を試みたはずだ。
ということはこのカルテは少なくとも2冊目だ。1冊目はどこだろう。
このカルテのあった箱を覗き込むと、手帳があった。
こんなところに重要な手帳が捨てられているなんてできすぎている、きっとそんなことはないだろうと思いながら、手帳を開いた。
それは「講義」とか「授業」とか書かれていて、学生の手帳かと思った。だが、「学長と~」「~製薬会社と」などと書かれているあたり、大学勤務の人の手帳だとわかった。学長と関わるあたり、それなりに偉い人なのかもしれない。
6年前の記述だった。
「7月10日。Y代議士の政治資金パーティー」
大学勤務の人が政治家を支援していいのかな、などとぼんやり考えながら読み進めていく。
「7月20日。7月10日のX製薬会社のKさんが来室」
ぱらぱらとめくっていくと、
「K氏の治験参加に美月を連れていく」
美月の文字で大河内先生の手帳ではないかと思い始めた。自分の娘を治験に参加させたのか。それで薬害になったと。
どんな薬だったのだろうとパラパラとめくっていくと、11月辺りで「倫理委員会」の文字があってそこから先は空白になっていた。
嫌な感じがしながら一番後ろのメモのページをめくる。
様々なことが雑記してあったが、すごい筆圧で勢いよく書かれたそれは非常に目立った。
「社会的な精神疾患を撲滅するための薬!」
明らかに高揚した筆致でその薬についてびっしりと書かれていたが、化学はまるっきりダメな僕にはわからなかった。
そして後ろの方に、
「社会的な精神疾患は撲滅される。本当の病気だけ、治療すればいい。患者として扱われていた人の時間を取り戻せる!」
そう書かれていて、とても喜ばしいものを発見したというような印象だった。確かに、そんな薬があれば精神科医療の常識が変わるだろう。論文発表すれば大成果だ。
だが、あの「倫理委員会」の文字っきりでページが空白になっていたのは、何か倫理的な問題に触れてしまって大学を追われたのだろうか。
そして最後のページまでめくって終わりかな、と思うと、びっしりと“美月”の治療記録が書かれていた。それは異様なまでに。余白には強い筆圧で「だまされた」とあった。
怖くなって僕はそれを閉じた。
このカルテもどきと手帳、どうしよう。事務員がひょっこりとやって来る前に何とかしなければならない。
ただ、こんなものが残っている、それもまるで僕に見せようとしているかのように残っているなんてできすぎている。
不安を感じながらその二冊をカバンに仕舞った。
家に帰ってカルテと手帳を広げた。
「ああ、カルテ持ち出しちゃった」
樋宮契のことで胸が痛んだだけで、罪の意識はなかった。
それを眺めながらぼんやりと考えた。
「どうして治したらいけないんだろう。治りそうなのに」
カルテもどきをみても薬害が呈した症状は同一性の混乱と幻視以外は黒く塗りつぶされている。
「それになんで樋宮契なんて名前になってるんだ?」
謎だらけだが、僕はそれを机の上に投げ出して、スマホを取り出した。
「探偵じゃないし、転職先を探そうか」
もういい加減うんざりしていた僕は転職しようかと思い始めていた。ただ、樋宮契、あるいは美月への関心は消えなかった。
転職先を探しているとはいえ、倉庫整理するだけでお金になるのならと病院へは通い続けていた。辞めるのは惜しくないとはいえ、やらなければならないことは真面目に行うつもりだった。
カウンセリングの日、樋宮契のカルテを開いた。“異常なし”の文字が並び、僕の行ったリラクゼーション法については何も書かれていなかった。
もしかするとあれは見つかることを前提とした罠なのではないかなどとも考えて怯えていたのも事実だが、そんな記述は一切なかった。だからなぜあんなものがあんな場所に無造作に残っていたのかわからなかった。
それ以上考えないようにして面談室へ向かい、樋宮さんが来るのを待った。
「こんにちは」
樋宮さんは笑顔でやってきた。
「先生に教えてもらったリラクゼーション法、ずっと実践してたんですよ。気持ちが楽になる気がします。気のせいかもしれませんけどね。あはは」
そうか、恋愛感情をもっているならそのくらいのことはするよな。
だが今日もリラクゼーション法で乗り切るわけにはいかない。僕はこの病院をクビになるのを覚悟で彼女と話すことにした。辞めることは惜しくない。だが、彼女と話さないことは惜しい。彼女の存在だけが心残りだった。
僕は、医師の指示に反して、治療することにした。
「以前、すべて教えてくれるというお話をされましたよね?」
「えっ、聴いてくれるんですか?」
「それが仕事ですから」
「……でも、そうしたら治っちゃいますよ?」
「構いません。それに治りたいのでしょう?」
「ふふっ、そうですよね。患者として変な言葉でした。そうですね。どこから話そうかな」
「どこからでもどうぞ」
大河内先生のことなんて無視して、もっと言えばカウンセリングの規則なんか無視して、目の前の樋宮さんと話すことにした。
「そうですね。“彼”のことですね。彼は私の近くて遠い恋人でした。厳密には私が憧れていて、彼も私のことが好きで、でも、触れ合えているようで触れ合えない。そして彼は死んだ。私だけ生き残って、そして代わりの異物が与えられた。それは彼のような素敵な姿をしていなかった。ただの……それ、としか言えないものだった。私は彼と死ぬべきだった。いいえ、死んだのは死んだの。でも私は生き続けた。彼だけでは死ねないから、私も死んだの。でも彼は消えてしまった。彼の代わりに“それ”は生まれて、私は不自由に生きている。だから、“それ”を解消してほしい。そのためにはあなたが必要なの」
樋宮さんは、そこまで言い終えると、黙り込んだ。
「一つ聞いてもいいですか?」
「なにについて?」
「“それ”っていうのと、“彼”っていうのは、それぞれどんな存在なのですか?」
「彼は……、実は、本当はいなかったんです。でも死んでしまった時点で自覚されて、そして私たちはずっと一緒だったとわかった。そして代わりに“それ”という禍々しいものがずっとそばにいる」
「“死”というのは断絶のことですか?」
「えっ……、そうです」
僕は思い切って尋ねた。
「薬は飲みましたか?」
樋宮さんは絶句していた。目を見開き、口をパクパクしている。
「大河内先生って、お父さんですか?」
「やめて……」
彼女は拒絶した。
「わかりました。すみません」
拒絶した理由はわからない。あの手帳を見る限り、娘のために頑張っていたように見えた。もっとも娘を実験台に使うのは異常だが。
「私には彼がいて、だから……」
樋宮さんは呼吸を整えながら言った。
「彼がいたから、私は存在できたんです。彼がいないから、私はバラバラなんです。私に自由はなくて、すべてが科学の世界の合理的な世界なんです。彼は、私の生命をつかさどる魂だったんです。今の私には魂がありません。それは別のものが彼の代わりに存在しているからです。それはずっと見えているんです」
「何が見えているのですか?」
「大河内義孝」
「そうですか。彼は心理学的に言えばアニムスのような存在だったのかもしれませんね。アニムスというのは本当は複数形なんですけど、女性の中の男性性です。そして人格であるペルソナのウラの存在です。ペルソナとアニムスは表裏一体です」
「……そうなんです。だから私はあの時、ペルソナも死ぬべきだった。なのに死んだと思ったら生まれてしまった。ペルソナだけのウラの存在しないモノは存在できないので、ウラに何かが生まれてしまった。それ、が大河内義孝なんです」
「大河内先生はどんな存在ですか?」
「私を捨てた父です」
「樋宮というのはお母さんの姓?」
「薬だけ飲ませておかしくさせた……狂わされた……」
「それは事実かもしれません。普通の向精神薬なら樋宮さんのようなことにはなりませんから」
「そして毎週あいつは“診察”するんです。壊して、治すなんて、変な話じゃないですか。それって、壊れた過程と治る過程を観察したいだけ。研究狂いなんだ!」
「……話してみてどうですか?」
「いいえ。私はそれを殺したい。大河内義孝というアニムスを」
「大河内義孝がアニムス?」
「そうです。大河内義孝がアニムスとして私の中に入ってきてしまったんです。私は彼によって動かされていて、私のペルソナはこの表面だけなんです。だからアニムスを取り戻したい」
「大河内先生に操作されている?」
「大河内義孝という概念が、私の中に入っているんです。それを排除、あるいは殺したい。そして――」
「そして?」
彼女は笑った。僕を見つめている。僕は彼女の瞳に吸い寄せられた。
ふっと力が抜けたかと思うと、僕は、彼女の虜になっていた――。
第三章 禁断
僕は樋宮美月を愛している。そう感じた。これは転移性恋愛だ、と理性ではわかっていても、それをスーパーバイズしてくれる心理士はいない。あの時の、彼女の深淵に興味を持ったその時に感じた恐怖はそこにはなかった。ただ、彼女を愛して、引き寄せられていくばかりだった。それが偽りの恋愛感情だとわかりながらも。
彼女は、立ち上がって僕の隣に座った。そして僕を抱きしめた。そして耳元でささやく。
「私の人形になって」
僕はその誘惑に呑まれていった――。
「先生、時間だよ」
彼女が知らせてくれた。彼女が知らせてくれなければ訝しんだ看護師が連絡をよこすかもしれない。そうなると彼女とはこれっきりだ。そうならないようにするためのことを、彼女は知っていた。
「あ、ああ」
「先生はとても素敵な人形になってくれると思う。だからずっと一緒に居てね。大河内なんか私じゃないから」
僕はPHSで看護師を呼びながら思った。大河内先生の診察は、大河内先生が人形になっていただけなのではないか、と。彼女に新しい人形を与えるのが、あの心理士募集の求人だったのではないのかと。
倉庫に戻って、カルテになんて書こうか考えた。僕は彼女と離れたくなかった。「人形になった」などと書いたら即クビだろう。職業倫理的にも一線を越えている。
とりあえず、彼女の心情把握をしたことを書いておくことにした。
そして、「大河内先生がアニムスとして入ってくる」という彼女の表現に、自我境界の脆弱性を感じたことも付記しておこうかと思った。解離性障害ではなく統合失調症等精神病なのではないか、と。
だが、大河内先生と美月さんが親子であるという事実はきっと大河内先生は隠したいだろう。だからそのことは書かないでおくことにした。
僕は書くところだけ書き終えるとペンを投げ出して天井を仰いだ。
「こんなの医療じゃない」
そうつぶやいたが誤りにすぐに気づいた。
「樋宮さんに医療を提供できる最後の砦は僕だけじゃないか」
薬害を治せばいい。治らないとしても、過去のことをライフストーリーの一部に納めればいい。そして同一性を取り戻す。そうすれば幻視も消える。
「僕のやらなければならないことは明確じゃないか」
カウンセリングの日。僕はカルテに目を通す。“異常なし”の文字が並んだ。
そうなんだ。治らない彼女に異常はない。だからすべてを受け入れてもらうしか方法はないのだ。そんな単純なことにどうして今まで気づかなかったのだろう。
面談室で待っていると樋宮さんが来た。
「こんにちは、先生」
彼女は嬉しそうな表情をしていた。僕は表情を曇らせた。
「どうしましたか? 機嫌悪い?」
「いいえ」
それだけ言って黙った。彼女が過去の経験を語れば、それはまだ克服できていないということだ。
そして案の定、それを話し始めた。
「先生が人形になってくれて、私は治りました。もう治療なんて必要ありません。柳原先生さえいてくれれば、それで構いません」
僕は黙ってそれには何も言わないことにした。
「私、退院することになったんです」
声が出なかった。ここで違法的に強制入院が延々と続くだろうと思い込んでいたからだ。
もう彼女には会えなくなるのだろうか。僕は入院患者のカウンセリングを担当するとして、この病院に採用されているからだ。
「大河内先生が言うには、外来でも柳原先生のカウンセリングを受けるようにということらしいです」
そうですか。
声に出したつもりだが、力なく彼女には届かなかった。
「私は先生を愛しています。退院して有象無象がいても、それは私のアニムスにはなりえません。先生が私を埋めてくれるから、私は私でいられるんです」
「……樋宮さん」
「なんでしょう?」
「退院を検討されているというのは分かりました。その前に、あなたの本当に悩んでいたことを詳しく語ってみてもらえませんか? 今さら大河内先生の口封じとか、関係ないでしょう。退院されるなら、なおさら整理しておく必要があると思うのです」
「そうですね。お話します。私はずっと私を隠しながら柳原先生に接してきました。でもそれは本意ではないんです」
語らせて、もし“大河内先生のアニムスが入ってくる”というような妄想を語られたらどこかでストップしないといけないと考えながら、ただ彼女は神経症的な性格のはずだという当初の見立て――いろいろと混じりけのある見立てだが――は、彼女全体を見つめたとき間違っていないと話を促した。彼女は妄想を妄想として理解することができるはずだ、と。
「私は、薬の治験を受けました。高校のころ、今からおおよそ6年前、不登校で困っていたころに、離婚した父が母親のもとを訪ねてきて、“ちょうどいい薬の治験がある”といって私を連れて行ったんです。そこは大学病院の精神科の閉鎖病棟で、私は精神科集中治療室という名の独房に入れられました。すぐに看護師たちによって取り押さえられ、体中を固定され、注射を打たれました。暴れる可能性を考えたのでしょうか。
そして、薬を打たれて、しばらく眠りました。目が覚めたら、私は私でなくなっていたのです。それは、自分の体がぶよぶよして気持ち悪くて、私という器とこころが十分にリンクしていないような感じでした。私は、何が起きたのかわからなくて、ふと隣を見ると倒れて息をしていない男性がいました。“彼”だとわかりました。私は彼とともにいたことをフラッシュバックのようにすべて思い出し、そして彼を失った喪失感に茫然としていました。しばらくして大河内先生、父が病室に入ってきました。彼を踏みつけて、彼は消えました。父は……」
樋宮さんはそこで言葉に詰まった。下を向きながら言葉を選んでいる。
「父は、私の拘束を解きました。それで……」
再び言葉に詰まった。今まで淡々と話していたのに。きっとここが心に納められない重要な点なのだろう。そう楽観視していた。
「私は父の首を絞めました。その時の感触ははっきりと覚えています。首をつかむ手に力を入れたとき、気道をつぶしたあの感触……。父は抵抗せず、死にました。遺体はずっと転がっていました。きっと父のたましいが私を満たしたのでしょう。私は別の私として、よみがえりました。記憶も何もかもあるんです。
体があればどこからともなくたましい、あるいは生命はやってきて、そして体が崩壊すれば消える、あるいはどこかへ行く。父の魂、あるいは生命はたしかに私の中に来てしまいました。
でも……再び父が現れたんです! そして遺体をどこかへもっていきました。私はその時悟りました。私は生きていないんだ、現実世界にいないんだ、と。“彼”とともに薬で殺されたのだと。
どのカウンセラーに話しても、信じてくれません。だから隠すことにしました。新しく表れた父は様々な薬を投薬しました。私は夢なら覚めてほしいと素直に飲みました。だけど、あの感触だけは忘れられない。
新しく表れた父は父ではないことは、私にはわかりました。それはたましいを失ったからです。何しろ私の中に父のたましいはあるのですから。
でもそんなものがあるから異常から抜け出せない。だから私は――あなたからたましいを奪うことにしました。あなたは人形になってくれる。そうなるだけの素質がある。私はあなたが好きです。今までの人間らしくないカウンセラーとは違う。ダメな心理士ゆえに人間味のあるあなたから、たましいを奪うことにした」
大河内先生が二人いるなんて考えられない。ましてや彼女は現実にいる。一人目の殺した大河内先生が幻影なのだろう。まだ薬害で混乱していた時に見た幻覚。触覚にも幻覚はある。存在しない感触を覚える事例は存在する。だが、殺した感触を覚えているというのはあまり聞かない。
「とてもしんどい思いをされてきたのは分かりました。ただ、大河内先生が二人いるというのは現実的に考えられますか?」
「最初は夢だからだと思っていました。だけど、父は二人いる。殺してもなおもう一人現れるのはその証です。こんな世界に来るぐらいだったら、あの時倒れていた“彼”と一緒に死んでおけばよかった! どうして目を覚ましたのか、それがわからない……」
「あなたの言う通り、体があったからだと思いますよ。あなたは生きています」
「そう、父なんかによって! 私の中に父はいらない。だから代わりに――」
「もう少し正しい答えを出してからにしましょう。僕はそれに納得ができない」
「柳原先生も信じてくれないんですか!?」
「いいえ。納得できる表現になったら、僕を差し出して構いません」
「どうしてそんな回りくどいことを……」
「あなたのためです」
彼女は黙り込んだ。彼女自身もまだ、意識的にではないが、このナラティブに納得できない部分があったのだろう。まだ多少時間が残っていたが、今日のカウンセリングは終えることにした。
初めて語りを引き出すことができた。僕はうれしくて思わずありのままをカルテに書いた。感情を基軸に話を聴いていくとうカウンセリングの鉄則とも呼べるようなことはできなかったが、彼女が思いのたけを滔々と話してくれたのはうれしかった。
彼女の発言を思い出しながら記録をつけていくと、ふと引っ掛かりを感じた。
「魂を僕から奪う……僕を差し出すって、僕が殺されるのか?」
まさか、と思いながらも不安を感じていた。外来通院になれば刃物を持ち込むことも容易になるだろう。入院期間中に決着をつけなければいけないと焦りを感じた。
最終章 そして
僕は家に帰ってあのカルテもどきと手帳を見ていた。何か、大河内先生が二人いるという異常事態を説明するものはないか、とひたすら考えた。こっそり樋宮契のカルテも持ち出し、見比べながら考えていた。もう倫理も何もないと思っていた。どうせあの病院は辞めるのだから。資格をはく奪さえされなければそれでいいと。
それにしても字体のパターンが多すぎる。感情を反映しているだけにしては少しおかしい。
「そういえば入院時診察の“戸川先生”って誰だろう。5年前程度ならまだいるかもしれない。その時の樋宮さんの状況を聞いてみれば、何かわかるかもしれない」
翌日、すぐに倉庫の隣の事務室で医療事務の人に声をかけてみた。
「戸川先生って知ってる?」
「あ……」
その人は固まった。やはり、何かある。
大河内先生の専用PHSにかけた。
しばらくのコール音ののち、大河内先生が出た。
「はい大河内です」
「すみません、カルテのことで少し伺いたいことが」
「なんですか?」
「入院時診察の戸川先生の所見を伺いたいのですが、戸川先生は今どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
なぜか大河内先生は黙ってしまった。
「もしもし?」
「お昼、私はいくら忙しくてもいつもきちんと食べる方なんだ」
「え?」
「食堂で」
食堂で会おうということなのだろうか。とりあえず食堂に行くことにした。
食堂で、大河内先生を探した。窓際の席に座って、患者と同じ病院食を食べている。この病院ではお昼は患者に出される病院食と同じものが職員にも提供される。
「座りなさい」
「はい」
こんな人の多いところで大丈夫だろうか。
「カクテルパーティー効果というのは心理学の用語だったよな」
「そうですね。雑踏の中でも注意を向けた相手の声だけは聞き取れる」
「そういうことだ」
そんな理由で食堂なのか。
「ゆっくり食べている時間はない。午後は病棟の診察がある。手短に話そう」
「はい」
「この病院食、美味しいか?」
「え?」
今、手短に話そうと言ったばかりなのに。
「こんなものを美月さんは美味しい美味しいといって食べ続けているんだ」
「美月“さん”?」
自分の娘にさん付けするだろうか。それに契というカルテに書いてある名ではなく美月と呼んだ。
「もうあらかたのことは分かっているだろう。大河内先生は死んだ。今大河内を名乗っているのは私、戸川だ」
ぽかんとしている僕を見て、大河内?戸川?先生は続ける。
「もうすぐ転勤することになって。だから美月さんを退院させることにした。大河内先生は私の恩師だ。美月さんに対する治験の効果を検証したくてPICUに入り、拘束を外した。まさか殺されるとは思っていなかっただろう。錯乱状態の美月さんを一度閉じ込め、そして私と医療保護入院についてカルテを記入した。父だから大丈夫と思ったのか、大河内先生はもう一度PICUに入った。そしたら殺された。看護師と取り囲みながら私は先生の遺体を部屋から搬出した。
そのままPICUに入って1か月ほどしたら、彼女は落ち着いてくれた。亡き大河内先生のためにもと、私は必死に治療をした。ただ、私の私物に記録を記入すれば私の責任になる。だから大河内先生の手帳に書いた。そもそも大河内先生に政治資金パーティーと製薬会社を引き合わせたのは私なのだから。ただ、大学を追われても先生は許してくれた。絶対に治そうと頑張ったが駄目だった。だから虚偽記憶を植え付けることにした。あの時殺したのは大河内先生だが、再び大河内先生が現れた。あなたは誰も殺していない。アニムスが目に見えるほど錯乱していた。アニムスとずっと一緒にすごしてきた牧歌的な記憶。だが薬害のトラウマは消えることはなく、同一性の断絶は元に戻らなかった。むしろ断絶の前と後でアニムスに相当するものが後の方では不気味な大河内先生がそれになってしまい、彼女を苦しめた。
当然のことだが薬物療法はさんざん試した。一般的な精神療法も試した。どうにもならないから、心理士を雇って担当させた。事情は院長も知っている。これは重永病院だけの極秘事項だから。だがどうしても私は転勤しなければならなくなった。正確には、医者をやめなければならなくなった。私は身体的な方で余命いくばくもない病気なんだ。主治医を変えることも考えたが、もう彼女には自由になってもらった方がいいと思った。
彼女に、これ以上何ができるというのだ!? 私のように自分が病気になったら当然のように彼女は二の次だろう……」
僕は戸川先生に尋ねた。
「カルテの樋宮契の“契”って、どうしてそういう名前がついているのですか? 何か大河内先生との約束が関係しているのですか?」
「ぼんくらなのに勘は鋭いな。同一性の断絶後の彼女に名付けた名前だ。絶対に治すという大河内先生への契。違う人間として生きていくことを模索してもらうことも検討したんだ」
「でも、彼女は美月を名乗っていますよ」
戸川先生は黙っていた。黙って水を口にしながら、しかしぐっと歯ぎしりをして、そして突然叫んだ。
「彼女から奪ったのは私たちだ!だから与えたんだ!でもそれを使おうとしない!どうにもならないさ!この事実を知って、きみに何ができる!何もできないだろう!治そうとしたら弊害しかない! それなら治さず夢の中を生き続けた方がいい……」
そう言い切ると、食器をもって立ち上がった。返却して医局へ戻るのだろう。
ふと立ち止まっていった。
「手帳とカルテは私がきみに見せたかっただけだ。大河内先生の遺品なんだ。返してくれ」
そのまま大河内先生を名乗っていた戸川先生は去っていった。
僕はカウンセリングの時、樋宮美月にすべて話した。これは重大な医療過誤だと。訴えようと思えば訴えることもできるかもしれないと付け加えて。
しかし彼女は言った。
「人に人は治せると思う?」
「医療とはそういうものです」
「医療は“体”は治せても、こころは治せない。“脳”は治せても、こころは治せない。できても手伝いだけ。他の患者さん見てたらそう思う。だから私だけ特別な医療過誤ではないと思うわ。もっとも、手順がめちゃくちゃなようだから、それを医療過誤と呼べばそうかもしれないけれど。私には訴える気はないし、そんなことでは何の解決にもならない」
「私にできることならどんなことでもお手伝いします」
「医療に身を捧げるのは愚行よ。患者一人治すのに、一番いいのは一生養ってあげることだわ」
「僕は、もう精神科医療に興味がなくなりました。ただ、あなた一人を治せなかったことだけが心残りです」
「そう。じゃあ、退院したら一度だけでいいから院外で会ってくれない? それで私は報われるから」
「一応言っておきますが、私の首は飛びますよ」
「本当は会いたいのでしょう?」
僕たちは駅前で待ち合わせをしていた。彼女はタクシーでやってきた。
そして彼女は小さいころ遊んだという近所の公園へ僕を連れて行った。何年も病院に居続けたので、年頃の娯楽など思いつかなかったのだろう。
僕はベンチに腰掛けて、彼女も隣に座った。
「ねぇ、私のこと、愛してくれている?」
「もう何もかもダメなんだ。カウンセリングをしているとき、偽りの恋愛感情を持つことがある。きっとそれだよ」
「それでもいいの。私にはそれでも救われる方法がある」
僕は空を見上げた。この無力感はどうしようもない。こんな徒労を感じ続けるなら、別の仕事に就いた方がよかったかもしれない。
「柳原先生」
「なに――」
腹に激痛が走った。それは最初、痛みとしてさえ理解されなかった。服が真っ赤に染まっていく。どうあがいても痛みから逃れられない。
美月は包丁を抜き取り、今度は僕ののどに突き立てた。ベンチに倒れた僕に馬乗りになり、何度も、何度も刺していく。
「最初言ったよね。殺したくなる“ほど”好きになるって。でも違ったみたい。好きになったら殺したくなる。殺して、私のアニムスとして取り込みたくなる。そういうことみたい」
ぐさり、ぐさりと刺され、もはや痛みを感じないまま、血しぶきが飛び散る。
美月は何も治っていないが、彼女は治ろうとし続けていた。自ら治ろうとする方法を知らないまま、いや、知ることができない、誰も教えることができないまま、退院してしまったのだ。
僕は彼女の長期入院の本当の理由を知った。彼女は、主治医を変えてでもまだ入院しているべきだったのかもしれない。
だが、治療できない患者をどうしろというのだ? 一生閉じ込めておくことが、果たして倫理的に正しいのか?
僕は自分の思考を鼻で笑った。今まで倫理規範に完全に従えたことなどあっただろうか。初心者の内は誰でもミスを犯す。そして、それはせいぜい始末書程度で済まされるだろう。そのミスが重なった結果が今、目の前にいる美月なのだ。
善意がありながらも、初めてだから、初心者だから、知らないから、そんなことで傷つくのはその善意を押し付けられる人。
最初から、何もしなければよかったのだ。できないなら、何もしなければよかったのだ。
僕に浴びせられる刃は、すべての人に対する恨みが込められているように思えてならなかった――。
エピローグ
「あ、死んじゃったか」
私は私の中でうごめく様々なものに喜びを感じていた。ここには柳原先生もいる。
私のアニムスという名のたましい、そして思い出は、声を上げている。そして私を自由にさせてくれる。不条理で、不自由な完璧な世界に自由の可能性を与えてくれる。
私は今、生きている。それは本当の意味で。
でも、社会はそれを許してくれない。見つかれば殺人罪。死刑か無期懲役か。
ただ、私にはある秘策があった。
携帯電話を取り出し、ある番号へプッシュした。
「できることはすべて。よろしくお願いします」
私は電話を切ると、再び彼を見た。
「私たちの世界を始めましょう」
そう、これは同一性が断絶した私と私の一部になった柳原先生の断絶が織りなす新しい世界。その同一性の派生物は、無限に広がっていく――私を分裂させていく。
「来世で会いましょう、柳原先生」
血のりの付いた包丁を布で綺麗に拭く。
そして自分の首に添えた。
同一性はきっと、来世まで続いていく。前世と現世で断絶している柳原先生と私は、来世でも一緒になれる――。
そこには新しい同一性――記憶が存在しながら――。
――そこは地獄だった。
「ねえ、柳原先生」
僕は先生なんかじゃない――
「下の名前、教えてよ」
僕は――誰だっけ?
「ここから出たいでしょう?」
出たいに決まっている。
「――そっか。そういう名前なんだ」
僕は外の世界を見た。
――そこには僕がいた。
たくさん、たくさん僕がいた。
彼女は一人ひとり紹介してくれる。
それはすべて違う名前だった。そして彼ら一人一人に個性があるという。
だがそれはすべて僕だ。
それはまさに地獄絵図だった――
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