「――!!」
彼の目の前には手鏡。その鏡には、精悍な顔立ちに青い瞳、黒髪の青年の姿が映っていた。
――何だ……ニンゲンの姿? 何が起きた? 余は一体、どうしたというのだ……?
指先の破れた手袋、ぼろきれのように成り果てた服、さらに彼の身体は鉛のごとく重たかった。
続いて彼は、辺りを見渡す。
見渡す限りに瘴気を孕んだ魔樹の密林。正面の木々の切れ間からは、そびえ立つ禍々しい漆黒の城。
――あの城は、見紛うことなく、わが居城・魔王城。とすれば、この森は狂いの森か?
不意に、彼の後ろから声がする。
「ねぇー! お夕飯の準備、ゼルスも手伝ってよ!」
彼が声に振り向くと、遠くに法衣を纏った銀髪の少女の姿が見受けられた。
――普通のニンゲンなど、この森に入ることさえできるはずがない。
この身体、あの女子、そしてゼルスという名。まさか……
余が、勇者の身体に入ったとでもいうのか?
「ねぇ! ゼルスってば!!」
夢か現かも分からぬまま、彼は手鏡を置き、怒声に近い声で呼びかける少女の元へと渋々向かった。
「ウロコ、切るの手伝って」
――ウロコ?
魚かなにかかと思い、彼が覗き込んでみると――
「……!!」
――それは、切り落とされた上級蜥蜴人の太腿であった。
「ウロコが硬くて、私の力じゃ辛いのよ」
少女は文句を垂れながら、彼に小刀と太腿を渡す。
――此奴、正気か!? 魔族でさえ、殺した後に人間を喰らう者などごく下級の種族にしかおらん!
ニンゲンが魔族を、それも、上級蜥蜴人のような高等な種族を喰らうなど……
高等な魔族ほど、人間と姿は似ている。上級蜥蜴人ともなれば、尻尾と頭蓋骨を除いて骨格はほとんど人間と同様である。
しかし、血の滴る太腿を受け取ると、その匂いは彼の鼻腔を鋭敏に刺激し、彼は唐突に耐え難い空腹に襲われた。
「もう、三日も飲まず食わずで戦っているもの……食べましょう」
「……」
彼は、小刀をウロコに突き立てながら、少女を横目に見やる。
遠目には美しかった銀の髪は毛羽だち、土気色の頬の肉は痩けおちている。薄汚れた法衣は所々破れ、衣の下から覗く手足は、骸骨のそれかと見紛うほどであった。
――賢者ロロ。
水晶玉を通して、幾度もその戦いを目にした。勇者、戦士、武闘家と前衛しかいない一行の中で、魔法による攻撃・回復・強化を一手に担う攻守の要。
此奴さえいなければ、余の軍勢がこれほど苦戦することもなかっただろう。
「必ず、生き延びて、魔王を倒す。ギルと、マオのためにも……」
ロロは、膝を抱えてうずくまり、衣の裾を固く握りしめた。
迫る夕闇が、その決意を緋色に照らし出す。
――戦士ギルと、武闘家マオか。
戦士は余の四天王、荒波のコニャニャッツァと相打ちに。そしてつい先日、武闘家は灼熱のツルカンテと相打ちになった。
……勇者一行の半数を討つために、余は四天王全てを失った。
「魔王城は、もう目の前。あと一息、頑張りましょう」
ロロは笑顔を作ってみせる。
「あ、もうウロコとれたの? さっすが!」
彼が切り分けた肉を掴み取ると、ロロはそれをそのまま口に放り込んだ。
「……!! 火は……?」
上級蜥蜴人の生肉を咀嚼するロロへのあまりの衝撃に、彼は思わず尋ねてしまった。
「火なんて、使えるわけないでしょ。煙が上がったら魔物に居場所がばれちゃうもの。……昔、貴方が教えてくれたことよ?」
語気を強く言い放つと、ロロは怪訝な顔で彼を眺める。
「あ、いや……」
金色の瞳に見つめられた彼は、迂闊な発言をどう訂正すべきか、咄嗟に思いつかなかった。
戸惑う彼を暫し眺めた後、ロロは、唐突に我に返ったように目を見開き、俯いて目を伏せた。
「そうよね、ゼルスも疲れたわよね。ごめんなさい、きつく当たってしまって」
彼女は俯いたまま額を手で押さえ、目を瞑る。
「それ、食べたら、ゼルスは暫く眠るといいわ。昨日、ずっと見張りしていてくれたものね」
ロロはゆっくりと目を開け、笑顔を作った。
――果たして、この身体で余の魔法が使えるのか。
武器で不意打ちをするにしても、不慣れなこの身体では攻撃を躱されるやもしれぬ。もし魔法が使えなかったとすれば、此奴を相手取るのは余りに無謀。
彼は、ひとまずは様子を見ることに決め、生肉を見つめた。
引き締まり、白みがかったその肉質は、鳥類のそれを彷彿とさせる。ひとたび皮を剥いで骨から外せば、それはもはや「肉」でしかなかった。
彼は恐る恐る肉を口に運ぶ。
淡泊かつ歯ごたえのあるその食感は、外見に違わず、まさに鳥の肉を口にしているかの如きものであった。血の味も、空腹の前には程よい塩気としか感じられない。思わず、彼は二切れ目に手を伸ばした。
――そもそも、なぜ余は勇者の身体に入った?
奴の仕業……にしては、あまりに何も動きがなさすぎる。未だ油断はできないが、可能性は薄いだろう。
では、余に恨みを持つ配下の何者かの仕業か? だとすれば、心当たりが多すぎて、到底特定には至らんな。
同胞の肉を喰らいながら、彼は元の身体に戻る方法を探る。
――しかし、余が勇者の身体に入ったのだとすれば、「勇者」はどうなっている?
もし、もしも「勇者」が余の肉体を乗っ取っているのだとすれば……
彼は、噛みしめた肉から血の味を感じた。
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