鶏口取るも牛後となるなかれ
日本の鐘は、巨大な釣鐘を丸太で突くと「ゴーン」と鳴る。
近くのお寺で、午後3時に鳴らしているのが聞こえてくる。
口径が狭くて籠るため、余韻を楽しむことができる。
ヨーロッパの鐘は、内部の舌ゼツという部材が鐘に当たって音が出る。
「ゴンゴンゴンゴン」と連続して何度も音が出る物が多い。
口径が広くて、高い音が出る。
余韻はあまりないものが多い。
最近は大晦日に除夜の鐘を聞くくらいしか機会がない地域が多いだろう。
ヨーロッパ式の鐘の音は、観光地くらいでしか聞いたことがない。
ハンドベルも広義の鐘である。
クリスマスソングなどを、演奏することが多いようだ。
自分はクリスチャンではないが、近くの教会へ行って本格的な演奏を聞くとクリスマスムードがとても盛り上がるものだ。
ハンドベルは、簡単な曲なら割と手軽に演奏できるので、何度か演奏に加わったことがある。
またやってみようと思う。
鐘・ハンドベルについて
日本の鐘は、巨大な釣鐘を丸太で突くと「ゴーン」と鳴る。
近くのお寺で、午後3時に鳴らしているのが聞こえてくる。
口径が狭くて籠るため、余韻を楽しむことができる。
ヨーロッパの鐘は、内部の舌ゼツという部材が鐘に当たって音が出る。
「ゴンゴンゴンゴン」と連続して何度も音が出る物が多い。
口径が広くて、高い音が出る。
余韻はあまりないものが多い。
最近は大晦日に除夜の鐘を聞くくらいしか機会がない地域が多いだろう。
ヨーロッパ式の鐘の音は、観光地くらいでしか聞いたことがない。
ハンドベルも広義の鐘である。
クリスマスソングなどを、演奏することが多いようだ。
自分はクリスチャンではないが、近くの教会へ行って本格的な演奏を聞くとクリスマスムードがとても盛り上がるものだ。
ハンドベルは、簡単な曲なら割と手軽に演奏できるので、何度か演奏に加わったことがある。
またやってみようと思う。
エマのつぶやき 「宇宙神エマ」より
みなさん、小説を読んでいただいてありがとうございます。
読んでいない方は、興味を持っていただけると嬉しいです。
人間は自然の摂理を「神」と呼んで、理解を超えた振る舞いをコントロールしようとしました。
神はこの世に存在しないことになっていたはずが、実は宇宙の果てに神の惑星があったのです。
宇宙からやって来た私は、中山直也と奇跡のような出逢いをしました。
朝目覚めたら、自分を押しのけて知らない人が寝ていたのですからね。
普通は事件で処理するでしょう。
中山家の人はみんな器が大きくて、私をすぐに受け入れてくれました。
感謝感激雨あられです。
そして物語は意外な方向に流れていき、ナオヤを翻弄します。
作者も相当翻弄されたみたいです。
キャラが予想以上に濃かったと言ってます。
小説を書き終えて、筆をおいてからも、わだかまりがずっと胸に重くのしかかり、憂鬱のあまり続編を書き始めました。
題名になっている私が出てこないまま書き始めることになり、これからどうなるのか。
そして作者の歴代の作品の中で3位の読者数に達してしまい、軽い気持ちでは書けないぞ、と思ったそうです。
深刻に考えてしまうあたり、ナオヤと作者は共通点が多いのかもしれないね。
では、また物語で会いましょう……
無から有は生まれない
無には3つの意味がある。
1 何もないこと。存在しないこと。「―から有を生ずる」⇔有。
2 哲学の用語。
㋐存在の否定・欠如。特定の存在がないこと。また、存在そのものがないこと。
㋑一切の有無の対立を超え、それらの存立の基盤となる絶対的な無。
3 禅宗で、経験・知識を得る以前の純粋な意識。「―の境地」
「出典:デジタル大辞泉」
無に似た概念の「0:ゼロ」は、「記号としてのゼロ」と「数としてのゼロ」に分けられる。
「記号としてのゼロ」の起源は、紀元前数世紀のバビロニアである。
プトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年)のエジプトでも使用されていた。
記号としてのゼロは、その位が無いことを表す記号である。
だから、無の概念とは異なる。
「数としてのゼロ」は7世紀(紀元628年)に、数学者・天文学者であるブラーマグプタが、その天文に関する著書「Brahmasphuta Siddhanta」(宇宙の始まり)において、「0(ゼロ)と他の整数との加減乗除」について論じたことが起源とされている。
「出典:ニッセイ基礎研究所HPより一部抜粋」
無の概念は、高度な哲学になるので引用をした。
わかりやすく言うと、数字で表現するときに、対象が無いことを表現するときの「ゼロ:無」。
もう一つは、無を考える主体さえも無い、絶対的な「ゼロ:無」。
一般的に「無」というと、後者を指すことが多いと思う。
アイデアを出すときには「無から有は生まれない」と考える。
必ずアイデアの種になる言葉やイメージが無くてはならない。
何も条件設定がない場合は、自分で制約をつける。
制約があることによって自由な発想が可能になる。
絶対的な無は思考を停止させる。
だが、アイデアに詰まると絶対的な無にハマってしまうことがある。
目がうつろになり、いつまでたっても生まれてこない。
これを避けるためには「無」をきちんと理解しておく必要がある。
アイデア出しが苦手な人はここを意識すると良いと思う。
仕事をするときには、短時間で複数の案件をこなすことが多い。
だから「無」への対処法を考えておかなくてはならない。
そんなときに「無」にハマったら仕事にならなくなってしまうからだ。
現代人は個性を煽られている
アイデンティティとは、個性と言い換えられる。
個人、民族、組織、集団、国など、さまざまなレベルで使われる。
アイデンティティというと、皆で話し合って決めたり、昔の歴史を紐解いて軌道修正したりできるような気がする。
だが、個性というと個人のパーソナリティであり、簡単に修正できない気がする。
現代社会の問題として、個人が集団の中に埋没しやすい構造があげられる。
学校であれば、クラス、委員会、部活、友達の集団などさまざまな集団に属し、場面によってその集団のアイデンティティに支配される。
一度集団に所属すると、皆と違う方向を向くことが難しくなる。
思い切って逆らってみると、反発を受けて集団からはじき出される心配がある。
もしそれが仕事上の部署やプロジェクトチームだったら周りに合わせないと足を引っ張ることになりかねない。
このような社会で生きていると、個性を発揮することが重要な意味を持つ。
自分を押し殺して生活していると、ストレスがたまるので、趣味や家庭生活、遊びなどで自分の個性を確認する必要がでてくるのである。
ここでいう個性は誰にでもあるものであり、自分の力で修正できないものでなくてはならない。
他人と違うところがあればよい、という程度では自分という確固たる存在を確かめられないからだ。
だから現代人は「個性を煽られている」と表現されている。
本当に個性が大事だろうか。
自分は、個性を空気のようなものでなくてはならないと思う。
アリとキリギリス
子どものころ、アリを観察するのが好きだった。
地面を見ると、いつでも小さなアリを見つけることができた。
ときどき、大きな葉っぱなど自分の体の何倍もあるものをせっせと運ぶ。
子どもはいじわるで、その荷物を取り上げてしまったり、水をかけたりする。
アリを手の平に乗せてみると、全速力で腕を登ってくる。
いつもアリは一生懸命働いているイメージである。
絵本や童話でアリがでてくると、働き者で善のキャラクターになる。
有名な「アリとキリギリス」のお話は、最近のバージョンだとアリとキリギリスをあまり批判しないようだ。
昔はキリギリスが冬にエサをアリに分けてもらおうとすると、拒否されて飢え死にする話だった。
それが分けてあげてみんなハッピーになっていた。
アリのようなキャラクターは、日本人の国民性からすると理想的なキャラのような気がする。
しかし、キリギリスのような芸術家肌のキャラも許すようになった。
苺と批判主義
「苺は、草になる。
草になる果実は、野菜である。
ゆえに苺は野菜である」
こんな話を聞いた。
三段論法だとこのようになってしまう。
苺は果物であることは疑いようがないが、
なぜこんなことになってしまうのだろうか。
このような例外はどこにでもあるものだ。
「一つの論には、必ず反論がある」
哲学者のカント派の批判主義の精神である。
人間の認識能力の限界を吟味する態度で、
すべての事象を検討する。
野菜と果物を分類しようとするとき、
定義を必要とする。
だが、明確な定義を論理的に決めると、
必ず例外が出てくる。
苺がどちらに分類できるのかを、
植物の形体的特徴から決めるからこうなるのである。
スーパーの店先に並んだ苺が、オレンジやリンゴと一緒に並べられることは、
ごく自然である。
一般的に味に酸味と甘味がある食べ物はデザートになることが多い。
苺はこちらの部類である。
ところで日本は法治国家であるが、
論理的な定義を明確に規定した刑法によって、
刑事訴訟が行われる。
すると誤審が多くなる。
過ちが起こると、さらに論理を細分化していく。
こうして素人には手が出せなくなった。
若者は、明日死ぬかのように生きよ。 老人は、永遠に生きるかのように学べ。
「明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ」ガンジー
先日10代の若い人たちとコラボしたイベントをファシリテートした。
60代の社会的地位のある人たちに、取り組みを発表したところ、
「10代の人たちの作品とは思えません。
こんなに物を作れるとは思いませんでした。
自分はもうそんな歳ではありませんが、
何か作ってみよう、という気持にさせられました」
参加した10代にも刺激になっただろうし、
60代にも刺激になった。
このイベントを通じて、
長い人生の一瞬を共有した。
街でバッタリと会ってもこのような相互作用は起こらない。
出会いとは、素晴らしいものだといつも思う。
ガンジーの言葉を借りて、こういいたい。
「若者は、明日死ぬかのように生きよ。
老人は、永遠に生きるかのように学べ」
年賀状(2020年のつぶやき)
「来年は丑年だから、牛の写真を撮ろう」
昔は10月になると、写真入り年賀状を頼んだものだ。
早期割引で30%引きになるからだ。
そして、去年来た年賀状の数を数えて、必要枚数を予測する。
もっと昔は、はがきサイズの版画を作ったこともある。
彫刻刀で「賀正」と干支などと彫るのである。
市販のスタンプやシールを使ったこともある。
はがきサイズの中に、エネルギーを込めて作ることが恒例行事であった。
しかし、最近は年賀状が極端に減った。
職場でも「個人情報を守る」という名目で、年中行事も一緒に抹殺された。
多くの人がパソコンのデータベースを印刷して、宛名を一気に作る。
そしてボールペンで一言書きもしないと、
「もう年賀状はやめましょう。お互いのために」
と暗に言っている。
ここまでの話は親しい間柄や、普段顔を合わせる機会がある人とのやり取りが多い。
もう一つ別の問題がある。
フォーマルな付き合いで送る年賀状である。
例えば取引先企業や、顧客への挨拶である。
これは、やめると影響が大きいので、なかなかやめられない。
だが受け取った側は、
「今年も送ってくれた。ありがたい」
とは、決して思わない。
だからと言って、メールやSNSでは、年賀状よりも読まれないだろう。
減っていくことは否定できない事実である。
「妬み」の構造
「挑戦者」を引きずり降ろそうとする「妬み」は、身近な所で起こる。
所属する集団内では、新しいことをする人は波風を立てるので嫌われることがある。
その人の地元では評価が低くて、離れれば離れるほど評価が上がるという構造になっていくのである。
これは妬みという、集団を維持するための機能が働くからである。
挑戦する人は、失敗を繰り返すが最終的には成功する。
そして「成功者」は望外な報酬を得たり、名声を得たりする。
そのような人は集団のリスクである。
経済では、収入が増えることもリスクと呼ぶ。
つまり予想外のことはすべてリスクなのである。
経済と同じように、小規模な社会は機能する。
そして挑戦者は足を引っ張られ、達成感は半減させられる。
だが、挑戦者はそんなことではめげない。
挑戦すること自体が目的化し、周囲の目を無視し始める。
世界は広いのだから、認めてくれる人を探せばよい。
選択肢があると脳が喜ぶ
選択肢がある、ということがサービスであり、脳に快感を感じさせる。
半面、毎日のルーティーンワークのように選択肢を排除したい場合もある。
この狭間に日常があって、選択肢を瞬間的に選びながら生活している。
面白い視点だと思った。
ビジネスでは、選択肢を作ると手間が増える。
だが顧客視点では、自分で選んだ、という気持ちが大事になる。
失敗しても、いくらか自分に非があったと自覚するだろう。
この意識が、ビジネスを健全化し、社会に良い影響を与えるはずだ。
あの人は理系だから……
「あの人は○○大学の△△学部出身だから……」
こんなことを良く耳にする。
日本人は出身大学にこだわりが強い。
人となりを表現するために、出身大学と学部は確固たる指針になると思い込んでいる。
でも考えてみれば、卒業して数十年経ったとしても、出身大学と学部にこだわっている人は、大学を卒業してから何も得ていないことになる。
大学で学んだことをずっと活かし続けるのは悪くないが、大学で学んでいない分野にはまったく興味を示さず、勉強しなかったのだろうか。
「あの人は理系(文系)だから……」
これも同様である。
理系の学部を卒業した人はみな、科学的に物事を考えて、論理的に処理するのだろうか。
そんなことはないはずだ。
統計学的には、理系の人と文系の人の行動特性が見られるだろう。
だが、ステレオタイプと化したイメージで、何でもかんでも考えていたら個人が無視されるような気がする。
自分は文系卒だが、薬学、危険物、コンピュータ関係の資格を取った。
もともと理系の考え方が得意なのに文系に進んだと思っている。
だがそれが強みになった。
若者が3年で仕事を辞めるわけ
企業の寿命が縮まりつつある。
生涯のうちに何度か転職をすることが当たり前になったと言われている。
労働人口の中からそろそろいなくなる団塊の世代は、終身雇用をイメージしているが、若者にはそれが描けない現実がある。
また非正規雇用がとても多くなったことも、若者が仕事を辞める原因だと言われている。
一言でいえば
「我慢をしても、将来良い思いができない」
ことがハッキリしているのだ。
だから職場でトラブルが起きたり、人間関係に悩んだりすると辞めるのである。
これは「根性がないから」ではない。
転職が一般化したからである。
ちなみに自分は、新卒で働いていた職場が数年で消えてなくなった。
20代の話だ。
待遇が良くて、あまり不満はなかった。
アルバイトを30種類くらいやった。
これは苦労ではない。
社会がこうなったのだと思っている。
生活習慣病で死ぬ人が本当に増えたと思う
現代人は野菜不足といわれている。
子どもも、野菜を残しがちだ。
自分は野菜をたくさんとっている。
中年を過ぎたら気をつけないと本当に死ぬかもしれないからだ。
先日も知人が死んだ。
運動習慣があっても、コレステロールがなかなか下がらない。
人間ドックでコレステロールがいつも引っかかる。
今年は食生活に気を付けたので大丈夫だった。
生野菜が苦手な人は野菜ジュースを飲めばいい。
自分は野菜ジュースに青汁を混ぜて「ハイパー野菜ジュース」を作って飲む。
松の樹皮の抽出物もサプリとして飲んでいる。
あとは間食を控えることである。
むやみに食事の量を減らすと、反動が怖いので、無理はしない。
後は柔軟体操と腹筋運動で内臓脂肪を燃やす。
ロングテールについて
どんな商品にも寿命がある。
始めはヒットした商品であっても、次々と新商品が市場に投入され、やがて消えていく。
縦軸を需要(販売数)、横軸を経過時間にしたグラフを作成すると、右肩下がりになるが、なかなか0にはならない。
またほとんど売れないニッチ商品の総計が、ヒット商品を上回るという推計が出て話題になった。
これが巨大通販サイトとして成功したAmazonの企業理念でもあった。
ホームセンターのジョイフル本田もロングテールの考え方を実践している。
大きな倉庫にほとんど売れない商品をたくさん揃えて、ニーズがあったときにすぐ蔵出しできる体制を作っておくのである。
書籍の場合はデジタル化してアーカイブされた本を、ニーズがあったときに1品制作して販売すれば、ニッチな需要に対応できるし拾い書棚や図書館の蔵書庫はいらななくなる。
そして、このロングテールのニッチ商品が、いつまでも消えてなくならないことに寄て別の効果が表れている。
昔流行った商品が、ヒット商品として生まれ変わって消費者に見いだされるようになったのである。
リバイバルが増えたことも、この効果によると言われている。
糧を捨て海に沈む
海なし県では、船といえば沼や池のボートくらいである。
昔は川に渡し舟があったらしい。
近所の川では、昔小さな船で荷物を運んでいたらしい。
「糧を棄て船を沈む」
という言葉がある。
史記と太平記で用いられている言葉だ。
兵糧を捨てて、生きて帰らない覚悟で戦うことである。
「乗る船が沈む」
というと、大きな会社が倒産して、あたかも豪華客船が乗員乗客を巻き込んで沈む様子をイメージする。
自分も勤めていた会社が潰れた経験があるが、まさに乗っていた船もろとも皆海の藻屑になった。
そのような緊急事態に遭遇したとき、人間の本質がでるものである。
普段仕事を頑張っていた人が、何のために頑張るのかを問われる。
他人の目をいつも意識していた人は、意識するものが突然消える。
いい話ではないので、どうなったかは想像にお任せしよう。
ところで、海で船が沈没するときにはどうしたらいいのだろう。
調べてみると、損傷した部分、船の重心によって対処の仕方が違うそうである。
船には浸水がある程度進むと自動的に外へ水を汲み出すシステムがある。
だから、乗員は船が損傷したことをいち早く知ることができるはずである。
いざというときには、素人判断せず落ち着いて避難することが大事だ浪である。
周囲を喜ばせること
今朝であった記事を紹介します。
30年後の自分、喜ばせる、という言葉にハッとさせられました。
自分の小説の中で、30年後の生活と対比して書いた作品があります。
10代から20代にかけての少年が将来の理想を掲げるが、挫折と絶望のなかでもがき苦しむようなストーリーです。
主人公は、30年後など想像もできない、と何度も言いますが、結果的には理想通りになります。
「未来は自分が思い描いた通りになる。良くも悪くも」
といいます。
理想を掲げればそれに近づき、自信を持てなければその通りの未来がやってくるものだと自分は思います。
朝一番に読むのに相応しいコラムでした。
鉄道中心の都市計画は制度疲労が甚だしい
電車について、小説を一本書いた。
利便性を感じるよりも、朝夕のラッシュの凄まじさをまず考える。
駅まで移動して、電車に乗るまでに長い階段を上り下りする。
駅近の物件が高騰し、デパートやスーパーも自然と駅近が繁盛する。
大都市は駅を中心に発展してきたといってもいい。
だが、自動運転車という、とんでもないものが実用化されようとしている。
もしこれが市場に現れたら、瞬く間に社会のインフラになるであろう。
なぜなら、サラリーマンが周りを気にせず安全に居眠りしながら通勤できるのだ。
スリに遭うことも、朝帰りの酔っ払いに絡まれることも、痴漢に遭うことも、
機嫌が悪い人に怒鳴られることも、人の圧力で骨折することも、
感染症の心配をする必要もないのである。
メリットを挙げればきりがない。
数百万円投資する価値は充分にある。
こんな夢のような話があるだろうか。
可能性として、自動運転車は安全だから車体を小型化できるはずだ。
そうなれば、道路をもっと有効に活用して交通渋滞も減らせる。
時代に合わないインフラは、心の病気を増やし、経済成長の障害になっていると思う。
メンタル不調になった人は、電車に乗れなくなるケースが少なくない。
裏を返せば、そのような人たちは電車に乗らない生活ができれば、メンタル不調にならないのではないだろうか。
少なくとも、鉄道中心の都市計画は制度疲労がはなはだしい。
猫派ですか?犬派ですか?
猫は犬と対比して、自由にふるまうことの象徴になることがある。
猫は人になつくが、犬は家になつく。
猫は気まぐれで、犬はいつも従順である。
猫は飼いならすのが難しいとされている。
猫は死ぬとき遠くへ行って死ぬ。
猫は化けて出る。
他にもいろいろあるが、猫派か犬派かで人間の性格がでるとされている。
初対面の人に自己紹介をする場面で「私は猫(犬)派です」というネタを使うときがある。
人前で喋るのが苦手で、固まってしまった人に対して、
「猫派ですか? 犬派ですか? 」
と投げかけると、大抵答えてくれる。
そして場が和む。
猫と犬の対比は、社会生活をどのように捉えているかを象徴しているのである。
ちなみに私は犬派である。
犬しか飼ったことがないし、自分も犬的な人間である。
自分でコントロールできることを増やすって大事ですよね
「この記事、凄いバズってる!」
いつものように4時起きで記事を見ていた……
「エッ! 中身硬いやん」
驚きの連続。
データをもとに客観的にビジネス誌をみるような感じで読んだ。
自分は硬い文章が好きなので、サクサク頭に入ってくるが……
「誰かが、語りかけるような砕けた口語調がnoteではうけがいい」
といってたはずだぞ!
金返せ!(金払ってません)
なんでやねん。
自分にとっては衝撃だった。
馬を水場に連れていくくだりは、武道の稽古で良く言った言葉だ。
素振りや、地味な基本稽古を気が遠くなるほど繰り返さないと上達しないから、そういうのである。
日本人は押忍の精神で単純作業を繰り返すのを美徳と考えている。
実際、武道においては日本人が工夫した技が世界中で認められてきた。
グレイシー柔術、空手、剣道、柔道など枚挙にいとまがない。
だが、このような精神性を職場でも感じる。
「仕事に生活の全てを捧げる」
こんな人、身近にいますよね。
だったらエッセイ
やったらええやん。
自分が言いたいこと書いたらいいやん。
自分はこんな風に思いました。
それは「著作権」の問題ではありません
まず、一般的に認められる可能性がある、表現手法と区別すべきです。
勿論、個別具体的に考える必要があります。
前提として、最近「著作権を主張したくない」と考えるクリエイターがとても増えています。
わざわざ表示をして、自由に使って欲しいと伝えるマークもあります。
そして、知的財産権は世界基準に合わせる動きが顕著になっています。
TPP関連の知的財産権の法改正が記憶に新しいところです。
論点として代表的なものを挙げます。
1 オマージュ(リスペクト)
原作者に敬意を表して、明らかな二次創作であるとわかる形で表現した場合、営利目的でなく、品位を損ねるものでもなければ、黙認される事例が多数あります。
原作者からしてみれば、こんなに自分の作品を気に入ってくれたと思い、好感をもって受け入れるケースが多いのです。
2 引用
引用部分を明確に認識できれば、「以下引用」などと表示していなくても認められる場合もあります。
3 トレース
著作物の創作性に「タダ乗り」していると認められないトレースは、著作権侵害に当たるとは言い難いです。
例えば「創作性がない」写真をトレースして漫画の背景を描いた人を、訴えた事例は見たことがありません。
次に「著作物」に関する誤解について主な視点を挙げます。
1 幼い頃からお絵描きや工作で「まねっこ」批判をしてきた。
アイデアを出すのは苦しいので、つい他人と類似性がある絵を描いたとします。
程度にもよりますが、「これは真似だ!」と大声で言う人が出てきたら、真似したとされる人は他人の大事な物を「盗んだ罪人」になってしまいます。でも考えてみてください。
他人に真似されるほど憧れる絵を描いた人は、誇りに思えばいいかも知れません。
真似してしまった人は、絵が苦手で自分では発想できない人なのかも知れません。
そんな人には何か、救済策が必要だったのではないでしょうか。
2 作品は世界で一つだけの高尚な物だという誤解。
自分の個性が出て、苦労して描いたり作ったり、あるいは文章を書いたりしたものはかわいい自分の子どものようなものです。
ただし、この世にただ一つの、他の何物とも類似性がない物など存在しません。そのような物があったら、きっと認知できないことでしょう。
海外文学を読んでいると、「日本の小説はみんな似ているな」と思います。
改行の仕方、文字数まで事細かに、社会の圧力で制限しているということが、他者と比べることで良くわかるのです。
著作権の焦点の一つである「類似性」はフェーズを変えると容易に覆ってしまいます。また主観的な基準であることが多いのです。
最後に、インターネット上では様々な人が匿名で意見を言えるため、誤解によって始まり、誤解が膨らんでいった著作権関連の事件が見られます。
著作権関連の訴訟になりやすい「マスコットキャラクター」関連の判例を調べると興味深いことがわかってきます。
多くの判例で、泥沼化して争点が曖昧になっています。
著作権侵害が認められるためには具体的な絵と似ていなくてはなりません。
キャラクターの性格やイメージが似ているだけでは、なかなか認められないのです。
つまり「キャラクター」自体が著作権で保護されるのではなく、イラストなど具体的な創作物の形と色、という客観的に認知できる固有の表現が著作物なのです。
話が脱線しますが参考までに、個人情報保護を怠ると、多額の賠償金を企業が払うと思われがちですが、きちんと調べてみれば「何もしない」で切り抜ける企業が多いのです。
これだけ法律関連の問題は、込み入っているということです。
大人は幼児にも劣るときがある。残念ながら。
「きゃあぁ。ひやあぁ」
幼児はよく遊ぶ。
一日中、奇声を発しながら、支離滅裂な言葉が口からあふれだしている。
「あのね。そのね。あのね」
言葉がなかなかでて来なくて、前置きが長い。
そして、言いたいことは大したことがない。
ブロックを組み立てたり、絵を描いたり、中高生よりもよほどクリエイティブな遊びをしている。
ときどき、
「家族ごっこしよ」
というのでドキリとする。
思春期に「家族ごっこ」と口にしたら、家庭生活が茶番だといっていることになる。
これはどうやら「ままごと遊び」のことらしい。
子どもたちはYouTubeが大好きで、ロシアの幼児向け動画をよく見ている。
同じ番組を飽きもせず何十回でも見る。
地上波と違って、気に入らなければストップして違う動画を見ることができる。
そして、面白い場面だけを何度も戻しては見ている。
感染症対策で、自宅に籠っていたと気に、タブレットを買い与えた。
すると、3歳になったばかりの子でも、教えなくてもどんどん試行錯誤して使えるようになってしまった。
大人も見習うべきだ。
マニュアルを読んで理解しようとする大人が多いが、
実際に操作してみると大したことはやっていない。
大人は幼児にも劣るときがある。残念ながら。
無邪気な気持ちと感動
小説を書いていて、登場人物が無邪気な気持をふと見せると、感動することがある。
ビジネスや戦いなど、他者との競争や騙し合いを描いた裏側に心情が生まれて、表にでてくるときにそのような場面が描かれる。
感動とは共感が生むものである。
何らかの理想や安心感に自分の経験や思い出などを重ねるのだと思う。
その場面は狙ってできあがるものではない。
作者は、
「どうもうまくいかないな」
と思いながら、丸一日くらい考えて筋が見えるものらしい。
物語の良し悪しはそんな感動の場面をどう設定できるかにかかっている。
個人的には、
「人それぞれに感じ取って欲しい」
と思っていては、うまくいかないと思う。
人間の偽りのない気持が垣間見える、という場面を流れの中に見いだすのは偶然でもある。
あまり無邪気過ぎても面白くない。
社会生活を送るために、我慢していることや、取り繕っていることがちょっとズレていく感じである。
初心者の自分にもカツオなどが釣れた
海なし県に住んでいるので、海に行くときは遊びに行くか通りかかるくらいしかない。
子どもの頃旅行で行ったり、仕事で通りかかったりするとつい眺めてしまう。
海水浴をして遊んだことは数えるほどしかない。
行っても波が高くて遊泳禁止だったり、お盆過ぎでクラゲが出るからやめたりした。
海釣りに2度行ったことがある。
自分は釣りの経験があまりないが、知人にアウトドアの達人がいて釣りも凄い腕前だった。
ある漁船のホームページのトップに、大物を釣った写真が載っていた。
伊豆沖へ漁船でるために、朝は夜明け前に乗り込み始めは酔ってしまった。
少し荒れ気味だったことと、舳先に乗ってしまったので上下に大きく揺さぶられ、ちょうど「高い高い」を小一時間続けられたようなものである。
数十分うずくまっていると治った。
ルアー釣りだったので、投げる練習を1時間ほど事前にしてからいった。
360度水平線が見える風景は、気持も大きくする。
ところどころに魚の群れが見えて、カモメが狙っている。
船長さんが魚が集まるポイントに止めてくれて、一斉にルアーと投げ込む。
すると初心者の自分にもカツオなどが釣れた。
とても清々しい気分になったことを覚えている。
久しぶりに全速力で100メートルを走る
久しぶりに全速力で100mを走る。
これだけで大腿四頭筋の真ん中あたりが痛くなった。
運動不足な人は真似しない方がいい。
アキレス腱を切った人、転んで骨折した人もいた。
走る前に柔軟体操を充分にやって、体をほぐしてもやはり若い頃のようにはいかない。
途中で足のリズムがおかしくなって、少し失速気味だった。
走り終わってから、
「軽く練習しておけばよかった」
と思った。
自分の全力がどれくらいなのかわかっていなかった。
どこまで力を入れていいのか迷いながら足を回転させていたので、途中でリズムがわからなくなって2度踏みしてしまった。
柔軟体操と筋力トレーニングとバランストレーニングをしているので、同年代の人の中では体が動くし前屈も開脚もできる。
だが、走るとどうしても無理がくる。
走るフィジカルは、走ることでしか養われないことを忘れていた。
ニッチ文化と広告
マスメディアを利用して広告を打つ場合、新聞、テレビCМ、屋外の看板、電車の中づりなどに予算を割り振って制作していた時代があった。
現在ではWEBの媒体が成熟しつつあるので、従来のマスメディアという考え方は通用しなくなってきている。
むしろ少数の熱狂的なファンが集うニッチ文化がターゲットになる。
商品と企業イメージに合致した媒体を選ばなくてはならないし、広告効果を正確に予測して予算配分をすることが重要である。
クリエイティブディレクターなどがやっていたそのような仕事を、AIがビッグデータを参照して行うようになっている。
人間の勘と経験よりも、コンピュータによる客観的な裏付けがあった方が、クライアントの信頼を得やすい。
そして、クライアントの広告を「見たくない人」に送らないこともイメージアップの効果があるだろう。
自分用にカスタマイズされた広告だけを表示するシステムが一般的になって来たので、大衆向けに「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」というやりかたは少々乱暴かも知れない。
英才教育は何歳から始めるものだろうか
英才教育とは、どれくらいから始めるものだろうか。
2際だと、まだほとんど集中できない。
頑張ってもせいぜい5分程度である。
3歳から習い事をした、という話をよく聞く。
英語教材では、0歳からというものもある。
英語の歌を聞かせたり、映像を見せたりするのである。
小学校でも英語が必修になったし、幼稚園では数や色など簡単な英単語を教えている。
「英才教育」というと、将来天才が育つような教育を指すのであろう。
この場合には、少々背伸びをして教え込む感じがする。
子供が通っているピアノ教室や空手道場では、2,3歳の子をじっとさせるだけで精いっぱいという感じに見えた。
だが、親が教育熱心な家の子は、4,5歳でもかなりできる子に育てている。
うちは習い事を早くからさせているし、英語にも生まれた時から触れさせているが、伸び伸びと育っていて、英才教育という言葉とはほど遠い。
太陽が作る陰と影
「太陽の日光が植物の葉に当たり、光合成して酸素が作られる」
学校でこのように習う。
太陽の光がなければ、酸素が造り出せなくなり生物が生きられなくなるわけだ。
また、野菜、果物、米、小麦などを育てるためにも不可欠である。
これらを収穫して、食べることで生命が維持されている。
ごく当たり前のことだが、太陽の光を意識すると日常の風景が違う見え方をする。
外に出るを身の周りの物に光が当たっていて、反対側が陰になっている。
カゲにはもう一種類ある。
地面や他の物体に落とす影である。
陰影という言葉があるが、「陰」と「影」は別の意味があるのだ。
「人影が見える」
これは人の姿が見えると言う意味である。
つまり「影」には姿という意味合いが強い。
唐辛子は辛い形をしている
畑で栽培している唐辛子を見たことがあるだろうか。
ナスやピーマン、きゅうりなどは花が咲いたところに実をつける。
実が大きくなるにしたがって、その重さで垂れ下がってくるものである。
みかん、リンゴなどの果物も、垂れ下がるものが多い。
だが、
唐辛子は垂れ下がらない。
草のてっぺんや、枝の付け根などに付いた実が、上を向いたままで熟していく。
あたかも草が燃えているかのように見える。
真っ赤な実が、緑の葉や茎と対照的で鮮やかに激しく演出される。
また、実の塊がギザギザとしたシルエットを描き、辛さを想像させる。
植物がその形体から味を感じさせている。
DVD不思議な光る円盤
「これ、何に使うんですか」
本に添付されている円盤を指して、高校生が質問した。
受験予備校で英語の教材を配布したときの話である。
たまにDVDつきの本を見かけるときがある。
昭和生まれの人間でも、最近はDVDを煩わしく思う。
映像はYouTubeのQRコード。
テキストデータはダウンロードサイトのORコード。
こちらの方が手軽に活用できる。
DVDをなぜ煩わしいと感じるのだろうか。
まずはその大きさである。
厚さ0.6mm、直径12cmという大きさだ。
これがたくさんたまってくると、専用ファイルに入れて整理する必要が出てくる。
材質はポリカーボネート。
屋外のファサードなどにも使われる、ごく硬いプラスチックである。
読み込み速度は機器にもよるが、インターネット回線でダウンロードするより時間がかかる。
DVDプレイヤーに入れると、ブーンという回転音がして読み込まれるまでしばらく待つ。
このような作業を想像して、煩わしさを感じてしまう。
また光沢がある読み取り面を素手で触ってはいけない。
年月が経つとカビが生えたりする。
プレイヤーの読み取り装置にホコリが付くと読み取れなくなるので、定期的にクリーニングする必要がある。
以上のように、物としてのメディアよりも、インターネット上にデータを保管した方が利便性が高く、経年劣化もないと思う。
風神仏に化ければ感染症対策のために人が集まるのではないか
風は古くから信仰の対象だった。
風神の図像の元になった、俵屋宗達の風神雷神図は、一説には左遷された菅原道真が復讐しにくるという北野天神縁起絵巻が起源である。
風には風邪や感染症という意味がある。
江戸時代に「風神払」という、乞食の一種とされる人たちが出没した。
お面をかぶり、太鼓を打ち鳴らして踊り、疫病を払うためといって金をせびるのだ。
今のご時世に「風神払」をすれば商売になるかもしれない。
近所の商店街で「チンドン屋」がよく出没する。
この人たちが「風神払」に化ければ、感染症対策のために人が集まるのではないだろうか。
生まれ育った埼玉県北部では、冬に赤城颪という猛烈な風が吹いた。
向かい風では自転車が進まず、追い風ではスピードが出すぎるのでブレーキをかけ続ける、という具合である。
また田畑の土や石を舞いあげるので、散弾銃のように体に石を打ちつけられる。
小学生のときは片道3kmの道のりを歩いて通ったので、赤城颪の厳しさが心に残っている。
近未来を表現することは難しくなった
未来を考えるとき「Society 5.0」を意識する。
内閣府によると「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムによって開かれる」と解説してきんみいる。
インターネットを、情報を得るために使うだけではなく、日常生活に深く根差した関わり方をすることである。
さまざまな構想が具体的に示されている。
すでにかなり普及してきている、スマートスピーカーもその一つだった。
他にも自動運転車など近々実現する技術もある。
SF小説を書くときに「近未来」を表現することが難しくなってきていると思う。
技術が加速度的に進歩しているので、人間の想像力が追いつかなくなっているのではないだろうか。
未来を描こうとするとき、中世のような雰囲気を織り交ぜるストーリーが多く見られるようになった。
未来のイメージが描きにくくなった証拠である。
ただ単にメカニカルだったりするだけではリアリティを感じない。
それよりも、人間の肉体のような有機的な形に沿ったデザインとか、有機物を連想させる構造の方が未来的な感じがする。
すでに「Society 5.0」で未来を語ることが難しくなり、人間の幸せとテクノロジーの関係を深く認識してイメージを広げていかなくてはならない。
売れるものを書くのか。書くものが売れるのか
これにはさまざまな意見があるだろう。
人生観といってもいい。
自分は、超マイペースな人間なので、自分が書きたいものを書く。
人生観と照らしても、それが正しいはずである。
大衆受けするものを書くと「こうあるべき」という制約が増えていく。
これが伸びやかな表現を妨げる。
おそらく、良い文章とされるモデルがあって、その型に近いものを良しとするのであろう。
自分にとって、売れるとは「人に名前が売れる」に近い。
ごく少数でもいいから、心から良かったと言ってくれるものを生み出したい。
これはロマンチックな理想である。
昔、自分が作ったものを、わざわざ遠くから見に来て下さった方や、医療施設から少ない外出時間を割いて見に来て下さった方がいた。
そんなことが、大事だと思う。
最終的には売れれば良いが、それを目的にすると作品の生命が失われる気がする。
誰かに読んでもらいたい、と思う一方で、自分が満足しなくてはならない。
お金の問題ではない部分と、稼がなくてはいけないという現実もある。
そのはざまで折り合いをつけるのが作家のあり方であろう。
目に見えない空気を可視化する
目に見えない空気を、可視化するときどう表現するだろうか。
人間が呼吸するところを表現すれば、目に見えない空気を感じるだろう。
泡ではどうか。空気が泡に包まれている。
空気を吹きかけて、何かが飛んでいるところ。
風になびく旗。
このように、空気は見えないので、空気が起こす現象を表現すればよい。
では、
「この人は空気が読めない」
というときの空気はどうか。
この場合の空気は、場の雰囲気やその場にいる人の心情を指している。
この空気を表現するのは難しそうだ。
物語を組立てて表現する必要がある。
いずれにしても、空気を表現するには、それにかかわる状況やそれがもたらす現象を表現することになる。
また空気はどこにでもあって、我々を取り巻いている。
「人を空気のように扱う」
というと、酷いことをしているように聞こえる。
場合によっては、いじめである。
空気自体は表現できないので、空気を感じさせるような表現をするのである。
手は万能の道具と言われる
手首から先が手である。
「感染症予防のために手洗いをしましょう」
という場合には前腕部まで洗う。
また手は、手の平、手の甲、指に分けられる。
指は5本あり、内側に曲がる。
たまに外側まで曲がる関節が柔らかい人がいる。
自分は関節が硬くて、決まった方向以外にはまったく曲がらない。
手は「万能の道具」といわれることがある。
手で何かを掴んで運んだり、調理器具を持って料理をしたり、体重を支えるために何かにつかまることもある。
今キーボードを打っているのも手だ。
指が各々担当するキーの範囲があって、順序正しく文字を打ち続けている。
ときには音楽を奏でることもある。
「先手を打つ」
というときの手は、何かのすべを指す。
「働き手」
というときには、人の労力を指す。
辞書を引けば他にもいろいろでてくる。
手は日常生活で欠かせない道具なので、比喩表現に良くでてくるのであろう。
運動すると心も前向きになる
運動をすると、心も前向きになる。
前向きな人が運動するのかもしれない。
これは「にわとりが先か、卵が先か」の問題になる。
結論はない。
とにかく、運動と前向きな気持ちはセットである。
自分は運動が好きなタイプであるが、得意ではない。
運動神経はあまり発達していない。
だが走ったり、ハイキングをしたりすることは好きだ。
トレーニングジムに10年以上通いトレーニングしていたこともある。
でも生まれつき、なで肩であまりスポーツをしそうもないキャラである。
昨年から不要不急の外出は控えるように言われているので、家にこもることが多くなった。
元々出不精なほうなので、あまり苦痛ではないが、散歩は積極的にしている。
外にはいたるところで季節の変化と社会の状況を感じ取ることができる。
それを小説のネタにすることもある。
自分の小説は、些細なことの観察を大事にして書いている。
凄い作品を真似したりはしたくない。
というよりも、凄い作品を書こうとして背伸びした時点で、自分の表現ではないと思う。
いつも自分の内面を見つめ、外からの刺激に心を開き、自分が考えたことを前向きに捉えて表現していきたい。
薬は病気を治すものではない
薬は、病気を治すものではない。
それぞれの薬に、目的があってそれを認識して使わなくてはいけない。
病気の原因を取り除く場合もあるが、症状に対して効き目を発揮する場合も多い。
この「原因を取り除く」ことと「症状を和らげる」ことはまったく違う。
風邪薬を例に挙げると「風邪の特効薬はない」といわれている。
風邪の原因になる微生物はさまざまである。
それらに直接作用する薬は抗生物質と呼ばれている。
細胞壁を破壊したり、DNA合成を阻害したりするが、作用機序に合わないウイルスに対してはまったく効果がない。
一般に言う風邪薬は、炎症を抑えたり、たんや鼻水を抑えたり、利尿作用で尿にして排出するだけである。
これを魔法の薬だと勘違いすると、思わぬ思い込みを生む。
せきや、たん、鼻水がでなくなったら良く効いたと思う人がいる。
これは、原因になるウイルスを体内に留める結果になりかねない。
市販の薬は、症状を和らげるものが多い。
薬も商品だから、消費者のニーズに答えなくてはならない。
咳を止めたいと思っている人にとっては、咳が止まればニーズに合っている。
だが場合によっては完治までの日数が伸びる。
だから、消費者は薬の作用をきちんと認識するべきだ。
母が大病してから病院で医療関係者と話す機会が多くなり、このような思いが強くなった。
同じ症状でも医者によって対処の仕方たちがうし、どの治療法が最適かは患者側が選ばなくてはならない。
音を表現するには
音は空気の振動である。
音を表現することは、空気を表現することに似ている。
音には実体がない。
振動という現象を波で表現したりする。
大きさ、音色などの要素があるが、それらは空気の振動の様子の違いである。
音を感じ取るには耳で聞くわけだが、個別の音環境を作るために、イヤホンやヘッドホンを使う。
最近は、自分の周りの空気だけを振動させて聞くこともできるようになった。
音環境の個別化が進んでいくだろう。
またデジタルの音源もかなり自然な音が出せるようになった。
そして、素人レベルでも気軽に作曲できるアプリもたくさんある。
音楽を作曲することが、プロや天才の特権的仕事ではなくなってきたのだ。
これは小説も同様であろう。
出版社の編集者に見出されなくても、投稿サイトで小説を簡単に公開できるようになった。
そして好きな作品にコメントする環境も整った。
売れる作品を熟知したプロが選ぶのではなく、たくさんの素人が選ぶのである。
音楽も小説もパラダイムシフトが進んでいるのだ。
時代のパラダイムが、複雑さ、多様性だといわれている
大衆文化とマスコミが徐々に衰退し、ライフスタイルが個別化、多様化している。
例えばターゲティング広告があげられる。
自分が好きなものを、検索履歴や登録しているサービスから割り出し、最適化された広告が表示されるシステムである。
自分の趣味趣向に合わせて、先回りしてサービスが提供されることは便利だが、今まで興味がなかった情報を発見する機会が失われる。
このようなデメリットを宿命的にもっているニッチ文化に囲まれていると、他者とのコミュニケーションが下手になるのではないかと心配になる。
昭和の人間はテレビ番組について翌朝話すのが習慣だったが、最近は共通の話題をみんなで話すよりも、その場でYouTubeを見たりする。
隣にいる人が、どんな生活をしているのかを知ることが、大きな驚きをもたらすことは今も昔も変わらないが、すぐ隣にいる人が 思いもよらない動画を見て笑っているという具合に個別化がさらに進んでいるのである。
子どものとき、それほど親しくない人や、上級生の家に招待されてよく遊んだものだった。
そんなとき、新鮮な驚きをもって家の中を見まわしたものである。
ある人は押し入れでファミコンをしていた。
これだけで充分に驚愕の事実である。
ドラえもんか。
英語は必要だろうか
英語は必要だろうか。
学校では英語が必修科目なので、ある程度は勉強した。
外国人に何かを説明する機会がないでもないが、
「英語はできません」
といえばすむ。
現状ではそれほど不自由はしない。
だが、英語のアプリで毎日四技能を練習している。
目標は、MOOKで外国の大学の単位を取ることである。
今の英語力では日常会話程度だ。
海外旅行では英語がとても役にたった。
やはり英語が一番普及しているので、どこの国でも商売をしている人は英語を話す。
インターネットで英語サイトを見るときに、翻訳する機能を使えば読めるようになった。
同時通訳で日本語を英語に直すアプリもある。
最近は翻訳の精度が上がって来ていて、翻訳の違和感が少なくなってきた。
通訳の仕事がなくなりそうである。
それでも英語を勉強する。
やはり英語を理解して、英語で話すスキルが必要だと感じる。
プログラム言語も英語だ。
日本語のプログラム言語もあるが、日本人からすると、情けない気分になる。
やはり英語じゃないとプログラムを組んでいる気がしない。
結局英語は必要なのだが、なくても生きていける時代が迫ってきている。
コイントス コンピュータは人間を超えた人間になろうとしている
2019年秋、グーグル社を中心とする研究グループが、当時の世界最速のスーパーコンピュータが1万年を要する計算を、量子コンピュータが3分20秒で実行したことを発表した。
量子コンピュータは、よくコイントスに例えられる。
コインを投げ上げて。まだ表でも裏でもない状態を保つことが驚異的な計算速度を実現するとされている。
普通のパソコンに計算させると、人間からすれば信じられないほど速く正確に答えを出す。
だが天文学的な計算や、複雑な現象を再現する計算の場合には、スーパーコンピュータの出番になる。
そんなレベルでの話だ。
興味深いのは、正確な答えがでないことである。
何パーセントの確率でという前置きがついて答えがでる。
まるで人間が計算したような答えである。
人間はヒューマンエラーを前提にして計算する。
「人間様が計算したのだから絶対に間違いはない」
という人はいないだろう。
だが、
「コンピュータで計算したのだから間違いはない」
とはいえる。
だが、量子コンピュータは前者と同じなのである。
「コンピュータは人間を超えた人間になろうとしている」
と何かに書いたことがある。
とてもロマンチックなフレーズに聞こえる。
工場でできたてのパンはおいしい
日本人の主食はパンかごはんである。
最近学校給食で、ナンがでるらしい。
国際理解教育の一環で、和食、洋食、中華以外にもさまざまな趣向がこらされている。
我が家の食卓では、ごはんが多い。
朝は時間節約のために食パンをそのままかじっている。
スーパーなどで売っている食パンには、バターなどがあらかじめ練り込んであるため、何もつけなくてもおいしくできている。
もともとお菓子だったパンが、四角く焼かれて食卓に上るようになったため「食パン」という名前がついたらしい。
小学校のときにパン工場見学にいった。
パン工場は同じ市内にあって、小学校のときにいったきり近くを通ることもなかった。
数年前に仕事でたまたま通りかかったとき、周囲にパンのおいしそうな匂いが立ち込めていることに気付いた。
「この地域の人は、この匂いでご飯を食べられるのではないか」
と思った。
しょうゆ工場がある地域では、しょうゆの匂いが数キロ先までしていた。
こちらは口の中がしょっぱくなりそうで、いつもよだれが出てしまうのではないだろうか。
工場でできたての食品はおいしいと聞いたことがある。
スナック菓子の工場でできたてを食べると、小売店で食べるものとは別の味がする。
パンも同様なのだろう。
焼きたてパンの店で買ったパンがおいしいように。
俺が死んでも大事にするな
「俺が死んでも大事(おおごと)にするな」
といって亡くなった人がいた。
その人の葬式は東京都内の大きなお寺で盛大に挙げられた。
そのお寺の住職が、
「ここにこんなに人が来たことはない」
といっていた。
焼香に数百人の長蛇の列ができていた。
また、娘に
「俺から『死』を学べ」
といったそうである。
その娘は、
「私は娘失格です」
といった。
末期ガンだったことに気付かなかったそうだ。
それだけ気丈に振舞っていたのかもしれない。
詳しいことはわからない部分もあるが、人間味溢れる、深い話だと思う。
秋の気配を感じる虫の声
8月20日頃からコオロギが鳴き始める。
昼間は蝉が鳴き、夜は秋の虫が鳴くという塩梅だ。
家の中にカマドウマも入ってきた。足と触角が異様に長い、不気味な虫だ。
小学生のときには、平気で虫を触っていたが、中学生くらいから触るのが苦手になってきた。
虫を見て嫌だとは思わないのだが、何となく触りたくない。
小学生のとき、田園地帯に住んでいたので、バッタやイナゴ、カマキリなどが子どものおもちゃになっていた。
捕まえるとよく、足がもげた。
青っぽい体液が出て、宇宙人のようだと思った。
大人でも真顔で、
「昆虫は他の生物と体の構造がまるで違う。外骨格だし複眼など動物にない器官がある。宇宙から隕石に乗ってやって来たからだ」
という人がいる。
論理的には正しい気がするが、地球外生命体が昆虫だったらちょっとガッカリだ。
火星人がタコであったほうが、まだ親しみが持てる。
そんな、違和感満載の昆虫たちの中には、他の動物よりも小さいものが多いが、声が大きく、ずっと泣き続けるものがいる。
幼児も気分で1,2時間泣き続けることがあるが、一晩中鳴くコオロギには敵わないだろう。
よく聞くと、コオロギの中にスズムシの声が混じっている。
とても良い声で鳴くので虫かごに入れて数匹飼った。
虫の声の風情が、秋がきたことを印象付けてくれる。
秋の記事
最近急に寒くなって、長袖が必要になった。
一昨日は暑かったが、天気が曇ると途端に寒くなる。
寝るときに布団一枚では寒く感じる日もあれば、布団を剥いでいる日もある。
こういう季節の変わり目は体調を崩しやすい。
少し喉がいがらっぽいので、イブプロフェンとトラネキサム酸が多い風邪薬を飲んだ。
風邪薬には利尿効果があるので夜中に目が覚める回数が増えた。
ワクチンは2回打ったのでそれほど心配をしていない。
今度インフルエンザワクチン入りのものができるらしいが、昨年インフルエンザはまったく流行しなかった。
感染症対策の効果である。今の取り組みをずっと続ければ、インフルエンザは根絶できそうだ。
10月1日から衣替えになる。上着を着ると暑くなるかもしれない。
筋トレと柔軟体操を欠かさないせいか自分は暑がりである。
とりあえず上着をいつでも着られるように、ズボンを冬用に替えた。
記事が増殖する
「記事が増える」と「記事が増殖する」の違いは何だろうか。
辞書を引くと以下のようになっている。
「増える」数や量が多くなる。
「増殖」増えて多くなること。増やして多くすること。
「増えて多くなる」に増えるの意味を入れ込むと「数や量が多くなり多くなる」になってしまう。
「増えて多くする」に至っては「数や量が多くなり多くする」である。多くなったのか、多くしたのかわからない。
辞書的には矛盾がありそうだ。
ここはシンプルに考えたい。
「増える」は単純な増加で、「増殖」は増加の量が多いことや、意図的に増やすこと、そして外部から加わる「働きかけ」がこれからも続いていき、増え続けることだ。
「虫が増える」は例年より増えた程度で「虫が増殖する」はイナゴの大発生のような危機感を感じる。
「植物が増殖する」をテーマに表現すると、加速度的に雑草や森林が増えていくさまになる。
微生物ならどうか。ばい菌のような悪いものが増えるイメージになりそうだ。
このように、増殖には無限に増えていきそうなイメージが含まれている。
「記事が増殖する」と書くと人工知能か何かで、作者の手を離れて増え続けるニュアンスである。
土地柄について思うこと

「この家は遺跡の上に建っています」
入居のときに営業さんにいわれた。
遺跡から何かがでてきた場合、うちの持ち物になる。
もちろん歴史的大発見だったら個人が所有するものではないだろうけど。
遺跡だから、古い岩盤が残っていて、頑丈だそうである。
地震にも強い。
東日本大震災のとき、この辺一帯はあまり揺れなかった。
その当時は少し離れた所に住んでいたが、被害は台所洗剤が洗っていないお皿の上に落ちて少し出てしまっていただけだった。
棚の物もまったく落ちなかった。
昔湿地帯だったところは、被害が酷かった。
土地が低いところがそうだ。
近所でも低い所には台風の洪水で大きな被害が出ている。
うちは高台にあるので、火災保険も水害は外してある。
またこの辺一帯には城下町跡で、道路が入り組んでいる。
だが坂を下っていくとすぐに田園地帯に出ることができる。
住宅地、商業地、農業地など、バランスが良い土地柄だ。
風土という意味では、引っ越したばかりのとき、歩いている人たちが皆挨拶をしてくることに驚いた。
人情を感じる土地である。
途切れた川の絵から思うこと

「川の絵を描くと、途中で途切れた川を描く子が増えた」
こんな話を聞いたことがある。
理科の授業で、学習するはずだ。
川の働きを、浸食、運搬、堆積に分けて。
上流、中流、下流の流れの違いや地形とのかかわりで、社会と関連していた気がする。
今はどう教えているのだろうか。
自分が小中学校で教わったときよりも時間数が少ないと思う。
あと実験など、体験的な学習が減ったと聞いた。
中学校の技術家庭科などは、1年通してやらなくなっている。
技術の先生のなかには、のこぎりが引けない先生もいるらしい。
途切れた川の絵は、子どもの実体験不足を象徴していると思う。
だが、実体験だけが人間の豊かさだろうか。
これからの時代、もしかすると川が途中で途切れていても良くなるのかも知れない。
自分は昭和の人間だから、危機感を感じてしまうのだろうか。
子どもたちに実体験をしてほしいと思うが、だからといって自然に触れさせれば解決するのだろうか。
私は身近なところにあって、毎日目に触れるところにある些細な自然を感じ取ればよいと思う。
決して山奥とか離れ小島のような自然がたくさんあるところが良いとは思わない。
心の豊かさとは、どこにいても発見できる観察眼と、自分なりの考えを持つことだと思っている。
水道水と田園風景について思うこと
自宅の水道は本下水の管理費用が上乗せされていて、高い。
だから無駄にしないように使っている。
自分が生まれ育った地域では、小さい頃至る所に湧き水があった。
綺麗な水なので、実際に飲んだりもしていた。
小学生のときにはまだ道路がくねくねと曲がっていて、とてものどかな風景だった。
だが、一斉に耕地整理が始まると、東西南北に真っ直ぐのアスファルトの道路が整えられた。
同時に湧き水はなくなり、その代わりに農業用水路が整備された。
水田には専用のくみ上げ機やバルブが設置され、水を張るときだけ水路の水門を開けて一斉に田んぼに水を張るようになる。
とても合理的で便利になったが、殺風景になった気がする。
水道水は地下250メートルからくみ上げていた。
今の自宅では川の水を使っているようである。上流では工場や家庭の排水を川に流しているため、衛生面が心配である。
おそらく上流の地域よりも不純物が多いはずだ。
飲み水は浄水器を通すようにしている。

いつからこんなに時計だらけになったのか
時計は、時間を知らせる機能を持っている。
置時計の場合は、部屋のインテリアとして調和することも大事だ。
腕時計ならば、ファッションの一部になる。
リビングの壁に掛ける時計だけは、部屋のインテリアとして考えて選んだ。
白壁に溶け込む白地で、文字は細め。
メタリックなアクセントで、淵がない。
我が家には他に壁掛け時計がない。
その代わり置時計がいたるところにある。
また、お風呂の湯沸し器のリモコンと、インターホン、炊飯器にもついている。
スマートフォン、タブレット、パソコンにも時計がある。
音声認識で様々なことを教えてくれるechoにもついている。、
インターネットに繋がった端末は数秒の誤差範囲で常に正確な時間を教えてくれる。
電波時計も普及しているが、時々誤動作を起こしたり、電池切れのときに電波をなかなか拾えなくなったりする。
自分は機能性重視で時計を選ぶ。
腕時計はソーラー充電の針が太いシンプルな時計だ。
どこかにぶつけたり、薬品がかかったりして壊れることが多いので、高級な時計はつけない。
一度もらい物のしゃれた腕時計をしたら、銭湯で水没して動かなくなった。
防水になていたはずなのだが、過酷な環境で使っていたせいか、パッキンが劣化してしまったのかもしれない。
夜中に寝ぼけて時計を読み間違えることがあるので、寝室の時計を光るデジタル時計にした。
本当はこんなに時計に囲まれて生活しなくてもいいはずだ。
いつからこんな風に時計だらけになったのだろうか。
「自在」の境地を目指す
小説、イラスト、その他にもクリエイティブを支える知識を求め、エッセイを書き、コメントなどを毎日書き続けている。
その先にあるのは「自在」の境地である。
自在とは、自分が考えたことを、すぐに形にして、しかも質の高い表現を維持することである。
呼吸するように文字を吐き、イラストを生み出す。
映像、音楽などあらゆるメディアを横断して自在に表現することができたらいいと思って活動を続けている。
できるだけたくさんの人に自分の作品を見てもらうためには、質が高くなくてはならない。
見てもらう方法を考えるのではなく、
見たくなる方法を考えるのだ。
自在の境地に至れば、一日に何本も小説を書くことができるだろう。
植木を切らないと大変なことに
庭の植木を切るとき、どれくらい切るだろうか。うちは分譲地で、近所に同じ植木が植えられている。だからもし手入れをしなかったらどうなっていたかがわかる。とくにケヤキが物凄く育ってしまい、素人には手が付けられない大きさになっていた。
突然落ちてきた枝が頭に当たり、亡くなる人もいる。以前住んでいた家の屋根瓦が落ちて裏の家のオジサンがカンカンになって押しかけてきたことがあるが、木でも同様のことが起こりえる。
庭木が大きくなると、公道に枝が伸び、見通しを悪くする。これが事故のもとになることも予想される。実際近所の角地の家は、植木がぼうぼうに伸びたせいで迷惑をかけているし、路地を猛スピードで走る車がいると、発見が遅れて危険を感じる。
エンジン音がする車ならよいが、最近のエコカーやEV車は音が静かを通り越してまったくしないこともある。まるでステルス戦闘機のように目標に近づいてくる。後ろにEV車がくると、気が付いたときには至近距離にいてヒヤリとすることがある。
植木のせいで事故に合うくらいなら自分で切らせてもらいたいと思う。民法改正によって、催告しても応じない場合は土地所有者が切れることになる。つまり、市道なら市に問合せて対処してもらえる可能性がある。
見通しが悪いので、道路に「とび出し注意」とペイントしてもらったことがある。これについては、市の担当者と1年かけてやり取りして、感情的になる場面もあって、やっと実現した。行政は言った者勝ちである。決して退いてはいけない。
だから庭木は近所と公道にかからない程度には切るべきだ。そして、1年くらいは切らなくて済む程度に切り詰める。だが葉っぱが少なくなると元気がなくなってしまうので、それとの兼ね合いである。
また品種によって強い弱いがあるので、少し切っては様子を見ている。大抵垣根にする品種は生命力が強い。上に伸びられると厄介なので、背が高くて太い枝はノコギリで早めに切っている。中心にある幹を多めに切って枝を残せればベストだ。
入居したてのころは、ツタが茂っていた。植木に絡まったツタをすべて引きはがして抜いたら、植木の量が半分くらいになって笑った。
創作とは作者の手を離れることである
創作するときには複雑さをいつも意識している。複雑とは、ごちゃごちゃと込み入っていることではない。始まりは、ごく小さなことだが、複数の要素が相互に影響し合い、相互作用が無限に拡大していくさまである。
始めからストーリーの流れが明確に言語化できていると、とても淡白なものができてしまう。また流行りの小説の真似をしようとして、同じような展開を考えると、表現力が至らず空中分解する。
クリエイティブに創作することは作者自身にも感動をもたらすものだ。登場人物が思いがけずに死んでしまうと落ち込むし後悔する。また楽しいことを書くと自分も楽しくなる。これを予測してやっていたら感情の起伏は起こらない。読者はもっと白けるだろう。
作品は、あるとき作者の手を離れて自己増殖を始める。文字が勝手に手から紡ぎ出され、ワープロの音が自分のものではないかのように甲高く響くとき、言語の宇宙を漂うような気分になっていく。
ストーリーは予想を超え、山場が必然的に生まれ人間の本質に一瞬触れたときに作者は満足感を得る。
複雑で無限の広がりをもつ空間を一本のストーリーが輝く道筋となってほとばしると、気が付いた時には数万字書き上げている。変換ミス、脱字は後で修正すればよい。肝心なことは創造の言語空間を漂う快感を途切れさせず、解放し散逸する未来をずっと眺めていることである。
詩的な表現や比喩を用いるとき、言葉を文字通りちりばめて思いもかけない情感を生み出す。文字は磁石か、重力を持った天体のように道筋を引っつぱり、ゆるやかに彼方へと向けていく。
その文字の配置と、強さ、大きさが作者と読者が通るであろう道筋を微調整していくのだ。論理的に欠陥があっても、情感という生命があればよい。
1か月かけて推敲する人もいるし、自分もそうすることもありえるが、いつでもそれが功を奏するとは思えない。1発で書いた勢いが大事なときもあるだろうし、感情の昂りが欠かせない創作物もあるからだ。
創作をするということは、散逸する未来と向き合うことである。どのような展開をするのかは書いてみないとわからない。また読者を獲得できるかは、もっと深い謎の彼方にある。そんなイメージをもって創作する行為と向き合うとき、倦怠という最大の障害はやってこない。
何かがあのプロジェクトから変わったよね
三村信二は、フリーランスのデザイナーである。35歳という若さでミラノサローネに出品し、受賞を果たしてからデザイン依頼が次々に舞い込んできている。
デザインの仕事は、ホームページのインターフェイスを考えるものが多い。クライアントが今までにやってきた仕事にまずはダメ出しをする。そして新規の顧客を開拓するため、といってターゲットを変えさせる。
そうすることによって、デザイナーの存在感をアピールできる。もうこのやりかたは定型化していて、どこのデザイナーでもやっているし陳腐である。
またクライアントが素人であることをいいことに、依頼以上の仕事をしてみせることも常套手段である。例えば清涼飲料の販売促進に関する依頼であれば、頼まれた商品をのパッケージと販促戦略の提案をしながら、他のフレーバーを使って味のバリエーションを考え、ネーミング、キャッチコピー、パッケージを提案する。
そして全体をまとめるコンセプトを提案すると、いかにも凄いデザインだという雰囲気を醸し出せる。これもすべて読みの範疇で、特別凄いことをしたわけではない。クライアントは、デザイン料を余計に取られるのではないかとヒヤリとするが、タイミングを計って、
「こちらはサービスでデザインしました。まあ、私にとって趣味みたいなものだと思ってください」
というと、クライアントがニッコリする。そしてこちらはニヤリと笑ってみせる。
すべて台本通りで、デザイナーは大根役者を演じているだけだ。
三村もこんなことをしているデザイナーの一人である。
だが、あるとき難しい案件が飛び込んできた。重度の障害者が人間らしくくらすための仕組みづくりをしてほしい、というものだ。マーケティングという言葉からかけ離れた依頼で、考えるとっかかりがない。まずは、
「人間の幸せってなんだろう」
こんな素朴な問いを考えなくてはならなくなった。
まず大前提として、障害者には健常者と変わらない扱いを受ける権利がある。そして健常者と同じ扱いを受けることを望んでいる。
「障害者に手を差し伸べる」ことは良いことだが、かわいそうだとか、いかにもやってあげていますという態度は厳禁である。あくまでもさりげなくスマートに助けることが大事である。
障害者は何一つ欠けていないし、一人の人間として当たり前の日常を享受するべきだ。
デザインもこのようなコンセプトで考えるべきだろう。
「さりげなく助けるデザイン」は、デザインの本質である。良いデザインは、デザインされていることに気付かせないものだ。かっこいいスポーツカーも優れたデザインだが、プロなら外観からすぐにわからないところに精緻な技術を駆使するはずだ。
書くことに目覚めたとき
「いつかは自分の心に残っていることを書き留めたい」
これはずっと思い続けてきたことである。何度か書き始めようとして、メールで書いてみたり、執筆用のパソコンを用意したりしてみたが続かなかった。
なぜらろうか。
書きたい欲求が足りなかったからではないだろうか。
「自分の仕事を後世に残したい」
という気持がないではないが、それほど強くはない。
「死後価値がでる」
こういう仕事をしても、自分は死んでいるから価値を感じる主体がない。
芸術家だと、こういうことを言ってサマになるが、自分は凡人だ。
負け惜しみに聞こえる。
「どうやって書けば書き続けられるか」
これが問題である。やはり書き続けたい、と内発的な欲求がないと続かない。
つい最近、長年温めていた構想を形にして、本一冊にまとめることができた。
やってみると、ごく簡単なことだった。
「考え過ぎていた」
のである。
勢いで、不完全な文章を書き上げてしまえばよかったのである。
推敲を3回して、最近の文章を研究して読みやすく置換え処理などを、後からすれば完成した。
形式的なことに、こだわっていたことが分かった。
「勢いで書ききる」
これが重要だったのだ。
物語を考えるときには、数人の登場人物を考えて登場させる。
それらの人物の、年齢、性別、服装、見た目の印象、性格、ライフスタイル、住居、資産、家族、生い立ち、好きな色、話し方の癖などを細かく設定する。
すると人物がストーリーを紡ぎ出すのである。
続かないときは、その設定が甘いからである。
こんなことを最近学んだ。
書く習慣をつけるには
「これから毎日1本何かを書こう」
習慣とはこういうものだ。
だが、これが何日続くだろうか。
こういう習慣は3日坊主の元だと思う。
良い習慣とは、緩やかに決めた習慣である。
「今度は何しようかな」
という自分の心の声に耳を傾け、やってみたいと思ったことを優先して実行する。
「HOW TO」を書いた記事や本がよく売れるが、それで実行できる人とできない人がいる。
良い記事に巡り合えればためになるだろう。
だが同じ文章を読んでもキャッチすることが人それぞれ違う。
やたらと「義務」が増えていく場合は、自分とマッチしていないのだ。
文章の書き方とか、小説家講座のようなものを読むと、アカデミックに文体とか原稿用紙の使い方とか、流行りの小説を分析したと思われるコツを書き連ねたものが多い。
これらを読んで自分の糧にできる人はそれでいい。
多分私はできない。
元々、他人に教えてもらったことに旨味があるとは思っていない。
「自分で発見したことは、面白い」
いつもこんなことを考えながら書くことが大事ではないだろうか。
休日には執筆を
「不要不急の外出は控えましょう」
こういわれ続けて1年半が過ぎた。
ICTを勉強するには絶好の機会だったので、仕事で紙ベースにしていたものを電子化した。
映像編集の勉強をして、CBTで資格も取った。
今年の夏から執筆活動を始めたところ、外出を控えているせいか、思った以上に集中して書くことができた。
休日は朝散歩をして、その後はずっとワープロを打っている。
この機会にと、公募を調べたところ最近は投稿サイトがたくさんできていて、公募サイトの中にもかなりの数参入してきている。
昔は封筒に原稿を詰めて送ったものだが、今は自分のIDを持っていればものの1時間で投稿できる。
だからずっと文章を書き続けることができている。
大作であれば自分の住所氏名などを記入してメールフォームで送ることも厭わないが、短編だと煩わしくなる。
制作時間よりも事務仕事の時間の方が多くなるのは納得がいかない。
それで、記事を書きながら長編を書くようになった。
インターネットは社会を変える
「すごいぞ。これで自分が書いた文章を2000人が読むのか」
初めてインターネットをしたのは大学2年生のときだ。
当時は「ネットサーフィン」がインテリ層で流行りだしていた。
大学に通う合間に、インターネットを通じて送られてきた画像を、今のプリクラ写真のように加工するサービスをしていた。
ものすごく最先端の仕事をしているな、と思っていた。
雑誌に特集記事が組まれたし、そのあと爆発的にプリクラマシーンが普及した。
そして、メールマガジンも発行した。
自分の考えをつらつら書くだけのものだが、読者が2000人を超えた。
オフ会も開かれた。
まだ出会い系サイトのトラブルなどが話題になる前である。
何でもありなインターネットの世界は、無秩序で至る所に危険もあった。
掲示板を見ると大抵「死ね」など悪態で埋め尽くそうとする輩がいる。
「これは必ず生活のインフラになる」
と感じていた。
魚は殿様に焼かせよ 投資について思うこと
「日経平均が30,248.81か」
リーマンショックのときに投資を始めた。始めたときは8千円台だった株価がこんなに上がるとは思わなかった。
証券会社に行くのは抵抗があり、銀行の投資信託を買ってしまった。同じ失敗をした人は多いはずだ。
案の定、損が出た。
銀行で買う投資信託は、手数料を何重にもとられる。媒介する銀行と証券会社に2重にとられるのだ。しかもそれが、売るとき、買うとき、その他とられたりすれば、利益を全部相殺どころかマイナスにされる。
しかし、当時現物資産に目を付けていて、金を買った。ユーロの現ナマも買った。こちらは手数料が安い。
金とユーロの利益がかなり出て、投資信託の失敗を埋めて余りあるほどだった。だから銀行を許すことができた。
最近は投資するのが当たり前になりつつある。自国の通貨だけで資産形成しようとするのは、世界中から見れば大変珍しく、とてもリスクが高い。せめて米ドル建てて預金か保険かなにか将来へ向けた資産を積み立てておくべきだ。
投資に関心が高まったのは、銀行に普通預金をしていても、利子がほとんどつかなくなったことと、イデコ(確定拠出年金)などが普及したせいである。
イデコでは、自分で投資する対象を決めて運用する。株でも債権でも定期預金でも、自由に選べる。こう書くと、良いことだと思うかもしれないが、投資をすると損をする人もいる。
つまり、年金を自ら減らす結果になりかねない。
厚生年金や適格退職年金に新規加入できた時代の人は、プロが絶対損が出ないように運用してくれたので安心だった。
素人が投資すると、短期的利益を狙いがちで、大損することもある。東南アジアの会社の株を買って、0円になった知人もいる。
プロは10年後に数パーセント上がる、という具合に考えて分散投資するから失敗しないのだ。
今、投資家の間では円離れが進んでいる。異次元の質的量的緩和(お金を増し刷りして借金を返すこと)を繰り返してきた日本は、日銀当座預金が目を覆うほどの額に膨れ上がっている。
一部ではハイパーインフレを懸念する声が上がっている。少なくとも円が弱くなってきていること、物価が今後も上がり続けることは確かだろう。
物価が上がれば、預金額が変わらなくても相対的に預金が減る。同じ額の買い物ができなくなるのだから。
個人的に究極の投資だと思っているものがある。それは土地と家だ。背伸びをして良い物件を手に入れた。金利が安い今、最長の35年ローンを組み、様々な特典を受けながら暮らしている。
自分が死ぬまで払い続けるわけではない。まとまったお金が手元にできたときに繰り上げ返済してしまえばよい。
良い物件なら価値があまり下がったりしないから、いざとなったら家と土地を売るとか、賃貸することも可能だ。
あと仮想通貨も買った。これも人の性格が出るものである。
大損をだす人は、我慢ができない人だ。売り買いしていじくりまわすので、取引所にたくさんお金をとられてしまう。
上手くいく人は、何があっても「動かざること山の如し」と決め込んでいる。暴落したとき損切りをした人は、仮想通貨をこき下ろそうとする。
だが自分は何もしなかった。コツは「何があっても5年間は手を付けない」と決めることである。たとえ資産が5分の1になっても何もしない。案の定5倍以上に跳ねあがった。
盗難事件があっても「慌てず、騒がず、たじろがず」である。噂話や専門家の意見にも馬耳東風を決め込んだ。
また下がるだろうが、それでも何もしない。
「魚は殿様に焼かせよ」の要領である。
2026年完成予定のサグラダファミリアにもう一度いきたい。
新婚旅行でバルセロナへいった。
ツアーではなく、個人旅行である。
スペインにはいったことがなかったし、ガウディの建築とマドリッドのプラド美術館を一目見てみたいと思った。
サグラダファミリアは、スペインを象徴するランドマークである。
清貧のなかで理想を追うガウディの生き方も人気の秘密である。
海外旅行をするときにはガイドブックと大使館から取り寄せた資料で歴史を調べ、現地のガイドさんに負けないほど勉強してからいく。
バルセロナを拠点として、スペインの新幹線AVEでフィゲラスにもいった。
そこには「チュッパチャップス」のデザインをしたことでも有名なダリ美術館がある。
そしてマドリッドでは念願のプラド美術館にいった。
バルセロナにはグエル公園、カサミラ、カサパトリョなどガウディの建築が観光スポットになっている。
中でもやはりサグラダファミリアが最も印象深い。
内部はふんだんに光線が取り入れられ、教会にわりには明るく開放的な印象があった。
完成して、パイプオルガンが演奏される様子をこの目で見て聞きたい。
火★最近は小学校の理科の実験でホットプレートを使うらしい
「クリスマスと誕生日ケーキのろうそくに火をつけるとき使ったな」
「キャンプとかあれば見るかも知れないけど」
「俺は小さい頃からガスコンロで、即席ラーメン作って食べてたよ」
妻と台所にいるとき、こんな話題がのぼった。
「キャンプ場でカレーでも作りに行くか」
「カレーはキャンプの定番だね」
「キャンプ場へ行けば、材料も道具も全部あるから簡単だよ」
最近の家はオール電化が増えてきた。
我が家もオール電化なので、コンロはIHである。熱するとき赤い電気が光だけで火は出ない。
火事になる心配は少ないだろうが、子どもが火を使うところを見る機会が極端に少なくなってしまった。
「最近は小学校の理科の実験で、ヒーター式のホットプレートが使われてるらしいよ」
「そうなのか。ホットプレートじゃ火が出ないな。そういえば、アルコールランプは安いけど引火する事故が多いらしいね」
「アルコールランプはアルコールの残りが少なくなると、気化したエタノールに引火することがあるらしいね」
「おれが小学校のとき、爆発してアルコールランプの芯が飛んだって聞いたことがある」
「でも、危険があるからといって、経験せずに大人になるのは怖い気がする」
火の怖さを知らないことは、危険を感じないことである。
火傷して熱い思いをしたり、失敗をしないとわからないことがたくさんあるだろう。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!
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