──ティトルーズ暦二十六年、二十のサファイア。
城下町でマントに身を包むアリスと出会った俺は、彼女と共に電車で隣町のブリガへ向かう。その町で行きつけの食事処に着くと、俺と彼女は各々で食べ物を頼んだ。
「お待たせしましたー! さあ召し上がれ!」
しばらくするとドワーフの女店主は元気よく現れ、大きなトレイに載せた食べ物を木造の食卓に並べる。俺の前に置いたのは、トマトスープで浸された浅型のボウルと丸いパンだ。アリスの前にあるのは深型のボウルで、鶏肉とケールの山の上に卵の黄身が載っている。
俺たちは食材への敬意を告げた後、目の前の食べ物に手を伸ばす。俺はスプーンを珊瑚色の液体の中に入れると、豆の雑踏を一気に掬い上げた。それらを口の中へ運んだ時、酸味ともっちりした食感で腹が満たされていく。
スプーンをボウルへ置き去ると、次は隣の皿に載るパンに目を向けた。狐色に焼かれたそれを持ち上げ、両手で引き千切る。するとパリッと音を立て、多少の歪みを見せた。そして酸っぱさを中和するように、甘い味わいが広がっていく。
これこそが豆のスープとパンの組み合わせだ。初めて足を運んだ時から変わらない味。今更『美味しい』なんて言うことはないが、止まらぬ手先が何よりも証拠だ。
「お、美味しい……!!」
同じく舌が唸ったのは、向かいに座るアリス。亜麻色の透き通るソースと黄色の粘液が混ざり合い、窪みから五穀米が垣間見える。
気がつけばアリスはフードを外してしまったが、誰も気に留めていないようだ。それにしても、目を輝かせながら食す彼女もまた魅力的だと感じ──って、何考えてるんだ俺は……。
そんなアリスは目をぱちくりさせながら、俺に他愛ない話題を吹っ掛けてきた。
「先程私達が乗った物が『電車』ですの?」
「そうだよ。あれを魔力で動かすんだが、たまに枯渇して停まるんだよ。今日みたいな日が貴重だ」
「まあ!」
「最初は遅れるたびにウンザリしてたが、今はもう慣れたよ」
「羨ましいなぁ……。私のところなんて、月末に一度は儀式を行わねばなりませんし」
「儀式?」
「はい。ミュール島の住民たちが礼拝所に集い、私に祈りを捧げるのです。この間は盃に入れた聖水をちょっとこぼしてしまいまして、教皇さまに怒られましたの……」
「ま、そんな事もあるよな」
いくら神族と云っても、外面は人間である。初めて会ったときは面倒くさそうな印象を受けたが、こうして見ると親近感を覚えるものだ。気分が更に乗った俺は、彼女にこんな話題を振ってみる。
「旦那とはどんな話をするんだ?」
「うーん……天気の話とか、後は……」
「後は?」
「………………」
黙り込むと云う事は、あまり深い話をしないんだな。アリスは沈黙を隠すように目を泳がすので、話題を変えて俺の話をする事にした。
「俺の親父は悪魔で、おふくろは夢魔。俺と兄貴は親父の血を色濃く継いでるわけだが、兄貴が魔界から消えちまったんだよ」
「……やはり、あの人の弟さんでしたのね」
「前に言ってた『あの人』か?」
「ええ。どうも似ていると思ったら」
脳裏をよぎるのは、二ヶ月前の事だ。俺とアリスは戦いを繰り広げた末、俺が彼女を破る。その時、彼女は俺にこう吐き捨てたのだ。
『どうせあなたも、私を玩具にする気でしょ!? でしたら、此処で殺しなさいっ!』
いったい彼女と兄貴に何があったと云うのか? つか、彼はいま人間界にいるのか? あらゆる疑問が脳内を駆け巡るせいで爆発しそうになる……。
そんな中で質問を投げたなんて、我ながら頑張ったとは思う。けれど、返ってくる答えは決して俺の望むものでは無かった。
「そろそろ教えてくれても良いんじゃねえか?」
「……すみません。十年経った今も、あの事を思い出すと身体を悪くしてしまいますの」
アリスが俯き、とうとうスプーンから手を離してしまう。柄にもなく罪悪感が芽生えた俺は、『もうこの話はやめよう』と胸に誓ったのである。
「……悪いな、それなら無理に話さなくて良い。俺もあいつに嫌な目遭わされたし」
「アレックスさん……」
「良いさ。別に友達になるのに、過去を無理に知る必要なんて無いだろ?」
両手を胸に当て、ハッとしたように俺を見つめるアリス。彼女は口を開き、ある単語を復唱した。
「友達……」
「ああ。種族が違うからってダメな事はねえさ」
「…………はい!」
アリスの口角が緩やかに上がり、嬉しそうに頷く。きっと彼女も友達がいなかったのだろう。……いや、正確に言えば失ったのかもしれない。なんせ、先月に『今は私しかいない』とも言ってたし。
それから俺たちは色んな話をしてみるのだが、彼女の反応がいちいち可愛すぎて困ったものだ。なんせ逐一頷き、尋ねてくるんだからな。きっと俺も顔が綻んでいたに違いない。
食事を終えた後、周囲の客は掃けて疎らとなる。そこへちょうど店主が現れ、取っ手の無いティーカップを持ってきてくれたのだ。ダージリンの香りがムードを高め、友達と恋人の境目を曖昧にしていく。
アリスも空気を悟ったのか、いつもの癖をしたまま俺に上目遣いをしてきた。
「……ねえ、アレックスさん」
「ん?」
「手の大きさ、比べてみませんか?」
甘い声と共に差し出される右手。既に緊張が解れていた俺は、何の躊躇いも無く左手を重ねた。
「っ!」
その刹那に、俺は思わず息を呑んでしまう。
シルクのような触感──それは全ての神経に行き渡り、たちまち心臓を駆け巡る。
精巧な人形にも似た顔立ちは、見つめるだけで胸がはち切れそうだ。
「男の人って、やはり大きいですわね」
「あ……ああ」
今の俺は、変な声が出ていないだろうか? そもそも俺と一緒にいる事自体、彼女にとって迷惑じゃないよな?
不安と期待が入り混じって、吐き気すら覚える。……今までにこんな感情があっただろうか。当時の俺は『女に絶対跪かない』と決めてたのに、どんどん壊れていく気がするのだ。
とうとう俺は、彼女に向かってとんでもない事を口走ってしまう──。
「なあ、次はいつ会える?」
「えぇっ!?」
驚く余り、右手を離してしまうアリス。彼女の頬に赤みがさしているのは紅茶のせいか、俺と一緒にいるからか──もはやそれすら判らない。
しかし彼女は悲しそうな表情を浮かべ、目を逸らしながら答えた。
「それは…………」
その先が、あるように見えない。もし文通でも出来れば良いのだが、そんな事をすれば教皇や旦那にバレてしまうだろう。
だから彼女は、ついに口を結んだ。扉や窓の隙間から入り込む冷風は湯気を奪い、空気を一気に凍らせていく。食器を洗う音も客の話し声も静寂に飲まれ、再び俺らの間で重い沈黙が流れた。
湧き上がるもどかしさを拳の中に押し込め、この冷えた空気を思い切り吸う。
「不気味なことを言って、すまなかった。今のは忘れてくれ」
詫びるなんて俺らしくない。でも、そうしないと一生気まずいままだと思ったんだ。
アリスは顔を上げ、またもや「すみません」と口にする。せっかくの二人きりだと云うのに、『飯を奢る』だけでは何の慰めにもならない気がしてきた。
「アレックスさんは優しいんですね」
「なんでそうなる」
やめてくれ。まるで今生の別れみたいな笑みを浮かべられると、胸が痛むだろ……。俺にそんな事を言ったって、ロクでもない答えしか返ってこないの判るだろ……。
「……また会えると信じていますわ」
「よせって。『二度と会えない』みたいな言い方は……」
「いえ、本当に信じているんです。そう遠くないうちに、ね」
アリスの紡いだ言葉は不思議なもので、本当に実現しそうな気がしてくる。暗闇の中に一筋の光が射し込むように。
お互いティーカップを空にしたので、「そろそろ出るか」と俺から立ち上がる。それからアリスの分も纏めて払うと、彼女と一緒に店を離れた。
「今日もありがとう。ごちそうさまでした」
「いいって」
秋が近くなり、日の入りが早くなった。
フィオーレに戻った俺たちは、再びフードを被ったアリスと共に人気の少ない遊歩道で立ち尽くす。並木は緑と黄金のグラデーションを見せ、足元には二つの影が伸びていた。
思わず溢れたぼやきに対し、アリスが振り向く。
「帰したくない」
「え?」
もしこのまま遠くへ逃げれば、お前をずっと眺めていられるのに。きめ細かい肌や優しい声だって、ずっと感じられるだろう。嗚呼、種族だとか風習だとか……何もかもを棄てて愛し合えたら良いのに。
結局今日も素直になれない俺は、こう言うしかなかった。
「なんでもねえよ。さっさと帰れ」
「……まだそんな口の利き方をするんですね」
アリスが頬を膨らますのも無理もない。もう初めて会った頃と違って、こっちは言い返す気にもなれなかった。
然しながら、さりげなく手を握ってくる辺り俺と同類かもしれない。物憂げな表情をされたら、余計切なくなるってのに。
俺は今、どんな表情をしているのだろう。
そんな事を考えるうちに、彼女の手が離れていく。
そしてアリスは唇を薄く開き──「さようなら」と言った。
振り向きざまに手を振るが、俺は返せなかった。
『引き止めたい』という衝動をポケットに収めていたから。
彼女の姿が小さくなった後、ようやく足が動く。来た道を戻り、何の変哲もないアパルトマンへ向かう事にしたのだ。
ただ、これだけは言わせてくれ。
「お前の気持ち……そろそろ教えてくれよ」
この言葉は、星を照らす茜の空に虚しく呑まれていった──。
『友達』とはよく言ったもので、彼女と一つになるのも時間の問題だった。例えあっちに相手がいようと関係無い。芽生えゆく劣情は、『奪えば全て上手くいく』なんて根拠の無い自信をも生み出すのだ。
次に綴られたものは、俺への好意が確信に変わった事を指す。俺と食事した翌日の出来事だ。
21st.Zaf, A.T.26
ラウクさん、ごめんなさい。
あなたという人がいながら、とうとう違う人で妄想してしまいました。
ましてや、魔族との恋なんて許されないはずなのに。
あの人に『愛されたい』と想ってしまった私はバカだ。最低だわ。
これが恋っていうのかしら。
あれほど教皇さまがたから『関わるな』と教わってきたのに……みんなに知られたらどうしよう。
もうあの時に描いた絵じゃ足りない。きちんと顔を見て、声を聞きたい。
お願い、アレックスさん。こんな愚かな私に早く気づいて。
……彼女は、どんな風に妄想したのだろう。スカートから白い脚を覗かせ、慰める様子が目に浮かぶ。どんなに声を押し殺しても、溢れる想いまでは隠せないだろう。頭の中の悪魔に身を委ねる余り、瞳に涙を浮かべていたに違いない。
もう昔の女だと云うのに、なぜ身体の奥が熱くなるのだろう。俺にはシェリーがいるじゃねえか。
けれど──もう手遅れなんだ。
「シェリー……すまん」
一時の平穏が流れる夜更け。
開かれたページを見つめ、この昂りに手を掛けてしまったのである。
(第七節へ)
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