此処は廃墟と化した城下町──もとい、俺の意識の中だ。デュラハンを倒した俺とシェリーは、霊力回復で触れ合うのを良い事についに秘め事を作ってしまう。
カウンターの前にあった椅子は、脚を壊されたモノもあれば床に転がるモノまで様々だ。正面の棚に並べられた酒瓶だって軒並み粉砕されているし、木材の床には至る所に水垢が広がっている。
意識の中のフィオーレはだいぶ時間が経過しているようで、重心をかけるたびに床が軋みだす。窓ガラスは片隅に穴が出来ており、目線を落とせば透明の破片が散乱していた。
俺たちは横倒しとなったテーブル席の中で、唯一直立したままの食卓を見つける。
そこで俺はシェリーを押し倒し、己の手で優しく慰めてやった。流石に嫌がるかと思ったが……むしろ身を躍らせ、鳥のような啼き声で何度もねだるばかりだ。この卓上に潤いが溢れ、行き慣れた狭い空間を苦い薫りで満たしていく。
俺、ちゃんと『好きだ』と言ってねえのに何してるんだろうな……。この朽ち果てた世界に俺らしか居ないからって、ジャックと何も変わらないじゃねえか。
かといってこの指先で弄ぶ事も、尽くして貰うことも止められなかった。それもこれも全部、この女と出会っちまったのが悪いのだから──。
落ち着きを得ると、俺たちは壁に寄りかかって腰掛けた。程なくして疲れ切った彼女の頭を俺の膝上に載せ、そっと撫で続ける。まさにメルキュール迷宮でしてもらった時と逆の状況だ。
ふしだらな関係になってしまった罪悪感を胸に留めながら、俺とシェリーは会話を交わす。
「これで良かったのか?」
「……はい。覚悟を決めていましたから」
「なら良いんだけどよ」
いくら好みの女とは云え、無理やり襲っても面白くないからな。……マリアの件? それとこれは別だ。
「にしても、なんでこの店に誰もいないって判った?」
「この意識の中に限っては、他人は勿論あなたすら知らない世界。誰もいないのはそのためですわ」
「……ヒトって不思議なもんだよな」
こんな話を聞いたことがある。ヒトの内側には主に四つの領域があり、うち一つには『自他共に知らない自分』が存在するのだ。普通なら勝手に踏み込まれて嫌なはずなのに、何故かシェリーに入られても気にならないんだよな。
それに、彼女と二人きりなら『このまま閉じ込められても良い』とさえ思える。こいつの魔性ぶりには敵わねえよ。
彼女の口角が緩やかに上がり、慈悲深い眼差しを俺に注ぐ。地獄のような景色だと云うのに、此処が何故か天国に思えるのだ。
「ねえ」
「うん?」
「戻ってきた暁には、続きをしませんか? その……あなたさえ良ければですが」
「俺も思っていたところだよ。まあ、このまましても良いんだけどさ」
「私も構いませんが、こんな所で死んでは皆さんも悲しみますから。アレックスさん、くれぐれも責務を忘れてはなりませんよ?」
人差し指で俺の唇に触れ、やんわりと窘めるお前も可愛いもんだ。
そんな風に言われたら、闘争心が湧き上がってくるよ。
「なら、そろそろ此処を出ようか」
「ええ」
シェリーの肩を軽く叩くと、彼女が勢いよく起き上がる。
俺も同じように立つと、戦闘や憩いで少しズレた鎧やベルトを直し始めた。
だが、その時だった。
再び地面が揺れだしたのは。
不思議と物が揺れる事はない。その代わり景色に大きな亀裂が走り、ガラスのように破片が次々と崩れ落ちる。
裂け目から垣間見えたのは、黒雲に覆われた赤い空だった。そこから淀んだ空気が流れ込み、ついに廃墟という世界が崩壊を起こす──。
「此処って、まさか……!」
「ああ、魔界だよ」
足の裏から感じる凹凸の正体は、墨のように黒い岩の地面だ。闇の地平線はどこまでも続いていて、もはや生命の息吹すら感じられない。
この光景を忘れるわけがない。此処で俺は兄貴と殴り合ったんだ。正しくは、あいつが一方的に殺ってきたんだがな。
「! 後ろから何かが来ます!!」
緊迫する声音で知らせるシェリー。彼女の言葉どおり振り向くと、図体のでかい何かが此方に──いや、動くほうが先だ!
俺は彼女の前に立ち、長剣を構える。
巨大な影が疾風の如く迫りくる瞬間、剣を振り下ろそうと──
「うあぁああ!!」
「きゃああ!」
頭のような硬い何かが俺の胸に激突し、俺らの身体が宙へ投げ出される。そのまま地面に叩きつけられるが、俺は痛みを紛らすようにすぐさま立ち上がった。
「なっ、こいつ……デーモンじゃねえか!」
紫色の肌を持つ魔物は三メートル程の身長を誇り、血のように赤い蝙蝠の翼を翻す。贅肉を極限まで削ぎ落とした屈強な肉体は、人間二人を横に並べた時とほぼ同じくらいの幅だろう。六本も生えた手だけ見れば蜘蛛男に似るが、太い腕に視線を移せば明らかに威厳が違う。
今にも裂けそうな口角に尖った牙、睨むような目つき──と、その形相はまさに悪魔だ。角は俺のそれと違って、うねりを利かせながら高く伸びていた。
「こ、こんなの相手にできますの!?」
「弱音は無しだ! 特にこいつの前ではな!」
俺は絶対に忘れない。ティトルーズ防衛部隊に所属していた頃、俺とマスター以外の仲間がこいつに殺されたんだ。
結婚を控えて終始笑顔だったメンバーの顔は粉砕され、他愛ない会話で盛り上がったダチも四肢をぶち抜かれて散っていった。凄惨な記憶が脳裏をよぎり、あの時のように吐き気が込み上がる。
だから彼女にもそんな目に遭わせはしない。
デーモンが動く前に、俺はシェリーにある事を頼んでみる。
「お前の霊術で、俺の筋力を向上できないか? できれば瞬発力も欲しい」
「お安いご用ですわ」
シェリーが両手を重ね、俺の足下で魔法陣が赤く光る。
光の筋が交差するように俺を包み込むと、筋肉が若干膨れ上がり全身が軽くなった気がした。
よし、このまま親父の力を……って!
「何故だ!?」
こんなの聞いてねえよ。清魔法は撃てるはずなのに、魔力を注げねえなんて……!
「もしや、大悪魔の力が……!?」
「ああ、その『もしや』だ。……だったら、このまま殺るしかねえな」
デーモン相手に仮の姿で戦うのは明らかに不利だ。けど、逃げられないなら腹を括るまでだ!
俺がシェリーから力を授かる中、相手も妙な真似をしてきたらしい。燃えるように覆われた紅色のオーラ──それは、彼の肉体がより鋼になる事を指した。
はっ、それが何だ? 今の俺にはシェリーがいる!
長剣を両手に構え、つま先を上げる事でデーモンの懐に迫った!
──グォォアァァァアァァア!!!!!
鼓膜が破れそうな程の咆哮。
不覚にも躓きそうになったが、何とか身体を持ち直し剣を横に振った。
「喰らえっ!!」
刃は水平に弧を描き、デーモンの脛に傷を入れる。しかし、オーラのせいか奴にはあまり効いていないようだ。
下部にある右手が俺を掴もうとしてくる。そこで後方へ転回したのだが、身体が何処か鈍い感覚だった。
振り向けば、二本目の左手がシェリーに近づいている。俺はただちに彼女の元へ戻ると、剣を片手に持ち替え高速で切り刻んだ。剣撃によって指が輪切りとなり、黒い岩肌の上で血溜まりが広がりを見せる。
──グヌゥゥゥウウ!!!
いくらデーモンと云えど、指を切断された痛みには敵わないだろう。
その分の怒りを買うのは必要不可欠だ。
デーモンは全ての手を突き出すと、手前に複数の魔法陣を展開。六つの小さな魔法陣が、中心のそれを囲むように時計回りする。
反時計回りに動く中心が黒く灯り、放射状の光線と稲妻が迸る刹那。
シェリーは例の如く防御壁を展開し始めた。
「あなたなんかに、負けはしませんっ!!」
腹の底から出た声は力強くも、どこか焦燥が見え隠れする。
彼女の怒号に応えるように、結界は更に煌めきを見せた。
しかし、天は非情だった。
結界は黒の稲妻に容易く打ち砕かれ、俺たちは光線に飲み込まれてしまう──!
「「うあぁぁああぁぁああああ!!!!」」
皮膚が張り裂けるような痛みに襲われ、意識が遠のきそうになる……!
そして光線が消えた頃、理性を失いかける程の激痛がじわじわと襲い掛かってきた。
「ぐあぁぁ……! いっ、痛、い……!!」
「くそっ! シェリー……!!」
顔の左半分と眼球が爛れたせいで、もはや目を開けることすらままならねえ。一方で彼女の左脚と右腕からは骨が露出しており、患部を押さえつつも足元が不安定だった。
「そこから動くな。お前は回復に専念しろ!」
「っ……はい…‥!」
生きて帰れるなら、左目ぐらいくれてやる!
なけなしの視界を頼りに、俺は再び突進。動きを見せる手から順に切り裂こうと剣を振るが──
「のわっ!!」
下部から拳が突き出され、自身の顎にとめどない衝撃が襲い掛かる。
その勢いで再び身体が吹き飛ばされて回転すると、硬質な地面に顔と胸を強打してしまった。右の頬に凹凸が食い込み、紅い雫が滴り落ちる。
「よくも、アレックスさんを……! 許しませんわ!!!」
おい! なんであいつも突っかかる!? しかも脚を怪我してるんじゃねえのかよ!! 銃を使うなら遠方が有利だってのに、あの様子はもはや自暴自棄だ。
何としてでも、彼女を引き留めねえと……!
直後。
俺の下半身に錘以上の重圧が押し寄せ、骨の折れた音が鼓膜を支配してきた。
「ぐぎゃぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!!!!!」
脂汗が大量に溢れ、肺に溜まった血が口から押し出される。激痛は俺から思考を奪い、腰より下に掛けて皮膚感覚が一気に失われた。
シェリーが俺の苦鳴で振り向いたとき。
彼女にも悪夢が襲い掛かる。
「ぐは……っ!!」
シェリーの腹部を貫く巨大な杭。
槍のように長いそれは戦闘服を赤く染め上げた後、黒い靄が彼女を包み込む。
「ひ、ぎあぁぁあぁあああ!!!!」
その悲鳴の主が先程まで俺に愛でられた女だと認識するのに、どれ程の時間を要した事だろう。
耳を塞ぎたくなる程に甲高く、
抱き締めたくなる程に辛すぎる。
最も大事な女があんな目に遭ったのは、他ならぬ俺のせいだ──!
黒魔法が体内を支配した以上、シェリーはもう何も見えないし聞こえもしないだろう。俺のような魔族ならまだしも、人間が耐えられるものではない。
デーモンが余る手でその杭を引き抜くと、シェリーの体内から臓物が溢れ出す。土から引き出された作物の如く、赤黒いパーツをあっさりと露わにしたのだ。
シェリーは前に倒れ、左手を俺に向けて伸ばす。
瞳こそ虚ろだが、さっきの声を頼りに求めているのだろう。
けれど、俺はもう歩けねえんだよ……。
情けねえよな。あれだけお前を可愛がっておいて、いざ魔物を前にしてみればこの命はまるで紙みたいだ。
ああ、こんな事なら『好き』って言えば良かった。
大体、この戦禍で『戻ったら』なんて約束するヤツが何処にいるんだ。真の姿になれねえ自分が守れねえ約束をするなよ……。
俺もあいつもバカだ。
それならせめて、彼女の手に触れたまま果てよう……。
「いや……離ればなれに、なりたくない……!」
もうすぐだ。
もうすぐで、俺とお前は地獄で一つになれる。
互いに向けて手を伸ばし、ようやく指先が触れ合った時──。
黄金の光が灰色の世界を覆い尽くした。
温かな粒子が俺の顔を撫でた後、膿んだ傷口を癒やしていく。
それだけではない。粉砕された骨も元に戻り、動かなくなった脚に血が巡っていくのだ。
シェリーはどうだろうか。
四肢を焼かれ、視覚と聴覚を失ったのが嘘かのように回復し始めているではないか……!
これ程嬉しいことは無い。
左目も見えるし、心臓だってしっかり動いている。
今度こそ彼女に伝えよう。
アレクサンドラ・ヴァンツォ。
それが純真な花 隊長の名だ。でも、それ以前に──
「俺は、シェリー・ミュール・ランディの専属騎士だ!!」
閃光!
蒼い花弁が舞い上がる刹那、奇跡が俺たちを立ち上がらせてくれたのだ。
そして光は視界を晴らし、俺らを現実へ引き戻す。
そこには変わらずデーモンが佇んでいたが、満ちみちた自信は俺に剣を握らせた。
「借りはきっちり返さねえとな」
さっきの威勢は何処へやら、デーモンが珍しく慄いているようだ。
こんなチャンス、一生にあるか無いかだ!
「シェリー、俺に力をくれ!!」
「はい、騎士様!」
俺とシェリーは手を合わせ、静かに目を瞑る。
すると、体内に優しい温もりが入り込んできた。
これが霊力か?
なんて温かい力なんだ。こんな状況だってのに、あの女を思い出すじゃねえか……!
『そういえば、あなたのお名前は?』
『アレクサンドラ。長いから“アレックス”で良い』
『アレックス、さん』
夕陽の下、俺と彼女は篝火の前で語り合ったんだ。
『魔』と『神』──決して交わってはならない二つの種族。
俺たちはそんな些細な事も忘れて、ただ互いを見つめ合った。
流れるような白銀の髪を持つ碧眼の女。
女を知らないできた俺にとって、そいつがどれだけ美しかった事か。
だけど、灯りは彼女の左手を輝かせた。
薬指に嵌められた銀の指輪は、あの篝火のように嫉妬心を燃え上がらせたのだ。
耐えきれなくなった俺は。
彼女の肩にこの手を載せ、綺麗な顔に近づいた後──。
……追憶は此処で途切れてしまった。
でも、それで良いんだ。不思議と例の頭痛は無いし、全身はきっちり漲っている。今俺が手にするこの剣も、刃が金色の光に包まれているおかげで何でも破れそうな気がするんだ!
今度こそ俺は地面を蹴り、
全速力でデーモンに立ち向かう!
そして──
ヤツが手を伸ばした瞬間。
天高く跳び、金色の刃を振り下ろす!!
「うぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉおお!!!!!」
縦に伸びる軌道が頭蓋骨を打ち砕き、
魔物の全身を分断!
ついに奴は声を枯らし、敗北を叫んだのだ。
裂け目から色とりどりの花弁が吹き荒れ、彼の肉体を掻き消していく。
この時、俺はようやく口にする事ができた。
「俺たちの勝ちだ」と。
「アレックスさん!!」
彼女が駆け寄ってくる。
それは、ただ霊力を回復させるためでは無い。
今度こそ、恋人として俺の腕に──。
が、世界はまたもや揺れ出したのだ。
もう恐れる俺たちでは無い。
赤黒い空に亀裂が走り、銃弾に撃ち抜かれた窓のように世界が崩壊する。
すると今度は、再びあの青紫に光る空間に戻ってきたのだ。
幾何学模様に灯る直方体の柱も健在だ。
その広大な空間は円形の壁に囲まれており、あたかも誰かと決戦をするような緊張感が漂う。
辺りを見回していると、何処からともなく男の声が響き渡った。
「出来損ないの分際でやるではないか」
郷愁と殺意の双方を生む低声。
その尊大な口ぶりはあの蛇男でも、他の誰かでも無い。
奥に立つのは──漆黒の髪を短くし、悪魔の角と翼を生やす長身の男。
そう、彼こそがヘンリー・ヴァンツォ。
俺の兄貴だ。
(第四節へ)
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