騎士団長ルナと真剣勝負をしてから二日後。俺はアリスの日記を返却すべく王城へと足を運んだ。
「失礼いたします、陛下。ヴァンツォ隊長がお見えです」
執事に連れられて向かった先は執務室だ。そこには大きな格子窓を背に、執務机に向き合うマリアがいた。逆光のせいか、幼さが残る顔立ちから翳りがあるようにも見える。
マリアは羽根ペンをスタンドに挿し込み、執事に「ありがとう」と退室を促す。それから桜色の双眸で見上げると、俺の片手にある紅い書物に視線を注いだ。
「読み切ったのね」
「ああ、おかげさまで大体思い出せた。……その分、頭痛が半端なかったがね」
ドア付近に立つメイドは、「お預かりします」と両手を差し出す。俺から日記帳を受け取った彼女が主に近づくと、主は片手で軽々と受け取った。
「早く動いてくれて助かるわ。あなたの心に関わる事だから、もっと遅くに返ってくると思ったけど……」
「シェリーの助けになれるならどんな事でもするさ。ミュール島にだって付いていく」
「っ!!」
息を呑むマリア。彼女が国王である以上、俺の覚悟が如何なるものか汲み取ってくれるはずだ。
「あなた、それがどれだけ危険な事か判ってるの?」
「判ってるさ。ミュール島の連中は、今も魔族を嫌っている。もし俺がそこにいると判れば、間違いなく摘発するだろう。それでも、彼女を一人にしたくない」
「…………あなたがそこまで言うなら、止めはしないわ。その代わり、無事シェリーと一緒に戻ってきなさい。あの子に何かあったら承知しないから」
マリアは眉根を寄せ、鋭い目つきで俺を見つめる。その表情に一瞬だけ息が詰まりそうになったが、拳を作って何とか声を振り絞れた。
「ああ、どんな処罰も受け入れよう」
「じゃあ、頼んだわよ。ところで、あなたは去年の転移事故をご存知かしら?」
「去年?」
「アルタ川近くの街で、壁と同化してしまった獣人がいたの。騎士団の人たちで頑張って引き抜こうとしたけど、やむを得ず彼の上半身を切断させたわ」
「ヒヤッとするな……」
「原因は、転移するのに必要な霊力量が足りなかったからよ。これでもしシェリーに何かあれば転移は儘ならないし、銀月軍団の壊滅に更に時間が掛かってしまう。いえ、厳密に言えば……身体の一部しか移せないわ。彼のようにね」
「それで……彼は今どうしてんだ?」
「此方で保護してたけど、音信不通なの。彼が不死の存在だった以上、苦痛に耐えきれなくなったのかも」
マリアの話している事は、つまりこういう事らしい。
昨年の転移事故は、必要な霊力量に達していなかったが故に起こったもののようだ。
もしシェリーの霊力解放に失敗すれば、俺たちも被害者と同じ目に遭うかもしれない。だからこそ、俺はミュール島で慎重に動かねばならないだろう。
「忙しいところ、大事な話をしてくれてありがとな」
「それで重要性が判ったなら結構よ。何か訊きたいことは?」
「そうだな……アリスについて色々訊きたい。例えば、彼女の最期だ」
「なかなか大掛かりな事を聞くのね。じゃ、この仕事を終えたら──」
その時、背後から扉を叩く音が聞こえてきた。マリアが「入っていいわよ」と答えると、重厚な扉が軋む音を立てながら開かれる。出入り口に立つのは、厳かに佇むクロエだった。
「失礼致します、コズミシアの者がお見えです。至急、ご対応をお願いしたく存じます」
「今向かうわ。ごめんなさいアレックス、例の件はまた今度」
「ああ。俺もこれで失礼するよ」
コズミシアは、此処から北西にある夜の国だ。おそらく取引か何かで城に来たのだろう。
執務室で立っていても仕方無いので、マリアと一緒に退出する。それから彼女やクロエと別れた後、エントランスに繋がる大階段を降りていった。
庭の噴水を横切り、黒鉄の門扉へ向かおうとした矢先。金髪を束ねた男性──ルドルフ皇配が立っていた。本当なら見て見ぬフリして去りたいところだが、あの位置だと挨拶をせねばならないだろう。
しかし、俺が挨拶する前に彼の方から気付いたようだ。切れ長の碧眼と高い鼻筋がこちらを向き、俺に会釈してくる。彼の手中には、一通の封筒が収められていた。
「銀月軍団の討伐、いつも助かっているよ。少し話をしないか?」
「えっ…………」
俺に話したい事、か……。此処で断っても後々面倒だろうし、ここは素直に同行しよう。
「ああ、忙しかったら良いさ」
「いえ、殿下からのお話を無下にするわけには」
「ありがとう。些細な事だから、この辺を歩きながら話そう」
ルドルフがそう言うと、右手へと歩を進める。新緑の庭園が順々と俺らを迎える中、緊張が俺の心を支配していく。だが、彼が最初に振った話題は意外にも身近な事柄だった。彼は封筒を軽く持ち上げて苦笑する。
「実は旧友から手紙を貰ったのだけど、彼ったら私の名前を未だ間違えるんだ。『Rudolf』なのに、『Radolf』とね。まあ、かれこれ二十年以上の付き合いだ。今は他国に住んでいるから、なかなか会いに行けなくてね」
とりあえず相槌を打っておこう。適当に合わせおけば気分良くしてくれるだろうし。
「ところで、シェリー殿と上手くいってるようだね」
「あ……まあ」
「君がいるおかげで、ミュール島でもきっと暴走せずに済むだろう」
「それは……わかりかねます」
「何故?」
「俺は、彼女の身に厄災が降り掛かる気がしてなりません。だからこそミュール島に向かう際は、自分が彼女に付き添います」
「それだけ覚悟が大きいと云う事だね。ちなみに、君はミュール族が昔と今じゃ慣習が違う事を知ってるかい?」
「聞き及んでおります」
「なら、改めて話しておこうか。昔のミュール族は、魔族との交際──すなわち婚姻が許されなかった。でも、今は違う。彼女がジャックや君と交際するように、自由を主張して今日に至る」
あいつと俺を一緒に並べられるのは癪だが、まあ事実だから仕方ない。
ルドルフは話を続けた。
「島には昔からの慣習に従う者しかいない。つまり、保守派といえば良いのかな。だから、君の素性がバレたらただじゃ済まない。便宜上『保守派』と括ったけど、本来は皮肉が込められている。くれぐれも本人たちの前でそう呼ばないように」
「承知いたしました」
「それにしても、君たちのように仲の良い男女が時に羨ましいよ。私のマリアに対する想いが、一方通行だからね」
「は、はあ……」
「どんなに傍に居ても、私たちの関係は許婚者に過ぎない。こう見えて、私が彼女を抱こうとしても断られるんだよ。キスですら許されない。その度、代わりになれない自分を憎みたくなるんだ」
「代わり……?」
「君なら判るはずだ」
いきなり生々しい話題を振られても反応に困る。どういう意図で俺にそんな話をするんだ?
「まあ、君を任命させたのは正解だったけど、それでも本当に結ばれるわけでは無いんだね。私達は」
「あの、先程から何の話を?」
「シェリー殿が邪魔なのさ。マリアの意識はあの化け物に向いてばかりで、一向に私を見ない。もし彼女らが出会わなければ、私はマリアを独占できたのだよ」
「てめ……っ!!」
ダメだ、此処は怒りを抑えねば──。思わず口走ってしまったが、今殴れば大事になる。最悪、国王に解雇される可能性も有り得るのだから。
それでも苛立ちを堪えるべく、奥歯を噛み締めてしまう。ああ、その我が者顔を見るとムシャクシャするぜ……!!
「俺が隊長に選ばれたのも、そういう理由かよ」
「それだけではない。君の功績と人柄を評価したのも全て本当だよ。それに、どうやら君は女性に飢えているようじゃないか。いったい何が不満なんだい?」
「……お前そのものだ」
「君だって彼女に御神子殿の面影を重ねているのだろう? 汚い部分があるのはお互い様ではないか。君が隊長で正解だったよ。なんせ霊力をしっかり管理した上で、銀月軍団を駆逐しているのだからね」
その言葉は、俺の理性をついにぶち壊した。
地面を蹴り、彼の頬に向かって拳を──。
「止しなさい!!!」
響き渡る女の怒号。それがアイリーンのものだと判った刹那、一気に現実に引き戻された。
私服姿のアイリーンが俺らの元へ駆け寄り、烈しい剣幕で圧を掛ける。しかし、ルドルフはあたかも『自分は悪くない』と言いたそうな口ぶりだ。
「アイリーン、ちょうど良いところに。やれやれ、厄介者の恋人もまた厄介なものだ」
「……殿下は直ちにお戻りください。彼の事は自分にお任せを」
彼女が刺々しい声音でルドルフに指示すると、彼は何食わぬ顔をしたまま去っていく。……最初から最後まで腹立たしい男だ。
アイリーンの視線が俺に移った時、憤りをどうにか心の片隅にしまい込む。だが、彼女の口から漏れた言葉は、決して叱咤の意ではなかった。
「……あの男、またお嬢様の事を……?」
「ああ。マリアちゃんを独り占めしたくて、俺を隊長に任命したともな」
「…………」
暫しの沈黙。夏の小鳥が猛暑を謳う中、俺たちのいる世界だけは時が止まっているかのようだ。
だが、その沈黙を破ったのはアイリーンの方だ。彼女は紅い唇を再び動かし、俺をある事に誘う。
「ねえ。貴方さえ良ければ、一緒にお茶しない? 気持ちは判るけど、少し頭を冷やした方が良いわ」
「……そうだな」
アイリーンは俺に背を向ける傍ら、ウェーブヘアを靡かせる。ヒールの高いサンダルで門扉へ戻った後、門番に開けるよう命じた。
(第五節へ)
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