アルタ川で映画を観た翌朝、私はいつものように台所に立った。もちろん自分のためだけど、何よりアレックスさんのためでもある。私がスクランブルエッグを作れば、彼はその匂いで必ず目が覚めるの。
一緒に寝て、一緒に食べて、それぞれの時間を過ごす。付き合ってまだ四か月しか経ってないけど、この同棲みたいな生活は長い事繰り返してる気がする。
今日もそうだった。一緒に食卓に着き、雑談しながらパンを齧る。そして、彼は隊長としての責務を果たすべく家を出る。戦うだけでなく、街の巡回や戦闘詳報の記入・必需品の調達も彼の仕事だ。──と云っても、マリアも手伝ってくれるからすぐに終わるらしいけどね。
そういうわけで、彼は朝食を終えて玄関に立つ。私も必ずそこに立って、彼の背を見届けるの。
アレックスさんと軽く抱き合った後、雑誌で身に付けたカップルの常識が頭の中を駆け巡る。
「アレックスさんは知っていますか? 新婚の夫婦は、離れる前にキスをするそうですよ」
「……知ってるさ。痛いくらいにな」
私が呪いに掛かっている事を知ってか、彼の笑顔はどこか寂しい。
あの紋章に封じられてから、私と彼はずっとキスしていない。例え何度肌を重ねても、唇の疼きは当分消えないでしょう。私がこうなっているせいで、きっと彼も満足できてないかも……。
その代わりなのか、アレックスさんは別れ際にする事がある。
しばらく見つめ合っていると、彼は片膝をついて騎士としての敬意を表す。それから私の手を取り、甲に優しく口づけるの。
彼はこの手を両手で握り、真っ直ぐな瞳で私を見つめる。その度、この小さな心臓が必然的に弾んでしまう……。
「それじゃ、行ってくるよ。何もしてやれなくて、ホントすまない」
「お気になさらないで! だから……いってらっしゃい、あなた」
「ああ」
彼はドアを開け放ち、家の中で私一人となる。まずは食器洗い──と言いたいところだけど、彼と過ごした翌日についやってしまう事がある。
さっきまで彼がいたリビングに戻り、ベッドに足を掛ける。それから白い布団を手に取り、自身の顔を埋める。鼻腔をくぐるのは、彼の仄かな残り香。香水はつけてないのに良い香りで……でも、ほんの少し混じる汗の臭いがまたクセになるの。
するとね、つい指で唇をなぞっちゃうんだ……。またいつか、あの人とキスできたら──と。
「──っ」
思えば、昨夜は赤ワインに身を任せて愛し合ったっけ……。帰りがけに囁かれたせいで、その時から頭の中がずっとぐるぐるしてた。
思い出しただけで身体の奥が熱くなる……。私は両手で頬を叩いた後、気を紛らすためにテーブルに置いてある本を手に取った。
それは、獣人と少女の純愛物語。仕来りに縛られた少女が国を抜け出し、野生の獣人と一緒に時を過ごすの。少女はまるで前世にそっくりで、獣人もアレックスさんのように優しい。これに何度共感させられたか、もはや数えきれない。
今読んでいるところは、もうすぐ二人が結ばれるところ。まだ三分の二って感じだけど、これからどうなっちゃうのかな。
でも、私の視界に入った内容は──心を抉るものだった。
満月の夜。少女は自国の兵士に追われ、素足で遠くへ逃げた。例え足の裏が血塗れになろうと、命さえあれば良い。彼女は必死の思いで兵士らを撒き、獣人との再会を果たした。
二人の想いはピークに達し、静かに抱き合う。そして彼らは見つめ合い、唇を近づけたの。それも、脚が疼く程の情熱的なキスだ。
愛は激しさを増し、互いを知る事となる。やがて彼らは何度も『好き』『愛してる』と伝え、幸福を叫んだ。……こうなる事は判ってるはずなのに、なんで胸が苦しくなるんだろう。
栞を挟む事なく、思わず閉じてしまう。本を元の場所へそっと戻すと、深く息を吸う事にした。
不覚にも、あの人の笑顔が脳裏をよぎる。その追憶は左腕に僅かな痛覚を与えたけど、今は身を任せようと思った。
「アレックスさん……永遠にあなたを……」
想う事も、伝える事も赦されない。
もし『──────』なんて言えば、私の心臓がまた止まってしまうのだから。
「……神様、呪いに抗う私をどうか赦して。どんな苦痛に苛まれようと、彼への想いは……もう止められないの」
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