俺とシェリーはアルタ川近くの街で昼食を済ませたあと、黄色と橙色に染まる並木通りを歩く。足元はもはやイチョウの絨毯で、踏みしめるたび葉の擦る音が聞こえてくる。シェリーにとってはそれが楽しいようで、心なしか俺より一歩前に出て歩いていた。
そのとき、ほんのり冷たい風が流れ、空色の長い髪を靡かせる。今にも飛びそうなベレー帽を気に留めない様子で、後ろ手を組みながら悠々と歩いていた。優雅に揺れるプリーツスカートは、彼女の可憐さをより引き立たせる。風はそれだけでは物足りないようで、彼女を囲うように枯れ葉の群れで渦を巻き始めた。
俺の恋人は、このまま違う世界に行ってしまうのではないか。
そう思えるほど美しく……どこか寂しい気持ちにもなる。
こんな女を抱き締めない男が何処にいよう?
狭い肩幅を覆うように。ナイフのような風が硝子の肌を傷つけぬように。
そして……彼女に纏わりつく呪いを溶かすように。
左腕に刻まれた紋章を、俺の温もりで消すことはできぬだろうか。
永遠に訪れぬ死を、この手で引き寄せられたら。
共に地獄に堕ちれたら──。
「アレックスさん」
掠れた声で俺の名を呼ぶ少女。彼女はこの想いに応えるように、両手で腕に触れ始めた。
「これからも、ずっとずっと……」
「判ってる。俺も同じ気持ちだ」
振り向きざまに送る目線から、悲しさが伝わってくる。彼女が想いを紡げば、先月のように心臓が止まってしまうだろう。
「再び伝え合える日は、本当に訪れるのでしょうか」
「必ず来る。お前が信じるまで、何度も言い続けよう」
「…………はい……!」
歯痒さを腕に押し込め、強く強く抱き締める。その抱擁は短いようで、長い刹那でもあった──。
俺たちが辿り着いた場所は、アルタ川そのものだ。映画を観る場所が劇場ではない以上、眼前に在るボートとどうも結びつかない。しかし、周囲にいるカップルたちは平然に乗り込む様子だ。
「これからどこに行くんだ?」
「東の方へ漕いでいけば在りますわ」
疑問が晴れぬ中、木造のボートに乗るカップルが入れ替わっていく。それは俺らも例に漏れず、小舟に片足を踏み入れることとなった。
「気を付けろよ」
「はい」
シェリーに手を差し伸べると、彼女は勇気を振り絞るように思い切って身を乗り出した。その反動で距離が一気に縮まり、胸が弾んだのは言うまでもない。
俺は彼女の騎士になれているだろうか。水晶の瞳に問いつつ、姫を真正面に座らせる。それからオールを両手で握り締め、彼らの後をゆっくり追うことにした。
「怖くないか?」
「いいえ」
コートに身を包む彼女は、ただ物静かに俺を見つめるだけだ。恍惚な目で見られるとちょっと照れるが、今は目的地に向かうことに専念しよう。
シェリーは左を向き、街並みを眺めている。この街だって何度も来ているはずなのに、二人で一緒に行くと未知の世界に迷い込んだように感じる。
もう少し技術が発展すれば、俺も彼女と一緒にボートの上で景色を眺められるだろうか。でも、『好きな女のためにオールを漕ぐ』という役目が無くなるのは寂しいことかもしれない。そう考えると、この中途半端な魔術機関と蒸気機関にいきなり感謝したくなった。
そして彼女は思い出したかのように、俺の方を再び見つめる。……いや、俺じゃない。背後から流れる景色を見ているんだ。
「この先に橋があるでしょう? 『そちらをくぐる間に願い事をすれば、必ず叶う』といわれていますの」
背後を確認するがてら、俺も例の橋を見てみる。それは、壮麗な装飾が施された白い橋だ。小さい実像がだんだん迫ると、影が俺たちを呑み込んでいく。その時、シェリーは両手を重ねて目を瞑り、顔を少し下に向けていた。
俺は何を願おう──なんて考えることは一つだし、今更明文化する必要もないな。
やっぱお前は女神にそっくりだよ。神に願う姿も、普段の仕草もほぼ同じ。少し弱まった陽の光が彼女を照らすせいで、四世紀前の別れをふと思い出してしまった。
『こうしてお前と一緒に住めたら良いんだけどな』
『それができるなら、毎日料理を振舞えるのにね』
あれが最初で最後の交合。命を宿すどころか、奪うことも赦されぬまま幕は閉じた。でも、彼女の魂がいま転生者に受け継がれているのは事実なんだ。
だから、今度こそは──。
「もうすぐ着きますわ」
シェリーの柔らかな言葉が回想を遮る。彼女が指差す方を向くと、幾つもの小舟が木々の前で停まっていた。それだけではない。何故か巨大な銀幕が掲げられているのだ。
とりあえずそこに向かえば良いんだな。ちょうど見えそうな場所に移動し、銀幕に対し横向きになるよう調整する。流石に此処まで来れば何となく察しはつくが、敢えて彼女に尋ねてみた。
「もしかして、水上で映画を観るのか?」
「はい! 三年ほど前からこういう催しがございますの。ですが、あの時は水が怖くてずっと行けなかったんですよね……」
どおりで俺が知らないわけだ。カップルたちが観に来るということは、ラブロマンス辺りなのだろう。その手のお話は積極的に観る方じゃないが、恋人と一緒に観れば違う愉しみ方が生まれるかもしれない。
そう思っていると、タキシードを着た一人の男が壇上に上がって一礼する。カップルたちが拍手するので俺もそれに合わせていると、彼は脇にある黒い機械へと足を運んだ。
『待ってくれ!』
銀幕が映すのは、浜辺にいる男女。男は、自身に背を向けた女性に対し叫んでいた。
『俺がお前以外の女に目を向けるわけないだろ。この間あいつは告白してきたけど、俺はきちんと断った。だから、信じてくれないか?』
『…………』
あれほど笑い合っていた男女が、一人の女の存在により別離の道を辿ることとなる。
しかし、男は元恋人への想いを棄ててなどいなかった。腹の底から発する声に、嘘が微塵も感じられない。
そして彼は地面を蹴ったあと、
駆け寄り、手を伸ばし、
華奢な身体を抱き締めにいったのである。
『俺とやり直してくれ』
何故か判らないが、その男女が俺たちと重なったのだ。腕の中にいる女は嗚咽をあげながらも、首を縦に振る。……シェリーとはこんな事起きなかったはずなのに、あたかも自身の記憶に存在しているかのようだ。
二人は見つめ合い、唇を近づける。
『所詮は作り物』と判っていながら、心が温まっていく自分を否定できずにいた。
直後、細やかな肌触りが手の甲に当たる。隣には、銀幕を見つめながらも俺の手を握ろうとする恋人がいた。俺は潤んだ瞳に答えるべく手を肩に添え、ゆっくりと抱き寄せる。
陽が闇に溶け込む最中。
黄昏の中で流れる映画は、俺の心の中に深く刻まれた。
帰りの並木通りは、足元を照らす灯りのおかげで幻想的な世界を魅せてくれる。あれだけ居たカップルは何処にも見当たらず、木々が攫ってしまったと錯覚するほど人気がない。
「はぁ……」
隣を歩くシェリーの吐息が白い。息を吐くなんて誰にもあるはずなのに、彼女のそれは艶があるのだ。もし俺の耳元で同じことをしてきたら、間違いなく襲っただろう。
俺は今、左手をポケットの中にしまい、右手を絡めている。せっかくの雰囲気を大事にすべく、右手に力を込めることで己の欲を抑え込んだ。
しかし、俺の均衡を真っ先に突き崩したのは、ほかならぬ彼女だ。
「ねえ」
色気漂う声が足を止め、振り向かせる。
それから次に放った言葉は、俺の心に確実に火を点けた。
「今晩、私の家に来てくれませんか?」
この誰もいない世界で、その誘惑にどう応える? 無論、『はい』なんて言うわけがない。
彼女の身体を自身の胸の中に引き寄せ、唇を──。
「あっ……!」
喘ぐように声を漏らすシェリー。その声が忌々しき呪いを追想させ、接吻を引き留める。唇が重なる寸前、俺は静かに引き離さねばならなかった。
「…………あのクソ野郎」
苛立ちが込み上がり、ついジャックの顔を思い浮かべてしまう。だがシェリーの困惑気味な目線に勝てぬ俺は、すぐに思考を切り替える事にした。
「晩飯はどうする?」
「その……ワインでも、飲みませんか? 勿論キスはできませんけど……!」
彼女の言葉を遮るように、人差し指で小さな唇を押さえる。それから耳に吐息を掛け、身体の奥に眠る本能を煽ってみせた。
「みなまで言うな。今日も乱してやる」
溢れる願望を抑えるように、脚を擦り合わせる恋人。
手を引いてフィオーレへ赴いた後、余興として優雅な晩餐を愉しんだのだった。
恋人の家で激しく求め合った後は、ベッドの上で寝物語だ。意味もなく天井を見つめていると、同じく一糸纏わぬシェリーが胸元をなぞってくる。酔っているせいか、この時の彼女は少しだけラフな印象を与えた。
「ねえ、アレックスさん」
「ん?」
「アリスと別れてから私と出会うまでの間も、たくさんの女性を抱いてきたんでしょう?」
甘い声が俺をまた興奮させる。しかし、この質問には正直に答えるべきだろうか。俺が人間よりも長く生きる以上、その時々で女を愛してきたことは事実。だからといって恋人の前で『そうだよ』と堂々と答えることも、適当にはぐらかすことも気が引けるのだ。
「……回答に困る」
「ふふっ、別に構いませんよ? 私だって、彼とのそれを話したようなものですから」
思えば、俺はあいつからシェリーとの関係を延々と聞かされたな。それもミュール島にある宮殿の牢獄で。もっと遡れば、シェリーは付き合う前に『忘れられない人』のことを話してくれたのだ。別に細かく話さずとも、その事実だけで察しがつく。
でも俺が彼女の昔話に引かないからといって、自分のことを話したいとは思えない。どの女も常に本気で愛していたとは……限らないからな。
俺が躊躇するなか、彼女の続ける言葉は衝撃を与えた。
「アレックスさん、見てましたよね?」
「何を?」
「私が……フィオーレ遊歩道でジャックと再会した時」
……まさか、シェリーにこんな形でドキッとさせられるとは思いもしなかった。つか、あの時はジャックとの行為に夢中じゃなかったのか!?
「……えっと……」
「うふふ、隠しても無駄ですよ。あなたが付いてきたことも知っていますし」
「じゃあ、なんで俺に話さなかったんだ?」
「あの時は……あなたに話す勇気がなかったから」
まあ、そうだよな。あの時はまだ“隊長と隊員”程度の関係だったし、ただの隊長にプライベートを話すのに勇気が要るのは当然だ。だからこそ俺に付けられて『嫌な気分にならなかったのか』と気になるところだが、『気持ち悪かったですわ!』と笑顔で言われるのは辛いので溜飲しておく。
「その後は、あなたと一緒に帰りましたよね。ちょっと神経を疑いましたが、あんなことをされたせいで……その……家に着いて、から……」
さりげなく貶さないでくれ。色白の胸元に手を添える仕草はすっげぇエロいけど。
当時の彼女がどうしてたかは、後にジャックの霊術で知る事になってしまった。経緯はさておき、こんな良い女に使われるなんて俺も果報者だ。勿論そのまま言うわけにはいかないので、知らぬフリで確認してみせる。
「つまり、そういうことで良いんだな?」
「はい……」
「大丈夫だ。俺も初めて会ったばかりの頃から考えてたし」
「……………ふふふ、あはははははは!」
「な、何がおかしいんだ!?」
普通避けられるはずなのに、なんで笑ってるんだ? でもその笑い声はとても幸せそうで、気付けばつられる俺もいた。
「だ、だってお互い様じゃない、うふふっ。やっぱりアレックスさんは……変態ですわ!」
「うるせえ。お前だって淫乱のクセに」
「ふにゃっ」
俺は上体を起こしつつ、人差し指でシェリーの頬を軽く突いた。それから両足を床に着け、ドアに向かう。
「ああ、そうだ。ついでにお茶でも飲まないか?」
「それなら私が……」
「今日は疲れただろ。俺が用意するよ」
そう言葉を残したあとはドアを開け、廊下の床に落ちたボトムスを拾い上げた。
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