城を出た俺とアイリーンは、以前一緒に立ち寄った喫茶店で奥の席に座った。
木製のカフェテーブルの上に置かれた二つのタンブラー。手前にあるのは、ダークブラウンが基調のアイスコーヒー。その奥にあるのは、飴色に煌めくレモンティーだ。各々に含まれた氷が時に軽やかな音を立てながら、俺たちは控えめな声音で会話をしていた。
「あの男は、お嬢様をただの道具としか見ていないわ」
ブラウスを羽織るアイリーンは長い指先を伸ばし、グラスの縁に嵌められたレモンの輪切りを手に取る。それから軽く絞って透明の雫を数滴垂らすと、静かに縁に戻した。
開け放たれた胸元にサングラスを引っ掛け、谷間を覗かせるアイリーン。真面目な話をしていると云うのに、なぜ心の片隅で衝動と闘わねばならないのだろう。
俺はそんなしょうもない本心を隠し、彼女との会話に徹する。
「如何にもなすりつけみたいで腹が立つんだ。だいたい上級魔術師なら沢山いるってのに、よりによってアング──いや、あの家と結婚とはな……」
『アングレス』という家名を上げようとして急遽濁す。ルドルフが婦人たちに注目されやすいからこそ、より言葉を慎まねばならなかった。
「彼の血統もまた魔術に優れているからね。この国が未だ魔術機関を残す以上、上級の中でも更に優秀な相手を選ばねばならないの」
「お偉いさんって大変だよな……」
「ええ。国民が思うよりもずっと、ね」
ソファーに腰掛けるアイリーンは目線を移し、今日も会話に花を咲かす庶民を一望する。聞こえてくる内容は恋愛話や世間話から、政治や銀月軍団の事まで様々である。
彼女の視線が俺に向いたと思いきや、憂うように落とす。下がった肩はメイド長として働く苦労を示すかのようだ。
「非番の時ぐらいは国の事から離れたいのだけど、そうもいかないわよね」
「俺も同じように思うさ。ところで、休みの日はいつも一人なのか?」
「いいえ、時々義妹とも遊ぶわよ」
「シスター?」
「……ご主人の事ね」
『マリアが笑って過ごせるなら、何度でも立ち上がるわ!』
『……お姉、様……』
これは、まだエレとアンナが力に目覚める前の出来事。吸血獅子と戦う中、アイリーンとマリアは意味ありげな会話をしていたのだ。
アイリーンはきっと、エプロンドレスを脱げば自分の主を『義妹』と他称するのかもしれない。それもそうか。『陛下』と言えば明らかに勤務状態だし、『マリア』と呼び捨てすれば国民から顰蹙を買うだろうから。
彼女は嬉しそうな表情を見せながら話を続ける。
「あの子、ああ見えて街の人たちの作るご飯が大好きなの。だから一緒に外食する事もあるわ。それはもう昔から。いつも美味しそうに食べるから、彼らも大喜びよ」
「あいつが飯を作る事はあるっけ?」
「彼女が作る時は……そうね、『世界が終わる時』と云っても過言では無いかも。あの子がオムレツを作って、お嬢様がケチャップで絵を描いたときと来たら……」
嫌な記憶を思い出したのか、首を横に振るアイリーン。いったいどんなオムレツが完成したんだ?
「相当やべえのかよ」
「『ヤバい』という話では無いわ。名誉国王様がそれを口にした瞬間、三日も寝込んでしまったもの。以降、台所に立つ時は『得意な役割にだけ徹しなさい』と話してあるわ」
「まさか、シェリーちゃんも画伯なのか……?」
「あのセンスはもはや神域かもね。違う国に行けば評価されると思うけど。いずれ拝める時が来るんじゃない?」
……その口ぶりからして、絶対に何処の国にも評価されないヤツだ。怖いもの見たさで是非見たいけども。
恐怖で乾いた喉をコーヒーで潤し、気持ちを落ち着かせる。苦味の中に含まれた僅かな甘みは、今の俺にとってかなりの癒やしだ。
アイリーンもグラスの縁に唇を当て、口の中に紅茶を流し込む。口紅の痕がついたグラスを卓上に置くと、「きっと笑わないと思うけど」と前置きしてきた。
「自分はね、男性も好きだけど可愛らしい女性も同じように好みなのよ」
「クロエちゃんがああなったのも?」
「あの子は前からかもね。仕事もきっちりこなすし、自分のために色々してくれるのも嬉しいけど……ちょっと重いの」
「まあ、『ちょっと』どころじゃないのは伝わってくるぜ」
クロエは黙っていれば美人なのに、口を開ければアイリーンの事ばかり。俺がメイド長と話をする時、いつも罵倒してくるんだよなぁ……。
ふと気掛かりになった俺は、周囲を見回す。此処には鳥人も深緑色の髪の女もいるが、いずれも別人なので安堵の溜息をついた。
「うふふ、大丈夫よ。今日の主な仕事は全部クロエに任せてあるから」
「それなら良かったぜ……」
「色んな子を見てきたけど、やっぱり彼女が一番ね。ああ見えて脱ぐと凄いのよ」
「えっ……」
「気になる?」
そんな話をされて気にならない男を探す方が、遥かに難しいだろう。
思えば、アイリーンがマリアにマッサージするのはかなりまずいんだっけ……。それだけ聞くとマリアが敏感すぎるとも取れるし、アイリーンが故意でやってるとも取れる。いずれにせよ、想像するだけでただのパンを幾つも食えるのは確かだ。
「そういや『昔恋人を階段から突き落とした』ってクロエちゃんから聞いたが、何があったんだ?」
「ああ、あれは大体十二年くらい前の話ね。好きな男の子に告白されたから当時は喜んでたんだけど、いざ付き合うとやぱり修行に目がいっちゃうのよね。そうしたら彼が浮気していたから、頭に来て(階段から)落としてやっただけよ。今思えば、あんな男なんてどうでも良かったのかも。だって、自分はそれ以上にクラスメートの子が気になってたから……」
「じゃあ次はその子と付き合ってたのか?」
「ううん。告白する勇気が無くて、伝えられぬままお別れしちゃった。お友達だったんだけどね」
アイリーンもまたとんでもない過去を持っているものだ。俺も何かの拍子で突き落とされないようにしないと……。
「ところでアレックス、この後も暇?」
「そうだが……どうした?」
「せっかくだから、エク島で必要なものを買い揃えない? 本当はそのための非番なの」
「良いぜ。いくらでも付き合おう」
それから俺とアイリーンは、城下町にある雑貨店や鍛冶屋をまわって必需品を買い揃えた。中には俺らを恋人同士と勘違いする者もいたが、幸い彼女を狙う輩が現れなくて良かったよ。
無事買い物を終えた俺たちは、雑談しながらティトルーズ城へ向かう。彼女を一歩前に歩かせ、俺は全ての荷物を持ち歩く事にした。
「荷物持ちはいつも自分がやってたから新鮮ね」
「こういう時ぐらい、羽を伸ばしてほしいからな」
俺からすればそこそこの重量だけど、女性が持てば苦労する事は想像に難くない。
「少しは気分転換になったか?」
「ええ、おかげさまで。またこうして出掛けたいわ」
アイリーンは突如立ち止まったかと思いきや、俺の手中から一部の布袋を取り上げる。それから軽々と肩に掛けると、デニムに包まれた長い脚を交差させながら歩いた。
「別に気遣わなくて良いのに」
「やっぱり、ある程度持たないと気が済まないの。これも使用人の性ね」
オフであろうと、背筋を伸ばして歩く様はやはりメイド長そのものだ。今後探索の準備をするなら、彼女も誘った方がよりスムーズかもしれない。
城下町をしばらく歩くと、城までの遊歩道に出る。アイリーンが事前に頼んだのか、数両の馬車が道に沿って並んでいる。その周囲には数人の使用人が立ち尽くしており、俺たちを見るや深々と一礼してきた。
「ヴァンツォ隊長、マスター。手荷物は私達がお持ちします」
「ありがとう。じゃ、後は頼む」
俺はお言葉に甘え、近くに立つ執事に荷物を差し出す。苦労一つ見せずに持ち運ぶ様子は、その細い身体からは全く想像がつかない。
また、軽い荷物はメイドに任せた。彼らはティトルーズ王家に仕えるだけあって、凛然とした振る舞いを崩す事は無い。そんな使用人たちが集うのは、ほかならぬ王族の人望あってこそだろう。
アイリーンもいよいよ馬車に乗るようだ。俺が彼女の背を見届けていると、振り向きざまに優しげな笑顔を見せる。
「今日はありがとう。やっぱり、お嬢様が羨ましいわ」
妖艶な声でそう言われた俺の胸は跳ね上がり、しばらく鼓動が高鳴るのだった──。
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